月曜日, 8月 15, 2011

20110815_詩篇132_マタイ18

■詩篇132:13主はシオンを選び、それをご自分の住みかとして望まれた。132:14「これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。
★それは主ご自身が望まれ決められたこと。では「これ」とはどこでしょう。あなたの心と生涯です。それ以外のなにものでもありません。

■マタイ18:15また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。18:16もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
★福音とは、愛とは、聞き、受けとるべきものですが、それだけではないことをここから教えられます。福音は、愛は、受け取ると同時に生きるもの。だから一人ではとてもではありませんが勇気が湧いてきません。けれどもすぐこの後、主は仰って下さいました。「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」と。愛を生きる教会としての人生を選び取りましょう。あなたこそが「教会」であり、希望です。ヒデ

日曜日, 8月 14, 2011

20110814_詩篇68_マタイ17

■詩篇68:4神に向かって歌い、御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。
★聖書は聖霊の助けによって、著者に霊感が与えられて記された書と言われるゆえんがここで垣間見れます。「雲に乗って来られる方」とはキリストの再臨時に起る事ですが、そんな事を全く知らないダビデが何故にこうした詩を、キリストが誕生される1000年も前に預言できたのでしょうか。まさに神様に示されてと言う以外にありません。やがて雲に乗って来られるお方は、今この時「みなしごの父でありやもめのさばき人。また日々、私たちのために、重荷をになわれる主」です。

■マタイ17:1それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。17:2そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。17:3しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。
★この時ペテロは何を言ったらよいか分からずの「私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」と、わけの分からないことを語ったと聖書は記します。何を言っていいか全く分からない程、それほど驚くべき光景をペテロが見たからです。そして彼らが話し合っていたこととは、キリストに託された十字架による贖いについてで、これそこが神様の歴史の焦点、旧約を成就し、新しい恵みの世界を開く扉でした。キリストは十字架で私たちの罪を背負い、神様の怒りを一身に受けられ、今や救いは成就しました。感謝しましょう。受け取りましょう。そして蘇られたキリストと共に、無意味ではない人生を力強く生きましょう。ヒデ

土曜日, 8月 13, 2011

20110813_詩篇139_マタイ16

■詩篇139:23神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。139:24私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
★神様との交わりを待ち望むディボーションの心の備えのために、この詩はまさにふさわしい祈りです。私たちの心は思い煩いやすく、傷つきやすく、そして迷いやすいのです。だからこそ、それらを癒し、希望の心に変える主の愛が必要です。また行くべき道がどこなのかを指し示す神の言葉が必要です。主は言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ5:3)と。あなたは、自分の弱さ、貧しさをありのまま認め、それを主の前に注ぎ出す砕かれた心の備えがありますか。

■マタイ16:16シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」……16:18ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
★ペテロの「あなたこそ……」との告白を聞かれた主は「たとえ死の力でも討ち滅ぼすことのできない、わたしは教会を建てる」と語られました。「教会」とは何でしょう。決して目に見える建物、すなわち「会堂」ではありません。イエス様を「主」と告白するあなた自身が「教会」です。だからあなたが世の光であり、あなたこそが世界の希望です。主はあなたを喜び、誇りに思い自分の者として導いて下さいます。ゆえにその人生を導き完成して下さるのは誰でしょう。主です。だから思い煩い恐れる必要はありません。どんな時にもイエス様を主と告白し続けましょう。
★9-12日、ご奉仕させて頂いたティーンズキャンプの会場、少年自然の家にインターネットの環境がなく配信できませんでした。ごめんなさい。またお祈りを感謝します。ヒデ

火曜日, 8月 09, 2011

20110809_1歴代10_マタイ12

■1歴代志10:13このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、10:14主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。
★イスラエルの初代王となったサウルの生涯の最後の記述です。神様の恵みによって召し出され王となったサウル。しかし彼の生涯は時間の経過と共に主に仕えるそれではなく、神様の前にさえ自らを王とし神とし、我が心に仕えるそれとなりました。与えられた権力は何の為かがぼけたのです。幾度となく神様は彼にチャンスを与え、語りかけを与えましたが、遜り砕かれる生き方を選択しませんでした。さらに彼の特徴はどんな中にも自分の面目を人前で保ちたいとのそれで、ますます悔い改めを困難にし、この生涯の最後となりました。「ごめんなさい」の重みを思います。

■マタイ12:48しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」12:49それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。12:50天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
★イエス様は母マリヤと実の兄弟を否定されたのではありません。それ以上に神様の主権がこの地上においてもなされて行くようにと、それを願いそこに生きようとする一人一人を喜ばれ上記の様に表現されたのです。主は人の足らない部分をあげつらい、その人の可能性を摘み取るお方ではなく、内にある一つの良き志を尊びその人を励まして下さるお方です。あなたはどうですか。ヒデ

月曜日, 8月 08, 2011

20110808_詩篇109_マタイ11

■詩篇109:30私は、この口をもって、大いに主に感謝します。私は多くの人々の真ん中で、賛美します。109:31主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。
★ダビデが主に感謝し、主を褒め称える理由をあげています。主は憐れみなく死刑の宣告をされる者のかたわらに立ち、救い出して下さるお方ゆえ。しかもこれは地上の生涯ばかりではありません。人は一度死ぬことと、死んだ後神様の裁きの座に立つことが決まっていますが、そこであなたを永遠の滅びに定めようとするサタンはあなたを訴えます。しかしイエス様はその訴えに対して「父なる神様、しかし彼は私を信じたのです。そして私は彼の罪のためにも十字架で罪の代価を支払ったのです。ですから彼は天国に入る権利があります」と語って下さいます。そしてあなたは永遠の滅びではなく天国に入ります。

■マタイ11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
★どうすれば本当の安息が与えられるのか、ある人たちは誤解しているかも知れません。安息はただ何もしないで休むことによって与えられるものではありません。あなたのことをあなた以上に知っていて下さるお方の語りかけに聞き、負わせて下さる導きを受け取り、そこに生きるときに与えられるもの。主が負わせて下さるくびきは、あなたの命を引き出し、祝福された関係の中であなたが居場所を見いだせるように助けるものです。さあ主のもとに行きましょう。ヒデ

日曜日, 8月 07, 2011

20110807_詩篇141_マタイ10

■詩篇141:1主よ。私はあなたを呼び求めます。私のところに急いでください。私があなたに呼ばわるとき、私の声を聞いてください。141:2私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。
★主の弟子パウロは愛弟子テモテに「『人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。」ということばは真実です」と書き送り、主も弟子たちが右大臣左大臣の席をかつて競い合ったとき「だめだ」ではなく、偉くなりたいなら仕える人になりなさいと語られました。ダビデも王とならなかったならば上の御言葉ほどに心を注ぎ出す必要は無かったのかも知れません。世的名誉のために立場に憧れる人は多くいるかも知れません。しかしダビデの様に与えられた権威の意味を理解し、仕えるために心を注ぎ出すものでありたい者です。

■マタイ10:29二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。10:30また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。10:31だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。10:32ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
★人の永遠を最終的に決定づける最後の審判。その基準が何かがここには明確です。キリストを認めるか、否か。主とはあなたの全てを知り、あなたに価値を抱かれるお方。そのために十字架の上で罪の代価として、ご自身の命を惜しげもなく注ぎ出されました。信じましょう。感謝しましょう。そして告白しましょう。その時あなたの名は天国のいのちの書に書き記されます。ヒデ

土曜日, 8月 06, 2011

20110806_詩篇63_マタイ9

■詩篇63:3あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。63:4それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。
★ダビデがサウル王を避けてユダの荒野にいた時に読んだ詩です。人の生涯において最も幸せな人とは誰でしょう。自分の命を捨てても惜しくない価値あるものを発見し、それに仕えることのできる人ではないでしょうか。ダビデはそれを発見しました。主です。だからどんな時にも希望を失うことなく試練の中にあっても、このお方の前に心を注ぎ出し、生きることができました。

■マタイ9:17また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」
★何のための新しい皮袋でしょう。ぶどう酒を保つため。ぶどう酒のいのちを保つためです。イエス様がもたらした明確な価値観の一つに、「全てに勝って優先されるものは命」をあげることができます。しかし自分たちの地位の確保を優先に考えた律法学者たちは「なぜ安息日に人を癒すのか」と、人間がつくった言い伝えによって人を縛ろうとします。そもそもルールとはある条件のもと、命が最大限守られるために設けられるべきもので最初にルールありきではないはずです。しかし悲しいかな、多くの場合、機能していないにもかかわらず既にあるルールに人を合わせようとすることが。そのいのちが解き放たれ、最大限輝けるように執り成すのも、新約の祭司として召されたお互いの大切な働きです。ヒデ

金曜日, 8月 05, 2011

20110805_詩篇57_マタイ8

■詩篇57:7神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。57:8私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。
★闇の世界に暁、しののめ、あけぼのを呼び覚ましたいとのこのダビデの決心はイスラエルに新しい価値観をもたらしたいとの思いが込められたものでした。しかも彼がこの詩を読んだ背景は、狙うサウル王を避けて洞穴に隠れていたとき、まさにサウルがそこに入って来たとき。いわば、神様がダビデにサウルの命を「さあどうにでも好きなようにしなさい」と預けた時でした。ダビデの従者は「今です」と語ります。しかしダビデは「神様が油注がれた者を犯してはならない。裁きは神様に委ねるべき」でした。その結果ダビデの時代、王国は統一され平和が訪れました。新しい時代の幕開けです。

■マタイ8:2すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」8:3イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。
★今日のディボーションテーマは「新しい時代の幕開け」でしょうか。山上の説教が終わったとき、一人の人物が切実かつ強い願いをもって主に近づきました。主は彼の願いを聞いて手を差し伸べられます。旧約の律法に従うなら、触れる側の者が汚れるから触れてはならないとされる「ツァラアト」でした。しかし主が手を伸べられた時癒されたのです。なぜでしょう。主の中には形式ではない、いのちが満ちあふれていたからです。それが新約の祭司とされた者の生き方です。与えられた永遠の命は守るためではなく仕えるため。その時、命はますますみなぎり30倍60倍100倍の実を結びます。ヒデ

木曜日, 8月 04, 2011

20110804_詩篇31_マタイ7

■詩篇31:4私をねらってひそかに張られた網から、私を引き出してください。あなたは私の力ですから。31:5私の霊を御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。
★続いて命を狙うサウル王から受ける苦しみの中で読んだダビデの詩です。しかし「私の霊を御手にゆだねます」は、主が十字架の上で最後に語られた言葉でもあります。すなわち聖書は神様の霊感によって書かれた神様の言葉であり、預言の言葉でもあります。それは私たちの生涯においても時にそうした状況に置かれる場合があることと、その時聖書は生きた神様の言葉となって私たちを強めることができるという保証です。人が受けるであろう辛苦をその生涯においてなめられたお方がおられます。あなたは一人ではありません。

■マタイ7:24だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。……7:26また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。7:27雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
★主が山上の説教の結論として語られた内容ですが、人々から最も誤解されて受け取られている聖書の箇所でもあります。問題は神の言葉を人生の土台とするか、しないかではなく、聞いた神の言葉に生きようとするか、しないかです。それによって神様を生けるお方として体験できるか、できないかが分けられ、生涯は全く違ったものとなるのです。神の言葉に生きようとするあなたを助けようと待って下さっている聖霊様があなたの内におられます。ヒデ

水曜日, 8月 03, 2011

20110803_詩篇17_マタイ6

■詩篇17:1主よ。聞いてください、正しい訴えを。耳に留めてください、私の叫びを。耳に入れてください、欺きのくちびるからでない私の祈りを。17:2私のためのさばきが御前から出て、公正に御目が注がれますように。
★命を狙うサウル王が、自分が潜んでいる洞窟に入って来ても殺さなかったダビデの価値観を見て取れる詩篇です。「どんな暴君であろうと神様が油注がれている者の命にどうして触れることができようか。そして報復は自分のすることではなく。神様がなさること」。その結果が上の祈りとなりました。ここからあくまで神様に委ねるべきものは何かを学びましょう。合わせて心を神様の前に注ぎ出すことをも。

■マタイ6:33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。6:34だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
★すべて添えて与えられる人生があります。その生き方とは日々、自分が負うべき仕事、果たすべき責任を神様に聞き、それを行動に移す生き方です。神様のお考えがどこにあるかを知るためには、日ごとに御言葉に耳を傾け、それを受け取る必要があるでしょう。また示される神様のお考えは多くの場合、自分の力だけではなし得ないもの。ゆえに「神様助けて下さい。力を与えてください。あわれんで下さい」との祈りが生まれます。その時主は、人にはなし得ないことを、あなたに成し遂げさせて下さって、ご自身の栄光を現わして下さると共に、驚くばかりの祝福をあなた注いで下さいます。その中にきっと全ての必要は恵みとして添えられているはずです。さあ恵みを刈り取る良き種まきをはじめましょう。ヒデ

火曜日, 8月 02, 2011

20110802_詩篇34_マタイ5

■詩篇34:18主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。34:19正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。34:20主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。
★依然サウル王のダビデに対する妬みと殺意は続きます。その中でダビデはイスラエルに居場所を失い、気が違った者として、あえて隣国である敵の手に陥ることさえしなければならない状況でした。何という屈辱。しかしダビデの主への確信が上の詩篇には描かれます。神を畏れる者の人生は、恵みを受けると共に、神の国の拡大のために召し出された改革者のそれです。よって悪しき霊と力があなたを倒そうとして近づくのも事実です。その中で「御心が天になるごとく、地にもこの私を通してなさせ給え」と祈るものは幸いです。主がその人を守られます。

■マタイ5:14あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。……5:17わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
★主が十字架上で「全てが完成した」と息を引き取られたとき聖所と至聖所を隔てる幕が人手によらず裂け、地上から至聖所が消え去りました。しかしそれは神様の臨在が至聖所にではなく、信じる者の心に宿るように変えられた律法成就の瞬間です。あなたはもはや主の臨在をもたらす祭司。祝福の祭司であり至聖所です。主はあなたが手を伸ばし、心を砕き、人々を祝福し癒すことを願っています。「あなたがたは世界の光です」とはその意味です。主が遣わして下さった所で主を見あげましょう。そして輝きましょう。祭司として。ヒデ

