日曜日, 1月 31, 2010

20100131_出エジプト03-04_詩篇56-57_ローマ09

■出エジプト3:7主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。3:9見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。3:10今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
★神様は選びの民の苦しみと苦悩を見、その叫びを聞き、助けを送って下さるお方です。そして主はあなたのためにも「叫びを聞いた」と語られるお方です。この言葉に込められた神様の愛と力強さにこそ望みがあるのです。だからあなたは諦める必要はありません。

■詩篇56:11私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。

■ローマ9:3もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。
★パウロの告白です。彼は他の箇所で「ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました」と語ります。なぜにこんなにも彼は強いのでしょう。いえそうではありません。愛する対象が彼を強くしたのです。あなたは何を愛しますか。ヒデ

土曜日, 1月 30, 2010

20100130_出エジプト01-02_詩篇53-55_ローマ07-08

■出エジプト1:8さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。
★イスラエルのエジプトにおける430年の苦役の生活の始まりです。パロのイスラエルへの酷使の背後には「これ以上イスラエルの民が増えたら支配しきれないかも知れない」との恐れの動機がありました。権威主義に陥った者は、自らの恐れの動機から、往々にして弱い立場にある人を傷付けるものです。支配ではなく共に生きる価値観の尊さを覚えましょう。しかし神様はこうした中にあっても、モーセの誕生を通してイスラエル救出の準備をこの時すでに始めます。今不当な苦しみの中に置かれている人がありますか。しかし知って下さい。たとえあなたはまだ気づいていなくても、具体的な現れはまだ見えなくても、神様を畏れるあなたのためには、神様は救いの道を既に開いて下さっていることを。

■詩篇55:22あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
★人には負うべき重荷と、負ってはならない重荷があります。ではどうすればよいでしょう。一度全ての重荷を主に委ね、主が負わせて下さる重荷を負うようにするのです。その時あなたは守られます。

■ローマ8:33神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。8:34罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
★そうです。あなたはこのお方の愛によって強められ、どんな時にも希望を持つ人となり、状況に支配される人ではなく、支配することのできる人となれるのです。この朝も心に主の愛をいっぱいに受け取りましょう。あなたの為にとりなして下さるお方は全能なる神イエス様なのですから。ヒデ

金曜日, 1月 29, 2010

20100129_創世48-50_詩篇51-52_ローマ5-6

■創世記50:19ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。50:20あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。50:21ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。
★父イスラエル(ヤコブ)が亡くなった後、兄たちの心に恐れの心が入りました。エジプトに弟ヨセフを売った件が原因です。上の言葉はそんな兄たちの気持ちを察したヨセフの言葉です。あなたが意識して人に優しく語りかけたのはいつでしょう。「私が語りかけるこの言葉を用いて、神様この人を癒して下さい」と祈らせて頂きましょう。

■詩篇51:10神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
★キリストにある救いはあなたの心に何か良いものを付け足すのではありません。神様がご自身の創造の力によって新しくするのです。ポイントは神様があなたの中で自由に働けるよう主権を明け渡すことです。

■ローマ6:10なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
★ここにはキリストが死なれた理由が明確です。「罪のため」。誰の罪のためでしょう。キリストご自身が犯した罪ですか。いいえ。あなたが、私が犯した罪のためです。キリストが十字架の上で命を捨てられた理由は唯一この理由以外にありません。そしてキリストの流された命の代価によって、神様に対しての全ての罪の代償は払い終わったのです。裁きは終わりました。赦されているのです。もはや恵みの中にあるのです。主は責めることを為さいません。かわりに「私はあなたの罪を思うことをしない」と語られます。受け取りましょう。そして恵みの中を生きるのです。ヒデ

木曜日, 1月 28, 2010

20100128_創世46-47_詩篇50_ローマ3-4

■創世記47:25すると彼らは言った。「あなたさまは私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなたのお恵みをいただいてパロの奴隷となりましょう。」
★世界を襲った飢饉の中で食料の管理を委ねられた宰相ヨセフに語った人々の言葉です。彼は飢饉の中で最初銀で、次ぎに飢饉の中で家畜を飼うことは困難なので家畜を代価とし穀物を売り、次ぎに土地と引き替えに、と飢饉をしのぎ、最後に飢饉の終焉を感じたヨセフは「さあ今、ここの種を蒔きなさい。そして収穫の時になったら、その五分の一はパロに納め、五分の四はあなたがたのものとし、畑の種のため、またあなたがたの食糧のため、またあなたがたの家族の者のため、またあなたがたの幼い子どもたちの食糧としなさい」と語ります。ここにはヨセフの飢饉を利用して私腹を肥やすよりも、いかにこの試練を民とともに切り抜け、弱い立場の者を生かし守ろうとするのかの価値観が明確です。確かにヨセフと共に主がおられます。