月曜日, 8月 01, 2011

20110801_詩篇59_マタイ4

■詩篇59:1わが神。私を敵から救い出してください。私に立ち向かう者が届かぬほど、私を高く上げてください。59:2不法を行う者どもから、私を救い出してください。血を流す者どもから、私を救ってください。59:3今や、彼らは私のいのちを取ろうと、待ち伏せています。力ある者どもが、私に襲いかかろうとしています。主よ。それは私のそむきの罪のためでもなく、私の罪のためでもありません。
★イスラエルに大いなる勝利をもたらしたダビデ。それを喜ぶ民衆。その時王サウルの中にはゴリアテを倒したダビデに対する妬みと殺意が渦巻きます。そして実際に命を狙われるその苦しみの中で、ダビデは上の詩を神様にささげます。あなたにも本当の苦しみを隠すことなく訴えることのできるお方がいらっしゃいます。神様はあなたの避け所です。

■マタイ4:5すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、4:6言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
★イエス様を公生涯前に倒そうとするサタンの誘惑の場面です。人は誰でも本物になろうと、それを求めるものは試されるもの。あなたは今誰かから試されていますか。踏ん張り所です。しかし唯一イエス様がどんな場面でもなさらなかったこと。それは「自分が愛されていることを証明するための良き行い」です。そう、主は既に愛されている者として常に行動したのです。あなたも「自分の良き行いによって主の愛を確かめよ」という言う誘惑に耳を貸してはなりません。主はあなたを既に主の誇りの息子、娘とされました。奴隷の霊に生きるようにとだまされてはなりません。ヒデ

日曜日, 7月 31, 2011

20110731_1サムエル18_詩篇11_マタイ3

■1サムエル18:1ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。
★ヨナタンとはサウル王の後継者となる息子です。しかし聖書は更に彼の行動について「18:4ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。」と紹介します。なぜでしょう。彼もダビデ同様純粋な思いで神様を愛し、民を愛していた為です。彼らは等しく自分の地位の保全よりも民に心を向ける指導者でした。ある人が言いました。「あなたの友達を紹介して下さい。そうすれば私はあなたがどんな人か言い当てましょう。」類は類を呼びます。あなたの友は何に心を注いでいる人ですか。

■マタイ3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。3:17また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
★洗礼者ヨハネとイエス様の出会いの箇所です。イエス様はヨハネから洗礼を受けると聖霊が鳩のように下り、「これは私の愛する子」と、その語りかけを聞きました。父なる神様のお墨付きとは誰でしょう。イエス様です。このお方に従うなら間違いありません。そしてヨハネはヨナタン同様、自己保全に動くものではなく神様の御心を優先し、キリストを証しします。自己推薦ではなく他者から推薦してもらえる御国の価値観を理解し、自分の内に受け取り行動することが揺るぎない人生を生きる秘訣です。ヒデ

土曜日, 7月 30, 2011

20110730_1サムエル17_詩篇9

■1サムエル17:45ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。17:46きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
★有名なペリシテ人、巨人兵士ゴリアテと少年ダビデの戦いです。この戦いでダビデはサウル王が与えて下さった鎧を脱ぎ捨て、普段どおり羊飼いとして、使い慣れた石投げ、しかも一発でゴリアテの額に命中させ倒します。雷がとどろくような大声でゴリアテが叫ぶとき、全てのイスラエルの兵士たちはそれに反応し、意気消沈し戦意を失いました。しかしダビデはゴリアテが神様を馬鹿にしたその言葉に反応し、聖なる神様の御名が汚されないようにと、神様により頼みつつイスラエルに勝利をもたらしたのです。人は何に反応するかでおおよそ自らを人の前に明らかにします。あなたの反応は何に対してでしょう。お金ですか。容姿ですか。学歴ですか。健康ですか。地位ですか。私たちの心が少年ダビデの反応と同じそれであれば幸いです。

■詩篇9:19主よ。立ち上がってください。人間が勝ち誇らないために。国々が御前で、さばかれるために。9:20主よ。彼らに恐れを起こさせてください。おのれが、ただ、人間にすぎないことを、国々に思い知らせてください。
★まさに少年ダビデ内にあった神様への聖なる思いがここに。主はその人を尊び、その聖なる思いがまさにその人を造るのです。ヒデ

金曜日, 7月 29, 2011

20110729_1サムエル15-16_マタイ1

■1サムエル16:6彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」と思った。16:7しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
★初代の王サウルは聖絶の問題で罪を犯しますが、「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。」と、なお自らの面目を保とうとします。神様はその時、ダビデを新しい王に立てようと動かれます。その時の基準が上の御言葉です。外見ではなく内側。いかに神様を畏れ、民を愛そうとするか。あなたの内側を見て、酬いて下さるお方がいらっしゃいます。

■マタイ1:19夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。1:20彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
★人間が持つ愛と正義だけでは越えられない課題があります。まさにそのことがここに。ヨセフの苦悩はどれ程だったことでしょう。しかし、神様は正しい人(神様の義と憐れみを求め、そこに生きようとする人)を不思議に助け、真実を不思議な形で明らかにし、その課題を越えさせて下さるお方です。正しく生きようと願うゆえに、苦悩の中にある方がありますか。主を仰ぎましょう。主の助けを求めましょう。主が不思議な解決法を備えて下さいます。ヒデ

木曜日, 7月 28, 2011

20110728_1サムエル14_2コリント13

■1サムエル14:45 すると民はサウルに言った。「このような大勝利をイスラエルにもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。絶対にそんなことはありません。主は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。神が共におられたので、あの方は、きょう、これをなさったのです。」こうして民はヨナタンを救ったので、ヨナタンは死ななかった。
★ペリシテ人との戦いにおいて勝利をもたらしたヨナタン。しかし父サウル王が勝利をえるまで兵士は断食するようにと命じる中、それを知らなかったヨナタンは蜂蜜をなめたため罪に問われ死を求められる羽目に。その時の民の執り成しが上の御言葉です。王であるサウルでも誰であっても間違いは犯すもの。それぞれの立場で神様の御声をどう受け取りますか。

■2コリント13:4確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。13:5あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか──あなたがたがそれに不適格であれば別です。──13:6しかし、私たちは不適格でないことを、あなたがたが悟るように私は望んでいます。
★パウロがあなたに望むこと。それはまぎれもない事実としてキリストあなたの内におられること。あなたは既に、キリストによって与えられた永遠の命によって、生かされています。認めましょう。受け入れましょう。その時あなたは復活の命で輝きます。ヒデ

水曜日, 7月 27, 2011

20110727_1サムエル13_2コリント12

■1サムエル13:11サムエルは言った。「あなたは、なんということをしたのか。」サウルは答えた。「民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。13:12今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」
★時に思いきって行動に移すことは大切な事です。しかし越権行為となる場合は、その動機を探る必要があるでしょう。イスラエルの初代王となったサウルの場合は「民が私から去らないために」との自己保身の為でした。むしろこれがモーセの様に自分の名を「いのちの書」から消し去っても結構です。民を憐れんで下さい、ならどうなったでしょう。お互いは新約の祭司として、はばかることなく人々の祝福を願い、取りなすこと許された者とされました。

■2コリント12:9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
★パウロがこう告白する前に、彼は第三の天にまで引き上げられ、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いた経験がありました。その経験が「私は自分の弱さを誇りましょう」と言わしめました。良い面、強い面のみならず、いざ自らの弱い面や足らない面を受け入れることが出来るためには恵みが必要です。そしてあなたにも現れは異なってもパウロに注がれた同じ恵みが注がれています。ゆえに自分の弱さを誇れる可能性が与えられています。ヒデ

火曜日, 7月 26, 2011

20110726_1サムエル12_2コリント11

■1サムエル12:24 ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。12:25あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。」
★近隣諸国が王制をとり入れるなか、イスラエルも負けじと預言者サムエルにそれを求めます。民の目には王制の方が強固な国としてその目に映ったのでしょう。しかし最も強固かつ命に溢れた国づくりは神様を畏れることが土台で、それは何とも取って変えることのできない真理です。サムエルは自身の最後の勤めとして、それを民に諭します。聖書は目に見えるものは一時的で、目に見えないものこそが永遠に続くと教えます。あなたは、あなたの力と安心の基礎をどこに置いているでしょう。

■2コリント11:14しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。11:15ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。
★サタンの誘惑、攻撃に対して私たちはどんな態度を取ることが望ましいでしょうか。またパウロはなぜサタンの攻撃に怖じ惑わされることなく、主の御心に勤しむことができたのでしょう。それはパウロにはサタンの最後がしっかりと見えていた為でした。「彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります」と。私たちのゴールは既に御国であることを確認しましょう。また今どんな試練の中にあったとしても、それが結論ではなく経過であることを覚えましょう。主はあなたを愛しておられます。そこから必ずあなたを助け出されます。ヒデ

月曜日, 7月 25, 2011

20110725_1サムエル9_2コリント10

■1サムエル9:15主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて仰せられた。9:16「あすの今ごろ、わたしはひとりの人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたは彼に油をそそいで、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救うであろう。民の叫びがわたしに届いたので、わたしは自分の民を見たからだ。」9:17サムエルがサウルを見たとき、主は彼に告げられた。「ここに、わたしがあなたに話した者がいる。この者がわたしの民を支配するのだ。」
★イスラエルの初代の王となるサウルと預言者サムエルとの出会いです。そもそもサウルは父の雌ロバがいなくなったのを尋ねるためにサムエルの元を訪れます。しかしそれは二人を神様が引き合わせようとする為のそれでした。出会いの中に介入し、人を祝福しようとなさる神様がおられることを覚え、一つ一つの出会いを大切にしましょう。

■2コリント10:17誇る者は、主を誇りなさい。10:18自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。
★そもそも自分で自分を推薦する人は、人にしてもらえないから、自分で推薦しようとするのでしょうか。それとも人に推薦してもらっても、それでも物足りないので、なお自分で推薦したくなるのでしょうか。いずれにしても問題であり惨めです。しかもその心は人との比較に向かっています。そして人の評価に心が向かう以上、その心は永久に満たされることはありません。人は誰からの評価を求めるべきでしょうか。主からです。主から評価を頂く時、その心は満たされ納得と満足が与えられます。そもそも主はその愛と真実ゆえ、全ての人が誇りとすべきお方。誇るべきお方を誇りましょう。ヒデ

日曜日, 7月 24, 2011

20110724_1サムエル7_篇72_2コリント9

■1サムエル7:10サムエルが全焼のいけにえをささげていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来たが、主はその日、ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエル人に打ち負かされた。
★ペリシテ人の脅威を感じたイスラエルの民はサムエルに向かって「私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。私たちをペリシテ人の手から救ってくださるように。」と叫びます。そして主はサムエルのその祈りに応えて上の御言葉の通りイスラエルを守ります。あなたは新約の祭司。あなたはあなたが思う以上に神様の前に力ある業をなすために召し出されました。

■詩篇72:1神よ。あなたの公正を王に、あなたの義を王の子に授けてください。72:2彼があなたの民を義をもって、あなたの、悩む者たちを公正をもってさばきますように。
★あなたはどこに自分の身を置いてこの詩を味わいますか。王の子ですか、それとも治められる民としてですか。謙遜ゆえに民としてもよいでしょう。しかし本来は召された祭司として王の子として取りなすべきです。それがキリストに贖われたキリスト者が持つべき新約の価値観です。

■2コリント9:8神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
★ゆえにパウロは「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」と語ります。感謝して自分自身と与えられている賜物をささげましょう。ヒデ

土曜日, 7月 23, 2011

20110723_詩篇77_2コリント8

■詩篇77:10そのとき私は言った。「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる。」
★本当にそうでしょうか。主は「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ」(1テモテ6:16)るお方です。主が変わったのではなく本当のところは私が変わったのを主が変わられたように感じているのではないでしょうか。そうでないとするなら、あなたは喜ばなければなりません。あなたの生涯における主の特別な介入です。その試練の中で錬られるとき、あなたは豊かに神様の栄光を現わす者として出てくるでしょう。夜の明けない日はありません。必ず朝はおとずれます。そしてこの詩篇作者は「77:12私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。」と語ります。

■2コリント8:5そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。
★この章で主の弟子パウロは「8:9あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」と主の愛を紹介し、主の愛に与った者のささげものに対する考えを助言します。ささげるのはまず自分自身です。誰にですか。主にです。人にささげるならあなたはその人の奴隷です。ですから人にではありません。次に主に自らをささげた者として、主への従順の現れとして御心や人に自らを委ねます。この順番と秩序を重んじるとき、あなたは献げ物を通して、今に勝る幾倍ものを祝福を受け取ります。でも本当に価値ある大切なことは、ささげる行為自体で、その結果ついてくる祝福はおまけですよ。ヒデ

金曜日, 7月 22, 2011

20110722_詩篇66_2コリント7

■詩篇66:10神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精錬するように、私たちを練られました。66:11あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰に重荷をつけられました。66:12あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。
★主は時に私たちが願わないところへと私たちを導くことがあります。何の為でしょう。試練を通して私たちの内にある不純物に気づかせ、それを取り除き私たちの内にキリストの形をつくろうとして下さるからです。神様は父としてあなたに関わって下さるのです。試練の時、罪の誘惑に心を閉ざすことは必要です。しかし神様に心を開き、その介入を感謝しましょう。あなたはキリストに似る者として輝きます。

■2コリント7:8あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、7:9今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。7:10神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
★パウロは愛のゆえに道を外したコリントの人々のために直言をもって語りました。あなたは直言してくれる人をお持ちですか。それとも、もはや地上であなたに直言できる人は誰もいなくなりましたか。真実を語ってくれる家族、友、指導者、それは神様が恵みによって下さった宝です。ヒデ

木曜日, 7月 21, 2011

20110721_ルツ3_詩篇64_2コリント6

■ルツ3:13今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、けっこうです。その人に親類の役目を果たさせなさい。しかし、もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられる。とにかく、朝までおやすみなさい。」
★やもめとなったナオミに対する嫁ルツの真実と愛はその地で評判となりますが、はからずもルツが落ち穂を拾いに出かけた畑はナオミの無き夫エリメレクの親類ボアズの畑でした。ルツを幸せにしてやりたい。よき再婚へと導きたいと願うナオミは買い戻しの権利のあるボアズに憐れみを求めるように勧めます。その意志を伝えた時のボアズの反応が冒頭の御言葉です。あなたの良くしている右手の業を左手に教えてはなりません。神様は知っておられます。また人も見ています。神様の前に善を積みましょう。愛はまた普段の行動で証しされるものであることを確認しましょう。

■詩篇64:1神よ。私の嘆くとき、その声を聞いてください。恐るべき敵から、私のいのちを守ってください。

■2コリント6:12あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。
★恵みをいかに受け取るかをテーマとした章です。その結論は感謝してです。そうでなければお互いは自分で自分を縛ることになるとパウロは諭します。合わせて感謝するためには心が砕かれていなければ出来ません。自分で自分を救うことが出来ないことを認め、主の救いを感謝して受け入れましょう。旧約聖書はは高ぶるものは退けられ、遜るもののところに恵みは溢れると語っています。ヒデ

水曜日, 7月 20, 2011

20110720_ルツ1_詩篇61_2コリント5

■ルツ1:1さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。 1:2 その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ。ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。
★この後、ナオミは夫に先立たれ、二人の息子は妻を迎えますが、何とその息子たちも共に死ぬのです。飢饉の中、知恵を出してモアブの地に出かけたナオミ家族。しかし今や夫も二人の息子も失うとは。しかしそれが結論ではありません。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。」と語る嫁ルツを通して、神様の不思議が始まります。あなたは「なかなかの名案」と思ったことが失敗に終わり、そんな決断をした自分を責めたり、諦めたりしていることはないですか。たとえそうしたことがあっても言えることは、それが結論ではないと言うことです。神様は憐れみ深いお方、不思議をなさるお方です。

■詩篇61:2私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。

■2コリント5:17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
★主の救いにあずかる豊かさが鮮やかに語られます。その立場も、私たちを内側から動機づける思いも、あるいは受け取るべき使命も全く新しくされたのです。今や神の家族の一員であり、私のためにではなく、死んでよみがえった方のための人生となり、和解の使節として遣わされたものとなりました。ヒデ

火曜日, 7月 19, 2011

20110719_2コリント4

■2コリント4:6光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。4:7私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。4:8私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。4:9迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。4:10いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
★苦しみの中で明らかにされるものがあります。私たちの内にあるイエス様の命の輝きです。信仰によって頂いた永遠の命です。信じたお互いは既に永遠の命によって生かされています。永遠の命とは死んでから生きる命ではありません。既に頂いたその永遠の命で信じたお互いは生かされています。だから、試練の時も窮することがないのです。感謝しましょう。主を仰ぎましょう。いよいよこの命によって輝きましょう。ヒデ

月曜日, 7月 18, 2011

20110718_詩篇89_2コリント3

■詩篇89:48いったい、生きていて死を見ない者はだれでしょう。だれがおのれ自身を、よみの力から救い出せましょう。
★まさにその通り。誰もいません。しかし主は同じこの詩篇の中で「わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。わたしは、かつて、わが聖によって誓った。わたしは決してダビデに偽りを言わない。彼の子孫はとこしえまでも続き、彼の王座は、太陽のようにわたしの前にあろう。」さらに「わたしは杖をもって、彼らのそむきの罪を、むちをもって、彼らの咎を罰しよう。しかし、わたしは恵みを彼からもぎ取らず、わたしの真実を偽らない。」と語られるのです。__c19__、あなたは必ず主の真実によって支えられるのです。

■2コリント3:16しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。3:17主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。3:18私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
★旧約と新約、律法と福音の対比が表現されています。ぶどう酒と皮袋はどちらが優先されるべきでしょう。ぶどう酒、すなわち命です。神様から離れた罪人にとって、律法がなければ罪の自覚さえ曖昧ですが、示されたその罪をいざ告白し捨てるならば、十字架から注がれる命は、余すところなく私たちの心に注がれ、私たちを栄光から栄光へと主と同じ姿に変え続けます。あの永遠のいのちを求めて主に近づいた金持ちの青年(マルコ10:22)は下を向き、向きを変えて主から遠ざかりました。しかしあなたは主に向きを変えなければなりません。そして生きるのです。ヒデ

日曜日, 7月 17, 2011

20110717_士師13・16_2コリント2

■士師記16:29そして、サムソンは、宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。16:30そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。16:31……サムソンは二十年間、イスラエルをさばいた。
★ここは旧約聖書の中ではよく知られているサムソンとデリラの話です。特別な神様の選びの中で類い希な力を与えられたサムソン。しかし繰り返し言い寄るデリラに、彼も遂に自らの力の源を証しし、それが元で力を失い捕らえられ両目をえぐられるのです。それにしても聖書はその失敗よりも、彼が士師としてイスラエルを20年さばいたことを大きく評価します。あなたは人の5%の欠けを見て、「これじゃだめだな」と言う人ですか。それとも「95%もできたじゃない。すごいね」と励ます人でしょうか。神様に倣う者となりましょう。人は必ず同じ計りで計り返されます。

■2コリント2:10もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。2:11これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。
★この手紙の著者パウロは、サタンの巧妙な罠を知っていました。赦すとは自分で正当な裁きをしたいとの思いを明け渡し、神様に裁きを委ねることも含まれます。さばきの思いを握りしめ続けると、いつの間にかサタンの罠に陥ります。手放し、解放されましょう。そして報復は主に委ねるのです。ヒデ

土曜日, 7月 16, 2011

20110716_詩篇50_2コリント1

■詩篇50:14感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。50:15苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」
★苦難の中でしか見えず、考えられないことがあり、苦難の中でなければ問えない自分があります。しかし苦難の中で人とは何かを知ることができることは慰めです。見あげましょう。そこにはあなたを助けようと待って下さっている父なる神様がおられます。人は父と言う存在に受止められて力強い一歩が踏み出せます。

■2コリント1:4神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
★苦難、それは人とはが何かを私たちに悟らせる機会を提供するのみならず、神様の恵みによって、私たちを成熟へと向かわせてくれると聖書は語ります。なぜなら、その苦難を通し、主から注がれる同情、憐れみの霊を私たちが受け取ることができるようになるからです。エペソ書には「4:30神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。4:31無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。4:32お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」と、私たちの目指すゴールが優しさであることを教えます。それこそが本当の苦難であるキリストの再臨を、恵みの中で迎える秘訣です。ヒデ

金曜日, 7月 15, 2011

20110715_詩篇49_1コリント16

■詩篇49:16恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。49:17人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。49:18彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。49:19あなたは、自分の先祖の世代に行き、彼らは決して光を見ないであろう。49:20人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。
★人は何に対して悟りを得る必要があるでしょうか。死後の生です。死んだら終わりではありません。また死後のあとに潜る永遠の世界の評価基準は地上の繁栄とは無縁です。その答えは聖書から見出されなければなりません。

■1コリント16:20すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。
★パウロがコリントで主を信じた兄弟姉妹、すなわち教会にむけて書いた手紙の最後の部分です。コリント地方はそれまで、たとえ同性同士であっても接吻をもって挨拶を交わす文化があったわけではありません。ましてや主人と奴隷が同じテーブルで食事を囲み、接吻することなどあり得ないことでした。しかし最も大いなるものである神様の愛を受けた一人一人、すなわち教会はそれを可能にしたのです。あなたはこの世の文化に飲み込まれるために召し出されたわけではありません。むしろ変革をもたらし、この地に神様の支配をもたらすために召し出されました。愛することを躊躇するのは止めましょう。愛は意志であり、行動であり、犠牲です。ヒデ

木曜日, 7月 14, 2011

20110714_詩篇42_1コリント15

■詩篇42:11わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。
★この詩の著者は「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中『おまえの神はどこにいるのか』と私に言う間。私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。」と告白するほどに、神様を避け所とし、神様を愛する人物でした。ひょっとすると彼がこれほどに神様を愛さなければ、彼はこんな偏見に満ちた苦しみを経験する必要は無かったのかも知れません。しかし彼は神様を愛し、冒頭の告白の様に、主の愛への信頼を自分自身で自分に語りかけ、励まそうとしたのです。あなたは主にあって、自分自身で自分に語りかけ励ますことがありますか。

■1コリント15:10ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。15:11そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです
★復活がいかに史実的、神学的に根拠のあるものか。また世の終わりにおこる再臨がどんな形で現われるのかまで話題を広げるパウロですが、そもそもパウロが「私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」と言うに至った切っ掛けは、冒頭の御言葉です。神様の恵みを受け取るとき人に感謝が生まれます。そしてその人は変わります。将来に対して目が開けます。希望が与えられます。神様の恵みを受け取りましょう。拒んではなりません。ヒデ

水曜日, 7月 13, 2011

20110713_詩篇52_1コリント14

■詩篇52:6正しい者らは見て、恐れ、彼を笑う。52:7「見よ。彼こそは、神を力とせず、おのれの豊かな富にたより、おのれの悪に強がる。」52:8しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。
★サウル王の嫉妬を買い執拗にいのちを狙われるダビデですが、彼が寄り頼んだものが何かここでは鮮やかです。神様の恵みです。それは決して目に見えるものではなく、ある人たちにとってはつかみ所がなく、何の役にも立たないもの、むしろ具体的な力や形をもとめることでしょう。しかしダビデは、神様ご自身、そこから流れる恵み、すなわち神様の愛と憐れみ深さというご性質に寄り頼んだのです。そしてそれを信仰と呼びます。あなたは何に寄り頼みますか。信仰がなければ神様を喜ばせることはできません。

■1コリント14:26兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。
★新鮮なショックを受けた御言葉をピックアップしました。初代教会と現代の教会の姿って同じでしょうか。初代教会は双方向、互いにですが、何か現代の教会は一方通行の気がします。それが教職中心と言われる所以でしょう。私たちはみなキリストに立てられた祭司。お互いに聖書を通して示されていること、導かれていることを自由に分かち合う、こうした交わりは大切です。祈ってください。そして目指し、行動しましょう。こうしたいのちに満ちた教会の姿を。ヒデ

火曜日, 7月 12, 2011

20110712_士師記4_1コリント13

■士師記4:4 そのころ、ラピドテの妻で女預言者デボラがイスラエルをさばいていた。
★ヨシュアの死からサムエルが生まれるまでの200年、主は12人の裁き司を立てられ、軍事的、政治的指導者として用いられます。その中の一人デボラで、彼女は祭司、預言者として活躍しました。そもそも主が先住民を残されたのはイスラエルが本当に主に従うか、でしたが、イスラエルは先住民との妥協の道を選ぶのです。キリスト者はこの世から遊離してはなりません。しかし分離すべき罪からは妥協なく分離しなければなりません。そうでなければ必ず敗北するのです。ヨシュア記は勝利の歴史でしたが、士師記はある面敗北の歴史の繰り返しです。先の事柄に妥協があったからです。主は「この世と調子を合わせてはいけない」と語られます。あなたはこの士師記から何を学ぶでしょう。

■1コリント13:13こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
★昨日、贖われたクリスチャンはみな「みなの益」に聖霊の賜物が与えられていることを学びました。「使徒、預言者、教師、奇蹟を行う者、賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者」とその現れは様々です。しかし、その中で最も大きなもの、また求むべきものは何でしょう。愛です。聖書は「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」と語ります。愛を追い求めましょう。ヒデ

月曜日, 7月 11, 2011

20110711_1コリント12

■1コリント12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
★贖われたクリスチャンに対してパウロは重要な価値観をここで示します。「キリストのからだ」です。それは一人一人なくてはならない存在であり、誰も自分のために存在させられているのではなく、他者を助け、調和の中で大きな働きを成し遂げるためです。そのために聖書は「12:8ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、12:9またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、12:10ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」と語るのです。そして、これらはすべての人に与えられていますが、しかしそれに全ての人が気づいているかは疑問です。理由は御霊の賜物は「みなの益」の為に分け与えられたものなので、その人が今だ、自分自身のために生きようとの、この世の価値観に捕らわれ、貢献に生きる価値を知らなければ、気づけないからです。あなたはもうご自分に与えられた賜物にお気づきですか。ヒデ

日曜日, 7月 10, 2011

20110710_ヨシュア23_詩篇44_1コリント11

■ヨシュア23:5あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたの前から彼らを追いやり、あなたがたの目の前から追い払う。あなたがたは、あなたがたの神、主があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなければならない。23:6あなたがたは、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく断固として守り行い、そこから右にも左にもそれてはならない。
★約束の地での神様に受け入れられる基準は律法に基づく良き行いです。もちろんそれは昔も今もかわりません。ただそれを守れないのが神様との関係の断絶を経験した罪人で、そのためキリストは十字架の上でいのちを賭けた救い、すなわち信仰による救いを特別備えて下さいました。恵みです。信じて受け取りましょう。
りましょう。

■詩篇44:3彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです
★イスラエルの歴史に対する神様の語りかけです。そうです。私たちは神様に愛され、恵みによって持ち運ばれています。

■1コリント11:1私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。
★パウロの言葉に、全く、逃げ誤魔化しを感じません。いのちを賭けて信じたもの。ならば当然そこに生きるべきでしょう。こうして信仰のバトンは手渡されます。あなたは誰からうけ、誰に渡しますか。あなたで留まってはなりません。ヒデ

土曜日, 7月 09, 2011

20110709_ヨシュア21_詩篇47_1コリント10

■ヨシュア21:44主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。21:45主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。
★最後にヨシュアはレビ人の申し出を受け入れて彼らに町と放牧地を割り当てます。こうして全イスラエルは約束の地で安住を得ました。サタンは、神様が何かその愛を出し惜しみするかのようにエバに思わせ、罪を犯させましたが、神様は出し惜しみされることのないお方です。あなたは今欲しいものがありますか。なら遠慮なく申し出て祈りましょう。

■詩篇47:4主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を。主の愛するヤコブの誉れを。
★主はあなたのために働かれても、あなたを利用するお方ではありません。

■1コリント10:13あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。10:14ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
★14節の「ですから」は重要です。どんな試練の時にも神様は必ずあなたを助け出して下さるお方。たとえ八方ふさがりでも、現に上は開いています。ですから、主以外のものに試練の中で寄り頼もうとすることは、主が頼りないので、他の神々に……と、主の力を軽んじ、偶像の前で主を辱めることです。姦淫者になってはなりません。主はあなたを助け出されます。しかも試練の前より、あなたを主の栄光に満ちる者として。ヒデ

金曜日, 7月 08, 2011

20110708_ヨシュア20_1コリント9

■ヨシュア20:2「イスラエル人に告げて言え。わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、のがれの町をあなたがたのために定め、20:3あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる。
★神様がイスラエルに与えようとして下さっている約束の地に、なくてはならないものは何か。それは逃れの場所だと主は語られます。人は誰でも故意ではなくとも過失を犯すもの。その過失に最大限の理解を示し、保護を加えて下さろうとするお方は主ご自身です。神様とは単なる裁き主ではありません。そして、たとえあなたが敵に囲まれ、困難を覚えるような時があっても、あなたは一人ではありません。神様は私たちの避け所であり、悩める時、そこにある助けです。逃げ込みましょう。

■1コリント9:22弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
★主の弟子として自分の立場や能力を最大限注ぎだし、主に仕えた人物の一人としてあげられるのがパウロその人です。そのパウロが抱いた夢は全世界へと及びます。しかし具体的に彼がとった行動は、目の前にいる「幾人か」の祝福です。あなたの生き方は例え風呂敷を広げても、地に足がついたそれですか。聖書はキリストについて「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」と語ります。主とパウロの生き様に倣いましょう。ヒデ

木曜日, 7月 07, 2011

20110707_1コリント8

■1コリント8:12あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。8:13ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。
★コリント地方で起こっていた課題、偶像にささげられた肉を食べるべきかどうかについて、パウロはここで展開します。もちろん食べてよいのです。その理由はすべての食物は祈りによってきよめられますし、唯一の神様以外に実際存在する神はないからです。しかしパウロはその知識を持つ人は、その真理を知っているゆえにあなたは高ぶっていませんかと語りかけます。そしてパウロが問題にするのは自分の良心ではなく弱い良心を持つ人々がそれで躓かないだろうかです。生まれながらの人は、確かにそこにはその人の生育歴の関係もあるでしょう、弱い良心を持つ人と強い良心を持つ人があります。あなたどちらですか。しかしパウロが求めるのは成熟した良心、すなわち自分の為ではなく相手を思いやる良心です。人の目に縛られ自由を失うわけでも、律法主義に逆戻りするわけでもありません。弱いいのちを守るため、愛のゆえに自らの権利をあえて明け渡す生き方です。あなたに与えられた自由をいかに用いるかであなたが何者であるかが明らかになります。願わくはイエスと一緒にいたもの、クリスチャンとよばれる生き方へと導かれますように。

水曜日, 7月 06, 2011

20110706_ヨシュア14_1コリント7

■ヨシュア14:10今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。14:11しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。
★かつてカナン偵察の時、ヨシュアとカレブ以外の者たちは非常に否定的、消極的な言葉を発し、民の心を挫き、荒野において40年放浪する原因をつくりました。しかしカレブはどうでしょう。ここを見ると今なお壮健で神様の恵みに支えられた生活を送っているのを見ます。神様の恵みに応えて積極的、肯定的に応答することの大切さを覚えましょう。その人は不思議な主の祝福の中を歩みます。

■1コリント7:6以上、私の言うところは、容認であって、命令ではありません。7:10次に、すでに結婚した人々に命じます。命じるのは、私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。7:12次に、そのほかの人々に言いますが、これを言うのは主ではなく、私です。信者の男子に信者でない妻があり、その妻がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。7:25処女のことについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみによって信頼できる者として、意見を述べます。
★パウロがいかに言葉を丁寧に使っているかに目を留めましょう。決して自らの思いと考えを神様の言葉と同列に置こうとはしませんでした。どこかの大臣とは違います。信仰と希望と愛。そして与えられた力を自分のためではなく他者を生かし仕えるために用いる人。その人がいつまでも残るのです。ヒデ

火曜日, 7月 05, 2011

20110705_ヨシュア10_1コリント6

■ヨシュア10:11彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主は天から彼らの上に大きな石を降らし、アゼカに至るまでそうしたので、彼らは死んだ。イスラエル人が剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。10:12主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」10:13民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。
★聖書は信じがたいことが起こったと記します。どなたかこの史実性の調査にチャレンジする人はいませんか。しかしもう一つ忘れてはならないこと。それは、心から御心を行おうとする者を神様は人間の常識の枠を越えてまでも助けて下さるお方、と言うことです。果たしてヨシュアの内にある、主に対する信頼と従順がお互いの内に見られるでしょうか。

■1コリント6:1あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。6:2あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
★自分の正義を主張しようとするとどこまでも両者の間は平行線です。時にその中であなたのこだわりが、多くの人の知るところとなり、あなたの心の広さが測られることもあります。願わくはキリストの十字架を仰いで赦しましょう。その問題があまりに大きければ、裁きは主に委ねましょう。いずれにしてもあなたは平和と愛の道を選択するのです。ヒデ

月曜日, 7月 04, 2011

20110704_ヨシュア7_1コリント5

■ヨシュア7:20アカンはヨシュアに答えて言った。「ほんとうに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。私は次のようなことをいたしました。7:21私は、分捕り物の中に、シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て、欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地に隠してあり、銀はその下にあります。」
★約束の地における戦いでイスラエルは初めての敗北をなし、民の心は周りの国民に取り囲まれ殺されるのではないかと意気消沈します。それにしてもその原因は?アカンが欲に溺れ、聖絶のものを自分の天幕に隠し持ち返り、自らを聖絶のものとしたからです。罪に対して曖昧な態度をとる時、自分自身を罪とすることになります。罪には断固拒否です。心に刻みましょう。でなければ祝福は失われます。それにしても、何と僅かなもののことで自分を滅びに追いやったことか。それが罪の誘惑です。罪の芽をどんなに小さくても侮るべきではありません。

■1コリント5:4あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、5:5このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
★パウロは教会内でおこる汚れに対し、教会自体がいわば聖絶のものとならないように上の様に表現します。「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。」もパウロの言葉です。罪についてはあくまで毅然とした態度を取りましょう。それがあなたを守り、相手を生かす、あなたが取るべきスタンスです。ヒデ

日曜日, 7月 03, 2011

20110703_ヨシュア3_1コリント4

■ヨシュア3:15箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが3:16上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。
★イスラエルがエジプトから脱出する時に渡った紅海は、モーセがアロンの杖を海に向かって差し伸べたとき、紅海は川底を見せ、イスラエルはそこを通って脱出したと記します。しかし、いざ約束の地に入ろうとするここヨルダンでは、決して水が引き、川底を確認してのそれではありませんでした。祭司が神様の言葉を信頼して、一歩川に足を踏み入れたその時、水は上流でせき止められたのです。さてあなたはここから何を受け取られるでしょうか。聖書は信仰がなければ神様に喜ばれることはありませんと語ります。

■1コリント4:16ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。4:17そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。
★今ある立場と恵みはキリストによってもたらされたものであるのに、それを無視し、キリストの教えを通り越して、一方にくみし、他方に反対し高慢な生き方をする者たちが起こり、教会に混乱を作り出していました。その時パウロは「私にならう者」と彼らのライフスタイルを問うたのです。福音は知ると共に、生きることを通し人を成熟へと向かわせます。ヒデ

土曜日, 7月 02, 2011

20110702_ヨシュア1_詩篇37

■ヨシュア1:1さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。1:2「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。1:3 あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。
★神様はこの言葉をヨシュアに与えるために30日間モーセの死を悼み、喪に伏し涙する期間を与えられます。もしこの期間がなければ「モーセは死んだ。今、立って……」との励ましに応えることは出来なかったでしょう。また、丁度よいこの時期のこの言葉がなければ、イスラエルの民は立ち上がる機会を逸したかも知れません。与えられたこの期間の何と大きなことか。あなたは新しい決断に歩み出すため、起こった悲しむべき出来事に蓋をし、感情を押し殺すのではなく、十分に涙し、喜ぶことを喜び、泣くことを泣いていますか。主は「私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と語られるお方です。人は強すぎる必要はありません。立ち上がるのはそれからです。

■詩篇37:23人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。37:24その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。
★主の恵みによって支えられ、生かされる人生があります。あなたはヨシュアの様に、深い悲しみをも共に受止めて下さり、さらに「モーセは死んだ、今、立って……」と、あなたを励まして下さる方をお持ちですか。そのお方を知らない人生と、知る人生では全く終着点が異なります。このお方の手に支えられる人生を歩むことを心からお勧めします。ヒデ

金曜日, 7月 01, 2011

20110701_申命33_1コリント2

■申命33:26「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。33:27昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。あなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じた。33:28こうして、イスラエルは安らかに住まい、ヤコブの泉は、穀物と新しいぶどう酒の地をひとりで占める。天もまた、露をしたたらす。33:29しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。」
★エシュルンとはイスラエルの詩的呼び方で、ここははじめの2-5節と対になったものです。そして結局のところ神様のイスラエル全体に対する思いは祝福です。神様の御腕の中に持ち運ばれ、神様の御腕に支えられて歩んだ民が未だかつつてあったでしょうか。あなたは愛されています。あなたの生涯は主の御手の中以外の奈落へと落ちることはありません。

■コリント2:11いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。2:12ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。
★主の弟子パウロはなにゆえに、あれほどの大きな業績を残すことができたのでしょう。それは彼の豊かな知性に基づくものでも、人一倍の熱心でもありません、ただ受けた御霊によるものでした。あなたはこれを認め、聖霊に餓え渇きますか。御霊に満たされることを求めましょう。神様の愛と御力に対する信頼が広がります。ヒデ

木曜日, 6月 30, 2011

20110630_申命31_詩篇40_1コリント1

■申命31:7ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目の前で、彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともに入るのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。
★約束の地を前に「あなたは、このヨルダンを渡ることができない」と主から言われたモーセはそれで腐ることもなく上の御言葉の通りに行動します。ここから人が最後になすべき重要な働きの一つが何であるかが明らかです。バトンタッチです。皆の前でヨシュアを立て、ヨシュアを励ますモーセとは何と偉大な指導者でしょう。バトンが渡されなければ、その働きはそこで終わります。人を育てることがあなたがなすべき最大の働きです。しかしこれも自我を十字架につけなければ出来ないことで、多くの場合、このところで人は失敗します。

■詩篇40:7そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。40:8わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
★子なる神、イエス様はこの祈りを持って受肉なさいました。

■コリント1:9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。
★にもかかわらず「私はパウロにつく」「私はアポロに」、おまけに私はあなた方とは一段格が違うんだと言わんばかりに「私はキリストにつく」と言う者さえ起こってくるとは。この個人的好みで神様の賜物を選り好みし、それに寄りかかり自己実現を目指そうとする依存体質には終止符が打たれなければなりません。私たちを召し出されたのは他でもない真実な神様ご自身なのですから。ヒデ

水曜日, 6月 29, 2011

20110629_申命28_ガラテヤ6

■申命28:11主が、あなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたその地で、主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んでくださる。28:12主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。
★この章では、これから入る約束の地で、主に従う者への祝福と、従わない者への呪いが記されています。その特徴は驚くばかりの祝福か、あるいは恐ろしさゆえに目を覆いたくなるほどの呪いです。と言うことは主に従いつつも試みの中にある人がありますか。その人は格別の主のご愛の御手の中にあると言うことです。いたずらに思い悩み、自分を苦しめるよりも、主の愛に信頼し、主を見あげ、自らなすべきことに力を注ぎましょう。必ず主はあなたを不動の者として練り鍛え、高くあげて下さいます。

■ガラテヤ6:15割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。6:16どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。
★ここで本当の祝福とは何かが明らかにされました。それは変われること。人は命がなければ自分を守るために自分に固執し、変わることは出来ませんし変わりたいとも願いません。それどころかそれをもとめられるなら猛反発の心でいっぱいになります。それが否定し得ないこの世の現実。しかし、主の愛に満たされた者はキリストに似るために変われることが喜びとなるのです。あなたの上に栄光の霊が注がれています。ハレルヤ!ヒデ

火曜日, 6月 28, 2011

20110628_申命26_ガラテヤ5

■申命26:18きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、26:19主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。
★主がここで命じられた律法は悪いものではなくよいもので、約束の地における当然の基準となるべきものです。しかしそこに自分の力では生きれないのが罪人である人間です。しかしここで驚きは「あなたは主の宝の民」の表現の位置づけです。民が律法を守れば「宝の民」でしょうか。いいえ、守る、守らないの前に、既に主は「あなたは宝の民」とイスラエルに宣言しておられます。同様にあなたは「主の宝の民」とされました。

■ガラテヤ5:1キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。5:2よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。
★今朝の申命記と同じテーマです。良き行いは神様に認めて頂くための条件ではありません。良き行いでご主人様に求められるのは奴隷です。ではイスラエルは、そしてあなたは奴隷でしょうか。いいえ。主はあなたを子とするために召し出されたのです。あなたは神様に愛されています。そして赦されています。これは事実です。受け取りましょう。そして、「……しなければ認めてもらえない。だから頑張らざるを得ない」から解放されましょう。むしろ主の愛に対する感謝の応答として神様と人への貢献の人生を歩むのです。ヒデ

月曜日, 6月 27, 2011

20110627_申命23_ガラテヤ4

■申命23:19金銭の利息であれ、食物の利息であれ、すべて利息をつけて貸すことのできるものの利息を、あなたの同胞から取ってはならない。23:20外国人から利息を取ってもよいが、あなたの同胞からは利息を取ってはならない。それは、あなたが、入って行って、所有しようとしている地で、あなたの神、主が、あなたの手のわざのすべてを祝福されるためである。
★ここには「入って行って、所有しようとしている地で祝福されるため」に、神様との関係において、また人との関係において大切なことが何かを告げられます。さけるべき偶像礼拝。衛生面で清潔に保つべきこと。金銭の貸し借りについて等。そして最後に主は「23:24隣人のぶどう畑に入ったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。23:25隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」と貪欲に警戒すべきを告げられます。お互いの生活を吟味しましょう。

■ガラテヤ4:19私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
★この書のテーマは律法と福音です。そして私たちの内にさえキリストの形を造るものは、お互いの内に「赦された。私は主に愛されている」を実感させる福音であることを明確にします。しかし、どうでしょう。その恵みを避けて、元の奴隷生活に惹かれる人があるとパウロは心痛めるのです。自分の行いに寄り頼む生き方の行き着く先は傲慢と滅び。しかし福音に生かされる場合の行き先は感謝と喜び平安です。福音に生かされましょう。ヒデ

日曜日, 6月 26, 2011

20110626_申命20_ガラテヤ3

■申命20:3彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。20:4共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。」
★かつてエジプトを脱出する時も、イスラエルが紅海に面し、後ろからファラオの軍勢が追ってきたとき、主はモーセを通して民に「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」と語られました。ご自身の血潮の代価によってあなたを贖われた主は、あなたのために立ち上がり、あなたを救われるのです。あなたはこれを信じることが出来ますか。できるなら、あなたが今朝やめなければならない肉策、我策はありませんか。

■ガラテヤ3:23信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。3:24こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。3:25しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
★罪についての正しい認識がなければ、人は神様がくださる赦しについて飢え乾きさえおこりません。しかし神様が私の脇において下さった律法ゆえに、私たちは罪の指摘を受け、悔い改め、罪の告白、キリストの救いへの信仰、赦しへと今や至りました。すべてが恵みです。もはや律法のもとに帰る必要はありません。この恵み、キリストにとどまり生きましょう。ヒデ

土曜日, 6月 25, 2011

20110625_申命18_詩篇38_ガラテヤ2

■申命18:6もし、ひとりのレビ人が、自分の住んでいたイスラエルのうちのどの町囲みのうちからでも出て、主の選ぶ場所に行きたいなら、望むままに行くことができる。
★レビ部族の祭司たちは約束の地においても相続地は与えられていませんでした。なぜなら彼らの嗣業は主ご自身だからです。しかし、その働き場については自由なことがここに記されます。その理由は、彼らは各部族に仕えるために召し出されたのではなく、主に仕えるため、しかも唯一なる神様に仕えるために召し出されたからです。この視点が失われると部族主義、現代では教派主義、マイチャーチ主義に陥り、心は内向きになり力を失います。心の向きをこの朝点検しましょう。新約の祭司である私たちは皆、この地上に神様の支配をもたらすために、御国の拡大のために召し出されました。

■38:1主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。……38:4私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。
★主のもとに行きましょう。そこには赦しがありますから。

■ガラテヤ2:14しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。
★パウロは自分のためではなく、福音が曲げられることに怒りました。あなたは何の為に怒りますか。この章の中心聖句「わたしはキリストと共に十字架に付けられた」が、そこで輝きます。ヒデ

金曜日, 6月 24, 2011

20110624_申命15_ガラテヤ1

■申命15:7あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。……15:9あなたは心に邪念をいだき、「第七年、免除の年が近づいた」と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に訴えるなら、あなたは有罪となる。
★こうして主はエジプトから脱出したイスラエルの民は、決して孤立した人の寄り集まりではなく、神様によって召し出された共同体であることを示されます。神様の理想は高いです。召し出されたお互いも、この世の誘惑は強いですが、志を高く、主に愛されているものとして、神の民と共に生きる道を選びとり続けましょう。

■ガラテヤ1:6私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。1:7ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。1:8しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
★主の弟子パウロがこの章で2回繰り返す「その者はのろわれるべき」の真意は何でしょう。福音が福音としてその人の生涯を変革し、祝福するものであって欲しい。そのために正しく伝えられ、また受け取られるものであって欲しいとのそれでした。福音理解において、あなたはそれが腹の底までストンと落ちましたか。ヒデ

木曜日, 6月 23, 2011

20110623_申命10-11_マルコ16

■申命11:26見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。11:27もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、11:28もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。
★約束の地とはエジプト時代の様に自分で種を蒔かなければならないのではなく、山と谷の地であり、天の雨で潤い、多くの果樹が自然に実る地。そう、それは丁度エデンの園のようなところです。その自由な環境で問われるのは何でしょう。それが主への愛です。アダムは、イスラエルは、その恵みの中で失敗しました。あなたの主への感謝はどうですか。自由の中でこそそれが問われます。

■マルコ16:15それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。16:16信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。16:17信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、16:18蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
★これが復活の主が弟子たちに語られた命令と約束です。教会はこれをお題目にするのではなく、生きることが求められています。そうでなければ主が生けるお方であることを体験することは中中困難です。あなたは主をまだ知らない人に手を置いて、その人の祝福のために祈ったことはありますか。ヒデ

水曜日, 6月 22, 2011

20110622_申命8_マルコ15

■申命8:16あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった8:17あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。
★約束の地を前に主が様々にイスラエルを諭す場面でが、その結論は高ぶるならば滅びる、しかも必ず滅びると警告するのです。「私の力ではありません。主の恵みです。」と告白しましょう。自分しか見えない人は「全部私がやった」と言うのを耳にします。しかし神様とまわりの人の支えによって、今日あるを得ていることを悟る人は「私ではありません」と、主に栄光をお返しします。約束の地とは神様が褒めたたえられる地です。その時、あなたに最大、最高の恵みが注がれます。

■マルコ15:33さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。15:34そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
★いざと言うとき自分の救いを最優先にする人には人は救えません。罪のないイエス様です。そして御使いに命じてこの十字架からさえ降りることの出来た、力あるひとり子なる神イエス様です。罪のないこのお方が人類に変わって神様の罰を受け、その罪を一身に担って神様に捨てられる。捨てられるはずのないお方が捨てられ、捨てられて当然の罪人の救いの道が開かれる。これが聖書の救いのメッセージの土台です。すでに裁きは終わったのです。キリストの十字架のゆえにあなたは赦されました。感謝しこの恵みを受け取りましょう。ヒデ

火曜日, 6月 21, 2011

20110621_申命5_詩篇43_マルコ14

■申命5:32あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行いなさい。右にも左にもそれてはならない。5:33あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。
★約束の地を前にしたこの時、主はもう一度イスラエルの民にモーセを通して十戒を示されます。しかもそれは何の為かを明確にして。ただそれはあなたが幸せになるため。人が人として幸せになるためには、人にまさる権威者からの、間違いのない不偏の戒めがあることは幸いです。与えて下さる主の動機は愛です。その愛を受け取って、約束の地で祝福となりましょう。

■詩篇43:5わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。

■マルコ14:36またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
★ゲッセマネの園の祈りです。主がこの祈りで勝利して下さったので、私たちの救いが開かれました。十字架すなわちゴルゴダの前には、霊的ゲッセマネがあります。隠れたところで勝利すれば、公にも勝利できます。主との交わりがいのちです。肝に銘じましょう。ヒデ

月曜日, 6月 20, 2011

20110620_申命4_詩篇36_マルコ13

■申命4:33あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。4:34あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。4:35あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。
★間違いありません。 あなたは神様の選びによって召し出され、導かれ、祝福されています。不思議をなすことのできる生きておられる主が、あなたを愛しておられます。このお方に聞き従いましょう。

■詩篇36:9いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。36:10注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者に。あなたの義を、心の直ぐな人に。

■マルコ13:5そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。13:6わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそそれだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
★戦争に地震、終末の足音を感じます。そこには家庭崩壊も含みます。その時どんな前兆が、との弟子の質問に、主は上のみ言葉を語られます。人に騙されてはなりません。あなたを救いうるのは神たるキリスト以外にないのです。森はかつて無知ゆえ文鮮明に騙されました。どうか愛する人に伝えて下さい。救いは、人となって来られ、その人の為にも十字架にかかって下さったキリスト以外にないことを。お願いします。ヒデ

日曜日, 6月 19, 2011

20110619_申命1_マルコ12

■1:6私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。1:7向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。1:8見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」
★約束の地を前にモーセは、主から民を奮い立たすようにと上の言葉をさずかります。いかがでしょう。「向きを変えて」とは、あなたにも必要な御言葉ですか。チャンスを恵みによって備えて下さるのは主。それを掴むのはあなたです。立ち上がりましょう。その時あなたの前にあるヨルダン川はせき止められます。

■マルコ12:16彼らは持って来た。そこでイエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。12:17するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。
★ご自身を陥れようとした者たちに、主はこれには誰の肖像が彫られているかと尋ねます。カイザルのかたちです。ならカイザルに返せば良い。ではあなたの内はどんな形に似せて彫られているのか。聖書は『神のかたち』に似せて創られたと語ります。主はそれを神様の御心に従ってささげなさいと言われるのです。なぜでしょう。その時あなたの存在が輝くからです。本来の創造の目的が果たされるから。喜びに満たされるからです。ヒデ

土曜日, 6月 18, 2011

20110618_民数35@33-34_マルコ11

■民数35:33あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。35:34あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエル人の真ん中に宿るからである。」
★約束の地とは他でもない、主が真ん中にいて下さる地です。そこがたとえ地獄であったとしても主が共にいて下さるなら天国。そこがたとえ天国であっても、主がおられず、自らを神とする人々が集う場所なら、そこは地獄と変わります。誰と人生を共に歩もうと決断するか、それであなたの人生は決まります。祈りましょう。そして間違いのない選択をしましょう。

■マルコ11:3もし、『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます』と言いなさい。」11:4そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。11:5すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」11:6弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。
★時満ちた主のエルサレム入場の出来事です。主は戦車にではなく『柔和・平和』の象徴であるロバの子を用いられます。幾人かの主人の所有の子ロバですが、彼らはそれを許します。あなた自身はどうですか。あなたと、あなたの生涯を主の働きのために、喜んで明け渡し、所有権を委ねることができますか。所有権の主張の思いは、内側からも外側からも訪れますが、それを主に許すのです。『貢献』の勝利の人生はそこからがスタートです。ヒデ

金曜日, 6月 17, 2011

20110617_民数32_マルコ10

■民数32:2ガド族とルベン族は、モーセと祭司エルアザルおよび会衆の上に立つ者たちのところに来て、次のように言った。32:4これら主がイスラエルの会衆のために打ち滅ぼされた地は、家畜に適した地です。そして、あなたのしもべどもは家畜を持っているのです。」32:5また彼らは言った。「もし、私たちの願いがかないますなら、どうかこの地をあなたのしもべどもに所有地として与えてください。私たちにヨルダンを渡らせないでください。」
★このガド族とルベン族、何と言うことか、親たちの不信仰のゆえに、約束の地をまえに40年荒野に留まることを強いられ、やっと入れると言うこの時に、私たちは約束の地の手前のこの地に留まらせて下さいとは。普通のリーダーならキレルところでしょう。しかしモーセは忍耐深く彼らの考えを聞き、「全ての部族が約束の地で所有を得るまで、私たちは共に戦うことを誓います」のことばに寛容を示します。そりゃ強い信仰に超したことはないでしょう。しかしそれぞれ違うのです。憐れみは裁きに打ち勝ちます。またガド族とルベン族が最後までその責任を果たしたことも省略する訳には行きません。果たしたのです。

■マルコ10:27イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
★聖書は『イエスはじっと見て』と記します。見ていたのは誰ですか。そう弟子たちで、それはあなたです。だから少なくとも自分に関して、自分で自分を見て諦めることはやめましょう。それより立たせて下さり、完成して下さる主を見上げるのです。ヒデ

木曜日, 6月 16, 2011

20110616_民数30_マルコ9

■民数30:2人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。
★この章にはまたこうも記されます。「30:14もし夫が日々、その妻に全く何も言わなければ、夫は彼女のすべての誓願、あるいは、すべての物断ちを有効にする。彼がそれを聞いた日に彼女に何も言わなかったので、彼はそれを有効にしたのである。30:15もし夫がそれを聞いて後、それを破棄してしまうなら、夫が彼女の咎を負う。」と。夫婦も家族も神の家族も、互いに責任を負い合う関係に召されています。かつてアダムの息子カインは弟に「知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」と無関心を告白しましたが、あなたは大切な人たちの願いを知る努力をしていますか。何も言わない無関心、すなわち愛の無さは神の家族にとって罪です。

■マルコ9:38ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」9:39しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。9:40わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。
★「やめさせました」の弟子の言葉は、自分たちこそが正統、正しいとの心の現れでしょう。しかし主は、それがあまりに強いと関係を壊し、働きが進まないことを語られます。またその言葉は視野の狭さの表れです。主は弟子たちの内にあるおごりのためにも祈って下さっているのですね。恵みは水と一緒、低いところ、すなわち謙るものに注がれます。ヒデ

水曜日, 6月 15, 2011

20110615_民数29@40_マルコ8

■民数29:40モーセは、主がモーセに命じられたとおりを、イスラエル人に告げた。
★この29章には、いかに礼拝をささげるべきかの規定、罪の赦しを受け取るために必要な様々な規定等が紹介されていますが、それは全て主が語られたことで、モーセはそれを民に忠実に告げたことが紹介されます。鍵の言葉は「主がモーセに命じられたとおりを……告げた」です。畏るべきお方へのピントがずれたり、自分の力が増し加わるとき、人は残念かな、神の言葉に自らの思いを付け加えたり、差し引いたり、裁判においては、力あるものには必要以上に強く当たったり、弱いものには、たとえ弱いものでも加えてはならない憐れみを加えたりと、コントロールの力が働きます。虐待のはじまりもここからでしょう。地上の誰よりも柔和な人と主から呼ばれたモーセの姿勢から学びましょう。

■マルコ8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。8:35いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
★イエス様はここで明確に自分の命とは何かを語られます。それは守るものではなく使うもの。このことがぼかされると人生の目的である「貢献」から離れ、必要以上の健康志向や個人主義に陥り、空しい人生の終わりを迎えます。ろうそくはいのちをすり減らして輝きます。神様は使い残したお互いのいのちは数えられません。貢献の為にあなた自身がすり減らしたいのちを数え、それに酬いを加えて下さるお方です。偽りのこの世の価値観に騙されることなく、決断と信仰をもって世の光として輝きましょう。ヒデ

火曜日, 6月 14, 2011

20110614_民数27@12-23_1コリント13

■民数27:12ついで主はモーセに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエル人に与えた地を見よ。27:13それを見れば、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたように、あなたの民に加えられる。
★こうして主から、自らの使命の終わりと死期が近づいたことを教えられたモーセは「ひとりの人を会衆の上に定め、彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立って入り、また彼らを連れ出し、彼らを入らせるようにしてください。主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」と、主の前にとりなします。自らの齢がながらえることでも、約束の地まで私をリーダーとして立て続けて下さいとのプライドでもありません。最後に何を求めるか。細かい、あるいは上手な解説がなくても、それでその人の心は明らかです。あなたの願い、あなたの友、それがあなたの心です。そして主の願いは「父よ彼らをお赦し下さい」でした。

■1コリント13:4愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。13:5礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、13:6不正を喜ばずに真理を喜びます。13:7すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。13:8愛は決して絶えることがありません。
★上の御言葉でお互いの愛を点検しましょう。あなたの愛はどこに向かっていますか。自分自身ですか。あるいは自分の分身ですか。それとも神様ですか。神の言葉がなければ、人はうぬぼれから自分を救うことが出来ません。しかし私たちはこの神様の言葉で救われます。キリストの内に置かれ、与えられている恵に感謝しましょう。ヒデ

月曜日, 6月 13, 2011

20110613_マルコ6

■マルコ6:2安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。6:3この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
★「つまづいた」とありますが、つまづく人は何を見ているのでしょう。外見です。しかし内側を見る人は、その人の内にある「神のかたち」に感動や畏敬の念さえ覚えます。そして不思議ですが、感動や畏敬の念を覚える人は、たとえそれがどんな人であっても、その人の内側にある神のかたちを探り、目を留め、そこから教えられるのです。結局のところつまずく人は相手「その人自身」ではなく、自分の内側で持つ、その人に対するイメージと実際を比較し、勝手に失望したり、思い込んで喜んだりするだけなんですね。どんな人からも教えられる人生に飢え乾きましょう。その価値観はあなたを豊かにします。ヒデ

日曜日, 6月 12, 2011

20110612_詩篇28_マルコ5

■詩篇28:3どうか、悪者どもや不法を行う者どもといっしょに、私をかたづけないでください。彼らは隣人と平和を語りながら、その心には悪があるのです。28:4彼らのすることと、彼らの行う悪にしたがって、彼らに報いてください。その手のしわざにしたがって彼らに報い、その仕打ちに報復してください。
★あなたもダビデ同様、不当にあなたを苦しめる者のために、神様の前に心をぶちまけ、注ぎ出しましょう。しかし報復は主に委ねなければなりません。なぜならそれを間違いなくできるのは主以外にないからです。どんな時にも高慢の霊に支配されないよう、お祈りします。

■マルコ5:34そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
★主はあなたにも「娘よ」と語りかけられるお方です。病のために医者に掛かるはずが、さんざん医者に苦しめられるとはどうしたことでしょう。しかしそれがこの世の現実です。そんなこの婦人のために主は、私の着物を触ったのは誰かと、立ち止まられ、肉体のみならず彼女の霊においても癒やしを与え、更には彼女のために、そこに共同体さえ作り出そうとしたのです。主が留まられるところ、そこに教会は誕生します。そこに奇跡が起こります。そしてあなたが主の御名によって2、3人で集まるとき、主はそこにも立ち止まり、いて下さるお方です。この婦人の個人の生涯の祝福に関心を持ち、あなた個人の生涯の祝福にも関心をもって下さるお方。それが主です。ヒデ

土曜日, 6月 11, 2011

20110611_詩篇29_マルコ4

■詩篇29:10主は、大洪水のときに御座に着かれた。まことに、主は、とこしえに王として御座に着いておられる。29:11主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。
★創世記1:7-8に「神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。1:8神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。」とありますが、既にこの時から、いえこれ以前、天地が創られる前から、主はご自身の民、すなわちあなたの祝福の計画を抱いて下さっているお方です。安んじましょう。主の御手の中で憩いましょう。あなたは主の平安を遠慮することなく受け取っていいのです。

■マルコ4:38ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」4:39イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
★主に従う生涯とは必ずしも、嵐のない順風満帆の人生が約束されるわけでは有りませんで、たとえ嵐の中を通ることがあっても、主はそこで、奇跡をもってあなたを救い出して下さるお方であることを体験すると共に、あなたが人であることを教えられる人生です。弟子たちは「私が溺れて死にそうでも何とも思わないのですか」と語ります。それで良いのです。しかし弟子たちはそこに留まらず、主の不思議を拝するために目を上げました。
仰ぎましょう。そして生きましょう。主は語られました。「私を仰ぎ見て生きよ」。ヒデ

金曜日, 6月 10, 2011

20110610_民数14

■民数14:1全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。14:2イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。
★昨日の続きの箇所です。ヨシュアとカレブ以外の族長の消極的なことばに支配されたイスラエルの人々は、上の御言葉のように止めどなく呟きます。これが神の言葉から離れた人間の姿です。神様は「与える」と語られました。しかし、サタンは様々な形で人に働きかけ、不信仰と高慢のいずれかを持って、神の言葉から人を引き離そうとするのです。あの創世記3章、サタンがエバを誘惑したときと同じです。覚えましょう。神の言葉から人が離れたら、この世とサタンの誘惑に勝つ術のないことを。ヒデ

木曜日, 6月 09, 2011

20110609_民数13

■民数13:1主はモーセに告げて仰せられた。13:2「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」
★こうして遣わされた族長たちが帰って来てモーセと会衆の前に報告したのが以下の言葉です。13:27彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。13:28しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。」……13:30そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」13:31しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」13:32 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。……私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」
この結果イスラエルは僅か数十日で約束の地カナンに入るはずでしたが、40十年間荒野を放浪することになりました。彼らは自分がイナゴのように感じた、に留まるならいざ知らず、アナク人もそう見たに違いないとさえ語り、無責任な恐れを増幅し、民の心を挫きます。信仰とは何でしょう。不信仰とは何でしょう。神様はこの地を与えると約束下さっていました。あなたはここから何を教訓として学びますか。ヒデ

水曜日, 6月 08, 2011

20110608_詩篇27_マルコ1

■詩篇27:1主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。27:2悪を行う者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。27:3たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。
★ダビデはここで「それにも、私は動じない。」と宣言します。なぜでしょう。続いて彼は「私は一つのことを主に願った。」とありますが、それが答えです。人は真に畏れるべきものを畏れるときに、あらゆるすべての恐れから解放されることができるのです。本人もなかなか気づくことはありませんが、人が取る行動の多くは、過去に経験した恐れが、その人の内で隠されたトラウマとなり、それを回避するための行動をするようになり、その原因は恐れです。あなたは真の自由と解放を得るために、一つのものを畏れて歩んでいますか。

■マルコ1:7彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。1:8私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」
★今日からマルコの福音書です。その冒頭の言葉が上の御言葉で、キリストがいかなるお方かを示します。使徒行伝19章でパウロがアポロに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えたとありますが、あなたは聖霊のバプテスマを知っていますか。体験なさったなら理屈抜きでお分かりでしょう。まだならば主に求めませんか。秘訣は祈りと悔い改めと信仰です。恐れが焼かれ、霊の世界が変わります。ヒデ

火曜日, 6月 07, 2011

20110607_民数9@15-23_使徒28

■民数9:15幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。9:17雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。9:23彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命令によって、主の戒めを守った。
★出エジプトしたイスラエルが約束の地に向かって歩む時、持ち続けた価値観が上の「どんな時にも主の臨在と共に」でした。私たちが持ち続けるべき価値観は「イエス様ならこの時どうなさるだろうか」との「イエス様中心」です。しかもイスラエルは事実、その基準に生きたのです。「イエス様中心」が絵に描いた餅に終わらないように、主の助けを求めましょう。

■使徒28:30こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、28:31大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。
★使徒行伝の最後の章の最後の部分です。不当な訴えゆえに、自らの信仰をカイザルの前で弁明する道を選ばざるを得なくなったパウロ。それゆえ彼は遂にローマに登りました。上の御言葉は、彼のそこでの生活の紹介ですが、置かれた所で、神の国を宣べ伝え、キリストを証しする彼のライフスタイルは変わりません。キリストにある不偏の価値観を自分のものとしましょう。その人は生涯それによって支えられ、約束の御国を手にします。ヒデ

月曜日, 6月 06, 2011

20110606_詩篇23_使徒27

■詩篇23:4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
★マーガレット・フッラシュバックパワーズ氏の詩「あしあと」を思い出しました。
ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出されていた。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。

■使徒27:23昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、27:24こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』
★もしあなたの生涯に超自然的な印やわざが起こっても不思議がってはなりません。それは一人も滅びる事を願われない主の力の現れです。イエス・キリストの名によって吟味し、受け取りましょう。ヒデ

日曜日, 6月 05, 2011

20110605_民数6@24-26_詩篇22@8-11_使徒26

■民数6:24『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。6:25主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。6:26主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』
★主は上の祈りを、祭司アロンとその子孫に促すとき、「あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。」と語られました。そして今や十字架の恵みのゆえに贖われたあなたも、アロン同様、人を祝福する事ができるのですよ。

■詩篇22:8「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」22:9しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。22:10生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。22:11どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。
★叫び祈ってみましょう。「あなたは私の神です。助ける者がないのです」と。

■使徒26:27アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。」26:28するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と言った。26:29パウロはこう答えた。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」
★アグリッパ王の前に罪状についての弁明の機会がゆるされたパウロの言葉が上の御言葉です。パウロは天国と地獄が見えていた人でした。そして、誰にでも愛を動機として語りかけたのでした。。天国と地獄、あなたにとってそれは現実ですか。ヒデ

土曜日, 6月 04, 2011

20110604_使徒25

■使徒2524そこで、フェストはこう言った。「アグリッパ王、ならびに、ここに同席の方々。ご覧ください。ユダヤ人がこぞって、一刻も生かしてはおけないと呼ばわり、エルサレムでも、ここでも、私に訴えて来たのは、この人のことです。25:25私としては、彼は死に当たることは何一つしていないと思います。しかし、彼自身が皇帝に上訴しましたので、彼をそちらに送ることに決めました。25:26ところが、彼について、わが君に書き送るべき確かな事がらが一つもないのです。それで皆さんの前に、わけてもアグリッパ王よ、あなたの前に、彼を連れてまいりました。取り調べをしてみたら、何か書き送るべきことが得られましょう。25:27囚人を送るのに、その訴えの個条を示さないのは、理に合わないと思うのです。」
★アグリッパ王の機嫌取りと、ユダヤ人の歓心を買おうとするフェストは、主の弟子パウロの無罪であることを知りつつも、自らの出世のための政治の道具として、パウロを利用します。愚かです。霊の目が閉ざされており、必ず蒔いたものの刈り取りは神様が求められるのに、それに気づかないフェストとは。神様は侮られるお方ではなく、そればかりか必ず、つじつまを合わせられるお方です。人の前にではなく主の前に生きましょう。ヒデ

金曜日, 6月 03, 2011

20110603_民数2@34_使徒24

■民数記2:34イスラエル人は、すべて主がモーセに命じられたとおりに行い、それぞれの旗ごとに宿営し、おのおのその氏族ごとに、父祖の家ごとに進んだ。
★イスラエルの民がエジプトの奴隷生活から脱出して2年経ったとき、主はモーセに民の総数を調べよと語られますが、それにちなんで名付けられた民数記の始まりです。神様は、命が、機能しない構造に縛られ窒息することを願われないお方ですが、秩序は重んじられるお方です。部族ごとに、父祖の家ごとに進むことが、当時の彼らにとっては益だったのです。命を守るための構造が、構造の維持の為に利用される命か、見分ける目を持たせて頂きましょう。そして、変えてはならないものは断固死守し、変えるべきものは大胆に変え、命を最優先にする生き方をさせて頂きましょう。

■使徒24:14しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。24:15また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。24:16そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。
★何と迷いのない主の弟子パウロの明快な答えでしょう。これは自らを訴えるものに対して、その弁明を総督の前に行うパウロの言葉です。信仰のクリアーさはその人の力で、そのクリアーさが祝福の道を開きます。クリアーにするように神様から求められているものを、あなたは今お持ちですか。神様の時を生かして用い、告白と明け渡しをもって、霊におけるクリアーさを保ち続けさせて頂きましょう。ヒデ

木曜日, 6月 02, 2011

20110602_レビ27@30_使徒23

■レビ27:30こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。
★「人がもし、自分の○○を主に聖なるものとして聖別する時は……」で始まるレビ記最後の章ですが、旧約に示された聖別の基準は十分の一でした。ここが曖昧になる時、言葉を換えると神様の言葉より自分の思いが優先される時、聖別は絵に描いた餅となり、その人の生涯に祝福と命をもたらす力は失われます。では新約の基準は、すべては主のもの。そして喜んでささげるならです。遣わされた場所で、祝福の祭司として、その時その時、イエス様中心の価値観で歩ませて頂きましょう。

■使徒23:6しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」23:7彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。23:8サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。
★人の言い伝えを優先するパリサイ人とサドカイ人の特徴を見抜いた知恵によってパウロは身の危険から自らを守ります。結局のところ世を優先する価値観は一枚岩とはなり得ず、勝利を自らのうちに収めることは出来ません。遠回りに見えても、神様を畏れ、神の言葉に立ち続けるところに勝利はあります。「生きるにしても死ぬにしても、キリストが崇められるために」と語ったパウロの生き様と価値観から教えられましょう。ヒデ

水曜日, 6月 01, 2011

20110601_レビ25@17-19_詩篇25_使徒22

■レビ25:17あなたがたは互いに害を与えてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしはあなたがたの神、主である。25:18あなたがたは、わたしのおきてを行い、わたしの定めを守らなければならない。それを行いなさい。安らかにその地に住みなさい。25:19その地が実を結ぶなら、あなたがたは満ち足りるまで食べ、安らかにそこに住むことができる。
★この章は、人は一生涯中、奴隷とされてはならないし、自ら奴隷で終わってはならない事が繰り返され、さらに土地は主のものであり、人はその地における収穫の回数を売り買いするものであることを教えます。いずれにしても人を滅ぼすものが貪欲であることは間違い有りません。「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」との戒めを心に刻みましょう。

■詩篇25:12主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。25:13その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。25:14主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。
★この章に地を継がせる生き方の秘訣があります。主の赦しを受け取り、主に信頼する生き方です。

■使徒22:16さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』
★パウロがキリストとの出会いの経験を鮮やかに語ります。たとえ暴動に巻き込まれようが、命の危険にさらされようが、彼の主への姿勢は変わりません。人の人生と、そのあり方を決定的に変える力あるお方に、あなたは既に出会われましたか。ヒデ

火曜日, 5月 31, 2011

20110531_レビ23@3_詩篇24_使徒21

■レビ23:3六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。
★主はたとえそれがどんなに良いことであっても、奴隷になり下がってはならないと、ここで語られます。熱心な仕事もその一つです。サタンは2番目によいこと、すなわちベターに人を集中させる事によって、私たちが神様の御心を選び取ることを阻止しようとします。騙されてはなりません。

■詩篇24:3だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。24:4手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。24:5 その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。
★主の山とはどこにあるのでしょう。その一つは主の語りかけに深く聞き入り、応答する祈りの中です。明け渡された、砕かれた心をもって御前に近づくその人に、主は豊かな恵みをもって報い返して下さいます。

■使徒21:13するとパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」と答えた。
★昨日に引き続き、取って付けたものではなく、パウロの内側に息づいていた価値観がここに……。パウロは御名のためなら死ぬことさえも覚悟していると語りましたが、あなたは御名のために何を考え、どんな決断の中に歩みますか。ヒデ

月曜日, 5月 30, 2011

20110530_レビ22@31-33_使徒20

■レビ22:32わたしの聖なる名を汚してはならない。むしろわたしはイスラエル人のうちで聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別した主である。22:33あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した者、わたしは、主である。」
★何が神様の前に「汚れ」かが具体的にこの章では紹介されます。しかしイスラエルは自分が神様に受け入れられるよう努力する必要があって聖を心がけるものではありません。既に主は「私があなたを聖別した」と神様の顧みの中に置かれているのです。だからこそ、生活の中で神様の御名を汚さないようにと、彼らは愛と感謝の動機で聖を求めるのです。それは贖われたクリスチャンにとっても同じで、受け入れられる為にではなく、既に受け入れられている自らゆえに、を動機として聖を求める人は幸いです。

■使徒20:35このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」
★聖霊様に示され死期を感じ「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」と語った最後のパウロの言葉が「受けるよりも与えるほうが幸い」であったことに、今日気づきました。終末のこの時代、主の教会とされたお互いは内向きであってはなりません。手をつなぎ合いましょう。出来ないことを数えるのではなく、どんなに小さいことであっても、できることを行動に移しましょう。それが自分の命をかけても惜しくない、命より価値あるものを見出した人の生き方です。ヒデ

日曜日, 5月 29, 2011

20110529_レビ19@1-4_詩篇13_使徒19

■レビ19:2「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。
★神様がここで語られる聖とはどんな意味でしょう。その意味がこの19章にはいっぱいです。「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。収穫の落ち穂を集めてはならない。……貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇い人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。」……となお続きます。憐れみが神様のご性質であり、聖の中心的要素であることに目が開かれる時、私たちの生き方は変えられます。

■詩篇13:1主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。13:2いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。私の心には、一日中、悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。
★あなたの霊に戦いを挑む敵のために、いつまでですかと訴えることのできる味方を持てる幸いは何と大きなことでしょう。それが神様を知るものに与えられる特権です。

■使徒19:2「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えた。
★聖霊様に上から臨まれ、満たされる信仰生活があります。あなたは知っていますか。喜んで歓迎しましょう。聖霊様を。ヒデ

土曜日, 5月 28, 2011

20110528_使徒18

■使徒18:1その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。18:2ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、18:3自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。
★パウロの生涯の友となるアクラとプリスキラとの出会いです。コリント地方での出会いでしたが、彼らはパウロと共にエペソにも同行してくれ、更にパウロがガラテヤ地方を巡回するため旅立った後も、エペソに残って責任を果たします。どうしてこうした生涯の友が与えられたのでしょう。パウロが真剣に福音に仕えたからです。福音に生き、福音を語るとき、主は最高の友をあなたに与えて下さるお方です。「わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と主は語られましたが、あなたの町にも真実な人生、直向きな人生を生きるために悔い改めたい、そう、あなたのような人生を生きたい、あなたの友になりたいと願っている人がいるのではありませんか。そのためにも尻込みしないで福音の為に立ち上がるあなたが必要です。あなたの町にも、あなたを必要としている、多く神の民があなたを待っているのです。ヒデ

金曜日, 5月 27, 2011

20110527_使徒17

■使徒17:24この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。17:25また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。17:26神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。17:27これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。 17:28私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。
★主の弟子パウロのアテネ、アレオパゴスにおける説教です。彼は「私たちは神の中に生き、動き、存在している」と語ります。それは天国、地獄もそんなに遠い所にあるものではなく、次元の違いであることをも教えます。お互いは目には見えませんが、まさに赦されて、神様の顔の前に歩ませて頂いています。心を込めて、「神様あなたによって生かされていること感謝します」とお祈りして一日をはじめませんか。ヒデ
水曜日の夜、無事に福島から帰りました。お祈り有り難うございました。

木曜日, 5月 26, 2011

20110526_レビ10@1-3_使徒16

■レビ10:1さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。10:2すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。10:3それで、モーセはアロンに言った。「主が仰せになったことは、こういうことだ。『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す。』」それゆえ、アロンは黙っていた。
★祭司の勤めの中心の一つが、かおりよき香をたく、すなわち神様への祈りをささげること。そこに混ざりものがあったのです。人に聞かせるためか、神様にささげるためか、心を見られる主の前に、偽りのない祈りをささげしましょう。

■使徒16:25真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。16:26ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
★伝道旅行の中で悪霊に憑かれた婦人から汚れた霊を追い出したばかりに、その婦人を利用して金儲けをしようとした主人たちの手によってパウロとシラスは投獄の身に。ところが夜中、獄屋の戸が地震で崩れ落ち、いつでも出られる状況になったのです。何があったのでしょう。聖書はパウロとシラスが神様への賛美をささげていたと記します。人の目に支配されない、神様への賛美は地獄の門をも揺り動かします。神様への賛美と、ささげる祈りを用いて、あなたはこの地に神様の業を来たらす者となりました。ハレルヤ。ヒデ

水曜日, 5月 25, 2011

20110525_レビ9@23-24_使徒15

■レビ9:23ついでモーセとアロンは会見の天幕に入り、それから出て来ると、民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現れ、9:24主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。
★ここには祭司の使命が明確です。神様の祝福を受け取るために聖所で神様に近づき、出て来て民を祝福します。それが祭司の使命、そのためにあなたは新約の祭司として召し出されました。このクリスチャンの特権を受け取り、アブラハムの子孫として、祝福の基となりましょう。

■使徒5:28聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。15:29すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」15:30さて、一行は送り出されて、アンテオケに下り、教会の人々を集めて、手紙を手渡した。15:31それを読んだ人々は、その励ましによって喜んだ。
★キリストの血潮の代価によって罪とこの世の法則から贖い出されたクリスチャンとはどんな人生を生きる人の事でしょうか。どんなに努力しても自分の力では守る事のできない律法に縛られ、敗北感と罪責感に生きる人でしょうか。いいえ、何が罪かを明確にして頂き、その罪からの赦しを、悔い改めと信仰を通してキリストから受け取り、自由を生きる人の事です。宗教の霊に支配される事から解放されましょう。そしてキリストを生きましょう。あなたは天の父なる神様の愛する娘、息子。誇りの娘、息子とされたのですから。ヒデ

火曜日, 5月 24, 2011

20110524_レビ5@1_使徒14

■レビ5:1人が罪を犯す場合、すなわち、証言しなければのろわれるという声を聞きながら──彼がそれを見ているとか、知っている証人であるのに──、そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負わなければならない。
★弱い立場に立たされている者があり、その人を助けることのできる鍵を持ちながら、保身のために心を閉じることを私は喜ばないと主は語られます。主が預言者ミカを通して「人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」と語られた言葉を思い出しましょう。

■使徒14:22弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。
★主の弟子パウロは伝道旅行でルステラに訪れたとき、生まれながら足のきかない人を癒やします。しかしユダヤ人の反感を買った彼は石で打たれ半死半生の身に。いえ彼らは死んだ者と思って、パウロを町から引きずり出したのです。そんな中、上の御言葉はパウロが奇跡的に蘇らされたとき弟子たちに語った言葉です。「キリストの贖いは完成したのに、神の国に入るのになぜ多くの苦しみを受けなければならないのか。」これは私の敬愛するH牧師が救われた直後の青年の時、疑問を抱き教会の牧師先生に尋ねた言葉でもあります。その答えを水野源三さんは「もしも私が」と次に詩によって表現しました。
もしも私が苦しまなかったら神様の愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら神様の愛は伝えられなかった。もしも主イエスが苦しまなかったら神様の愛は現われなかった。
昨日から福島で震災復興の奉仕をさせて頂いています。癒やしのため少しでも用いられるようにお祈り下さい。明日までです。ヒデ

月曜日, 5月 23, 2011

20110523_使徒13

■使徒13:2彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。13:3そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。
★福音が全世界に及ぶ、異邦人伝道の切っ掛けがここには鮮やかです。そして、それは神様の主権的介入と、人の率直な祈り、神様の語りかけに対する従順によって全うされます。神様は偉大なことを成されるとき、お一人だけではなく、人と共に、それ成し遂げようとなさいます。そうあなたと共に歩みたいと願う神の姿がここにあるのです。感謝しましょう。信頼しましょう。そして一歩を踏み出しましょう。クリスチャンがイエス様と共に歩む道とは、いずれにしてもいまだ一度も誰も通ったことのない、あなたの為に神様が備えて下さった道なのですから。ヒデ

日曜日, 5月 22, 2011

20110522_出エ40@34-38_詩篇15_使徒12

■出エ40:36イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。40:37雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。40:38イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。
★神様が示された通りに幕屋をイスラエルの民が完成させたとき、主の臨在はそれを覆いました。そして記されている通り、昼は雲の柱、夜は雲の柱として自らを彼らに示し、イスラエルの民の行動規範となりました。あなたの行動規範はなんでしょう。気を付けるべきは、日曜日と週間を分け、日曜日だけの信仰生活にしてしまうことです。むしろ主の臨在を持ち運ぶ新約の祭司としてあなたは召し出されました。週間の生き方の中でこそ、キリストの御名が崇められるそれでありますように。

■詩篇15:1主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。15:2正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人。
★その人はそしらず、悪を言わず、損になっても立てた誓いは変えません。そして普遍の価値観をもつその人は、その価値観によって支えられ守られるのです。

■使徒12:11 そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。
★そうです。絶体絶命のはずの何重もの監視を逃れて救出された時、ペテロは気づきました。神の僕は使命のあるかぎり死なないこと、主に守られることを。御心を選び取り、そこに生きる価値観が一番安全です。ヒデ

土曜日, 5月 21, 2011

20110521_詩篇19_使徒11

■詩篇19:7主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。19:8主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。19:9主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
★ダビデはこの詩を心の底から歌い、自らを陥れようとする一つ一つの罠から、神様の恵みによって自らを守りました。

■使徒11:17こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」11:18人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。
★「よりによってペテロは異邦人コルネリオに招かれて食事までした」との噂が広がったとき、ペテロは同胞のクリスチャンリーダーに、自ら経験した出来事を注意深く説明します。
自分自身、律法で汚れているとされる動物をほふって食べよという幻を見たこと。「ヨッパにいるペテロという人物を招け」との幻を見たコルネリオの使者の訪問と招きを受けたこと。招かれて行き、御言葉を語ったとき聖霊が異邦人にも下ったこと。
その結果、彼らは、神様の異邦人をも救おうとなさる御心をしっかり受け取れました。同じ神様は、本当に大切なことについてあなたにも同様に導いて下さいます。神様の愛を信頼しましょう。そしてのびのび歩みましょう。ヒデ

金曜日, 5月 20, 2011

20110520_使徒10

■使徒10:34そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、10:35どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。」
★今まで選民ユダヤ人に留められていた福音を、全人類の救いを願われる神様が、異邦人にも広げる為に働かれた事がここで豊かに紹介されます。では神様がとられた方法とはいかなる方法だったのでしょう。それはご自身の弟子ペテロの価値観を変える事でした。選民イスラエルであることに誇りを覚え、他の弟子たちに対しても大きな影響力をもつペテロ。神様はそのペテロに幻を見せ、更に神様を畏れる異邦人コルネリオを出会わせることを通して、ペテロが捕らわれていた今までの古い枠組みを取り除こうとされたのです。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」。その結果、ペテロは冒頭の御言葉を語ったのです。ペテロの柔らかな心と、砕かれた霊に脱帽です。
ここから、確かにそれは大切なこと。しかしいつまでもそのことに拘っていては、神の恵みが自分の所で留まってしまうことはないか。そんな視点でこの朝、神様に導きを求めてみてはどうでしょう。もし明確な導きがあるなら、ペテロのように、固執するよりも、神様の恵みによって明け渡し、むしろ変われる自分を感謝して、主に従うものであらせて頂きませんか。ヒデ

木曜日, 5月 19, 2011

20110519_出エ33_使徒9

■出エ33:13……この国民があなたの民であることをお心に留めてください。」33:14すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」
★有名な御言葉ですが、モーセが祭司として民の為に執り成す最中に、この御言葉が与えられたことは偶然ではありません。そう、神様は私たちが霊の親として魂を心に抱き、執り成しに向かうとき、最も近くいて下さるお方で、他でもないあなた自身に安息を下さるのです。思い煩いのため眠れないときがありますか、その時は愛する人のために是非執り成してください。あなたは主の平安に包まれ、よき睡眠が与えられるでしょう。
その時五本の指の祈りが助けになれば幸いです。
親指に象徴される祈り:父よ、あなたが○○さんを大切に思っていて下さることを感謝します。
人差し指に象徴される祈り:○○さんを訴えるサタンの働きをキリストイエスの御名によって縛る。
中指に象徴される祈り:聖霊様が一番深いところに届き、○○さんが罪を自覚でき、悔い改めへと導かれますように。
薬指に象徴される祈り:イエス様の愛が○○さんの心の深いところに注がれますように。
小指に象徴される祈り:この小さい私を○○さんのために用いて下さい。

■使徒9:40ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。
★執り成しの祈りを積み上げて行きましょう。主は確かに応えて下さるお方です。ヒデ

水曜日, 5月 18, 2011

20110518_出エ32_使徒8@1-25

■出エ32:30翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は主のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。」32:31そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。32:32今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」
★モーセがシナイ山に登り、神様から十戒を授かっている間に民は不安を感じ、目に見える神様の形を求めてアロンに偶像を造るように求めます。神様への畏れのなさゆえに、心定まらず、些細なことを恐れて愚かな行動をとる民。かたやモーセは自らのいのちを差し出して民の為に取りなします。あなたはどちらですか。神様が日本に足を付けられたこの終末の時代、新約の祭司が必要です。

■使徒8:20ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。8:21あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。8:22だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。
★やはりこの朝のテーマは祭司としての執り成しです。あなたはイエス様によって祭司として召し出されたのです。そして復活の主はヨハネ20:23で語られました。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」と。あなたは誰を覚えて主の前に執り成しますか。ヒデ

月曜日, 5月 16, 2011

20110517_出エ29@44-46_使徒7

■出エ29:44わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせよう。29:45わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。29:46彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。
★なぜエジプトすなわち奴隷生活からイスラエルを導き出したのか。その答えを「彼らの間に住むために」と神様ご自身がここに語られます。あなたが召し出された理由もそこにあります。その背後には神様の大いなるご期待があるのです。今日も一日祭司として遣わされたところで主の恵みを反映するあなたであれますように。祝福します。

■使徒7:55しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、7:56こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
★神様の恵みと力によって、民衆の中でめざましい奇跡としるしを行っていたステパノ。しかし宗教家は妬みの為に人々をそそのかし、彼は「モーセと神とを汚す言葉を吐くのを聞いた」と言わせます。その時のステパノの反論が7章の中心ですが、旧約聖書の中心メッセージをダイジェスト版で理解したい方は是非ここを直接読んで下さい。彼の聖書理解の素晴らしさに感嘆です。そして何より、どんな時にも神様の側に立ち続ける人の為には、神様ご自身が立ち上がって応援して下さることが、ここには明らかです。注意しましょう。人を恐れると罠に陥ります。ステパノのように歩みましょう。ヒデ

20110516_使徒6

■使徒6:7こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。
★あなたは福音が世界に満ちることに興味、関心がありますか。いえそれ以上に、それこそが私が生かされている意味と受け取っておられる人はありますか。あればその人は幸いです。なぜなら「全世界に出て行って造られた人に福音を述べ伝え、人々を弟子としなさい」とは、神様を愛する全ての人に救い主イエス様が語られた命令で、これこそ私たちが受け取るべき人生の究極の使命だからです。神様がお与え下さった究極の使命が宣教だからこそ、このことを尊ぶ人は神様から祝福されます。では初代教会(キリストを信じる人々の集まりで・建物ではありません)が優先したことは何でしょう。
それは「そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。」のとおり、助け合おうとする生き様と、そこから生じる問題に、真摯に向き合おうとする姿勢です。その中で使徒たちは「もっぱら祈りと御言葉」に取り組むことが出来ました。あなたこそが教会、キリストの身体です。自分がおかれた場所と立場、与えられている関係を用いて貢献の人生に生きましょう。イエス様と教会はあなたが必要です。ヒデ

日曜日, 5月 15, 2011

20110515_詩篇14_使徒5

■詩篇14:7ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。主が御民の繁栄を元どおりにされるとき、ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。
★イスラエルの王となったダビデは、造り主なる神様を認めず、偶像を利用し、結局のところ己を神とする他国の人々に対して「愚か者は心の中で、神はいないと言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」と叱責しつつ、冒頭の御言葉を語ります。神様を畏れるあなたの生涯に、主の繁栄が上から豊かに注がれますように。

■使徒5:28言った。「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」5:29ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。5:30私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。
★迫害の中でのペテロの発言です。なんと力強く大胆なことでしょう。彼はかつて復活の主に触れた後も、自分の内面を見て、一度捨てた網を拾い、漁師に戻ることさえしたのです。ところがこの変化です。ただ神様の恵み、聖霊様の御力の偉大さを覚えましょう。聖霊様に触れられるとき、あなたは変わります。私も変われます。感謝です。共に満たしを求めて祈りましょう。ヒデ

土曜日, 5月 14, 2011

20110514_詩篇12_使徒4

■詩篇12:5主は仰せられる。「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」12:6主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。
★不信と虚偽に満ちた社会を主はそのまま放置し続けることをなさらないお方です。主は神様を畏れるあなたのために立ち上がられます。エジプトからイスラエルを脱出させる時も、ステパノをご自身の元に迎えるときもそうでした。だから報復は主に委ね、混じりけのない主の言葉の内を歩みましょう。そうすれば、あなたを飲み込もうとする洪水も、飛び来る火矢も、あなたを滅ぼすことはできません。

■使徒4:12この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。4:13彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
★ここから力強い人生を生きる秘訣を受け取りましょう。一言で言うと誰と共にあるかです。あなたが一緒にいる人にあなたは似、あなたが心開くその人の影響をあなたは受けます。主の弟子パウロは「私を強くして下さる方の力によって、私は何事でもすることができる」と語りました。主と共にあり続けるものでありましょう。その時あなたは嵐の湖の中にも立つことが出来、その嵐をキリストの御名の権威をもって静めることさえ出来るのです。ヒデ

金曜日, 5月 13, 2011

20110513_出エ20

■出エ20:2「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。20:3あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
★エジプトの奴隷生活からの脱出を果たし、自由人とされ、神様が下さった約束の地を目指すイスラエルに対して、神様がモーセを通して下さったもの、それがこの章に記された十戒です。実際には神様の指によって、神様ご自身が記して下さったと聖書は記します。何の為でしょう。神様がイスラエルを新たにご自身の奴隷にするためでしょうか。民をパロ以上に束縛するためでしょうか。いいえ、奴隷としてではなく、自由を与えられた者として生きるとは、どの様な生き方かを学ばせるためでした。そして民は与えられたこの十戒が良きものであることを理解しつつも、いざその基準に生きれないことを通して、罪の自覚と共に、自らが神でないことを教えられ、神様を仰ぐ者へと導かれていったのです。なんだ、これくらいの事なら自分の力と努力、および精神力で守る事ができるじゃないかという自信家で、自分の姿が全く見えない鼻持ちならない人がこの朝いらっしゃるでしょうか。もしいらっしゃったなら、その人は憐れです。反対にこの十戒を、自分の心を映し出す鏡とし、日ごとに足らなさを知らされつつも、赦され愛されていることを受止め、感謝して一日を始めることのできる人は何と感謝な事でしょう。「人」とはギリシャ語で「アンソローポス」と表現します。その意味は上を仰ぐ者。真に仰ぐべきお方を持つ人は幸いです。神様が下さる約束の地はその人のものだからです。ヒデ

木曜日, 5月 12, 2011

20110512_出エ14

■出エ14:12 私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」14:13それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。14:14主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」
★エジプトの奴隷生活から430年ぶりに脱出したものの、後ろを振り向くとパロとその軍勢が追って来るのを見、前には紅海が広がっているのを見たとき、イスラエルの民の心は恐れに支配されて、冒頭の御言葉のようにモーセにつぶやきました。なぜつぶやいたのでしょう。彼らが見ていたものは何だったのでしょう。それは神様が下さった約束ではなく、目に見える現状でした。知ってください。神様に召し出された神様の民が見るべきものを。それは神様の約束です。主に向かって水の上を歩けたペテロも、いざ嵐に目を留めたとき恐れに支配され、おぼれそうになりました。この後、イスラエルの民は約束の地に向かう荒野の中、繰り返し、繰り返しこのことを神様から問われます。さあこの朝心を定めましょう。神様が託して下さった人生、何に目を留めて歩むのか。主は語られます。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。14:14主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」ヒデ

水曜日, 5月 11, 2011

20110511_出エ12_出エ13@17-22

■出エ12:21そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。12:22ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。12:23主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。
★主がエジプト中の長子という長子を打つ。しかし門柱に小羊の血が塗られているのを見たなら、主はイスラエルの家の長子を裁き済みとして過越す。これがイスラエルをエジプトの王パロの手から解放する主の方法です。ではキリストが十字架上で、罪のない小羊として血潮を流されたのは何の為でしょう。あなたの罪が神様の前に既に裁き済みとされる為です。_あなたは赦されています。顔を上げてよいのです。あなたの造り主であり、全能者である方の救いです。感謝し、ただ信じて受け取ればよいのです。「神様、有り難うございます」と。

■出エ13:17さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」13:18それで神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。イスラエル人は編隊を組み、エジプトの国から離れた。
★これがエジプトから脱出したイスラエルに対する神様の考えで、その結果、民はわれた紅海の中を通る経験をします。神様と共に歩む道、それは何の恐れもない人生ではありません。常に神様が共におられ神様の救いを見る最善のそれです。ただ主の真実に寄り頼み、踏み出しましょう。ヒデ

火曜日, 5月 10, 2011

20110510_出エ11_ルカ24

■出エ11:1主はモーセに仰せられた。「わたしはパロとエジプトの上になお一つのわざわいを下す。そのあとで彼は、あなたがたをここから行かせる。彼があなたがたを行かせるときは、ほんとうにひとり残らずあなたがたをここから追い出してしまおう。
★イスラエルを解放するようにと、主がモーセを用いてエジプト全土に様々な災いを下されますが、なおもパロは頑なで解放しようとはしません。しかし時が満ち、パロといえども遂にイスラエルを解放せざるを得ない状況が起る前に、主はモーセに上の御言葉を示されました。知ってください。主は愛する者に大事なことを隠して行うことはありません。創世18:17で「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」とある通りです。安心しましょう。 あなたは神様に愛されています。ゆえにディボーションは尊ばれる価値があるのです。どうしても必要なことを必ず主は語って下さいます。

■ルカ24:15話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。24:16しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
★復活の主の姿が描かれていますが、出エ11章と連動の箇所で、ここには大切なことを、愛する弟子たちに示そうとする主の姿が豊かです。なぜでしょう。神様のご計画は教会をこの世において「世の光、地の塩」として輝かせること。そうあなたはやはり神様の喜びと誇りの存在なのです。サタンとこの世の汚れた価値観にだまされて「私には価値がない」などと決して思ってはなりません。神様の愛を今朝も一杯に受け感謝しましょう。さあ今日一日の用意ができました。行ってらっしゃい。ヒデ

月曜日, 5月 09, 2011

20110509_出エ6@1-12_7@1-7_8@16-19_ルカ23@32-34

■出エ6:12しかしモーセは主の前に訴えて言った。「ご覧ください。イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口べたなのです。」
★神様はこれからどのようにイスラエルの民をエジプトから脱出させようとしているかをモーセに語りましたが、その時の反応が上のモーセの言葉です。たとえどんなに素晴らしい人物でありましても、人にはそれぞれ弱さがあります。(本人がそれに気づいているかどうかは別ですが)神様はその事も知った上でモーセを召し出し、アロンという助けを与えて下さいます。あなたも同じです。神様はあなたを召し出す前から愛し、赦し、助けを与えて下さいました。しかもその最高の助けとは、友なるイエス様です。安心しましょう。最初からはあなたはゆるされているのです。神様はその上であなたが立ち上がることを願って下さるお方です。それが神様はうれしいのです。

■出エ7:1主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。
■出エ8:16主はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの杖を差し伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、それはエジプトの全土で、ぶよとなろう。」

■ルカ23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
★いかに多くの人は、していることの意味を分からずじまいのまま生きていることか、とこの箇所を読むことを許されるならば、その姿に気づかせ、そこからあなたを解き放って下さるのが、キリストによって語られた、この赦しの基準、物差しです。お互いは既にこの基準に目を開いて頂きました。感謝して一日を始めませんか。ヒデ

日曜日, 5月 08, 2011

20110508_出エ3

■出エ3:14神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。
★『わたしはある』とは、召し出されたモーセが、神様の命を受けてイスラエル人のところに行く時「私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」と問うたとき、神様ご自身が、はじめて明らかにされたご自身の名前です。私たちは「有らせられているもの」。しかし、このお方は「有ってあるお方」。モーセに現れたこのお方が、やがて乙女マリヤのお腹を借りて受肉なさったイエス様とは誰が想像できたでしょう。しかしモーセの時代を経た1500年後に、確かにイエス様は、心頑なにする宗教家の前で「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです」(ヨハ5:46)と、この時のモーセとの出会いを示唆して語られたました。
「有ってあるお方」による召命ゆえに、「足から靴を脱ぎなさい。」です。しかし、その召命は、私たちを有らせて下さっているお方の召命ですから、私たちが信頼し従順するなら、必ず全うされるのです。かつては自らの力でエジプトの不正から、同胞ユダヤ人を救おうと立ち上がったモーセは40歳、しかし神様は今や80歳となったモーセをこの時、ご自身の働きのために、ご自身の方法で召し出されます。神様により頼まなければ、生きて行けない荒野の経験は意味のないものではありません。むしろ荒野の中でこそ、事を成し遂げる人を作られる神様を覚えましょう。ヒデ

土曜日, 5月 07, 2011

20110507_出エ2@1-10_ルカ21

■出エ2:10その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。その子は王女の息子になった。彼女はその子をモーセと名づけた。彼女は、「水の中から、私がこの子を引き出したのです」と言ったからである。
★飢饉からエジプトを救った宰相ヨセフのことを知らない王がおこった時、エジプトに住むユダヤの民は、強いられる、あまりの奴隷生活の中、神様に叫び求めます。神様はいかにその叫びに耳を傾けたのでしょう。その応えが今朝の箇所です。ではモーセとあなたとの共通点は何でしょう。不思議な神様の選びによっての引き出しと、死の定めからの引き出しです。今あなたがこの箇所を開くのは偶然ではありません。神様はモーセを用いてユダヤの民をエジプトから脱出させました。では神様はあなたを用いて何をなさろうとしておられるのでしょう。細き主の御声を聞き、そこに生きましょう。さあ主の不思議を見る生涯の始まりです。

■ルカ21:33この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
★この箇所は「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」と、イエス様の言葉が続きます。「天地は滅びるかも知れません」ではないのです。「滅びます。」です。その中で滅びないイエス様の言葉。そして私たちは世の終わりに、このお方の前に立つのです。主が成し遂げられた十字架の贖いの大きさと、主の言葉の重みを思いましょう。そして、この主の言葉を重んじ、そこに生きようと心を砕いているならあなたは何一つ恐れる必要はありません。ヒデ

金曜日, 5月 06, 2011

20110506_創世50_詩篇8_ルカ20@9-19

■創50:24ヨセフは兄弟たちに言った。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」50:25そうして、ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください」と言った。
★試練の中に置かれても常に人々に希望を示し続けたヨセフ。その彼は、こうして死んだ後にもエジプトに残るイスラエルの子らに、希望のメッセージを残すのです。あなたは常日頃から、まわりの人々にどんなメッセージを残し続けていますか。あなたの今日の決断が、点となり、やがて線となり、ついには面となるのです。あなたの日頃の決断が、やがて多くの人を包み込む希望のそれで有りますように。

■詩8:3あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、8:4人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
★本当です。あなたは、私は何者なのでしょう。あなたは既にこの問いにふさわしい答えを見出されましたか。そしてあなたの人生は変えられましたか。

■ルカ20:14ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』
★ノアの時代、洪水で滅ぼされた人々の心がそのままここに描かれています。恩を売る愚かさに生きてはなりません。しかし恩は忘れるべきものではないのです。ヒデ

木曜日, 5月 05, 2011

20110505_ルカ19

■ルカ19:31もし、『なぜ、ほどくのか』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」
■ザアカイをアブラハムの子孫として回復させ、エルサレムに登って王となるべく宣言するために、主イエス様が選ばれた乗り物は何だったのでしょうか。それは勇ましい戦車でもなければ、馬でもなく、ただ、まだ誰も乗せたことのないロバの子でした。主はこの世の力にものを言わせ、自らのもとに全てのものをひれ伏させることを願う王ではありません。一人子なる神、神ご自身でありながら「19:10人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」と語られたとおり、あなたを解き放つため、仕えるリーダーシップをもって来て下さったお方です。あなたは既にこのお方のために自分自身を解き放ちましたか。「なぜ、ほどくのか」と訴えるもう一つの内なる声に「主がお入用なのです」と宣言し、一歩踏み出すことを既になさいましたか。このお方こそ、あなたの生涯の全てを賭けるふさわしいお方です。ヒデ