■詩篇50:15苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」

■ローマ4:19アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。4:20彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、4:21神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。4:22だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
★私にはそれが出来なくても神様はそのことをなして下さる力がある。そればかりか神様はこの私も顧み、約束を守って下さるお方である。信仰とは何でしょう。それは自分を見ることを止め、愛と真実と力に富む神様に目を向け、このお方に寄り頼むことです。さてあなたは信仰によって歩んでいるでしょうか。主はあなたと歩むことを心から願い、この朝も待っていて下さるお方ですよ。ヒデ

水曜日, 1月 27, 2010

20100127_創世44-45_詩篇49_ローマ1-2

■創世記45:28イスラエルは言った。「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。」
★口語訳では「満足だ」と記します。人生は時に人の妬みをかったり事件に巻き込まれたり予測不可能なことが起こりますが、神様はご自身に信頼する者の生涯を恵みに満たし、あなたに「満足だ」と言わせて下さるお方です。信じましょう。
またここには2度目の再会で恐れ惑う兄たちに「どうか私に近寄ってください。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。」と語るヨセフの姿があります。
あなたは赦しに困難を覚えますか。ならば自分の憎く悔しく悲しく苦しい感情を押し殺し隠すことなく神様の前に全て注ぎ出しましょう。そしてその後はヨセフの様に神様の御心に心を向けるのです。その時、神様があなたの赦す心を助けて下さいます。この順番は大切です。ごまかしてはなりません。

■詩篇49:15しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。

■ローマ2:16私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。
★これは主に対する主の弟子パウロの確信です。しかも神様は偏り見られることなく、ひとりびとり、その行いによって裁かれるお方。だから神様から離れた罪人である私たちの救いのために、神様は救い主キリストをお与え下さいました。まさに恵みです。だからこそただ感謝して受けとる以外、受け取り方がありません。感謝しましょう。ヒデ

火曜日, 1月 26, 2010

20100126_創世42-43_詩篇46-48_マタイ28

■創世記43:14 全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」
★神様の御計画が大きく一歩前進しようとする時です。神様はヤコブの決断を大きく用いられます。この決断の背後には、パロが夢で見たとおりの豊作に続く大飢饉の為に、エジプトとその周辺の国々は飢饉に見舞われ、イスラエルものその例外ではなく、12人の息子の父であるヤコブは失ったヨセフの弟のみを自分のもとに残し、エジプトに食料を買わせにやったのです。そこで何と兄たちはエジプトの宰相となり、食料売買をつかさどる弟ヨセフに出会うのです。かつてエジプト行きの商隊に売られたヨセフは兄たちだと直ぐに気づきます。しかし兄たちは全く気づきません。そればかりか「お前たちはスパイダ」と宰相となったヨセフに濡れ衣を着せられ、その上、父のもとにいると言った末の弟を連れてこなければ、食料を買うために私の前に立つことはゆるさないと語られるのです。それでエジプトから帰って来た息子達からその報告を受けた父ヤコブは深い苦悩の中に陥ったのです。しかし「失うときには失う」と腹を括って神様に委ねたときに、どんでん返しである、愛する息子ヨセフとの再開が与えられるとは。この後の章からがヤコブとヨセフの生涯のクライマックスです。さて神様は一体どのようにしてヤコブの家族をすくわれるのでしょう。決断して、最終的には我が思いを神様にしっかり申し上げつつも、しかし神様に明け渡し、神様の愛に信頼しすることの尊さを憶えましょう。神様は人が神様ご自身に委ねられたその領域において不思議をなし、ご自身神であることをそこであらわし、あなたを救いへと導かれます。ヒデ

月曜日, 1月 25, 2010

20100125_創世41_詩篇45_マタイ27

■創世記41:39パロはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。41:40あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」
★エジプトの王パロが見た夢を神様の霊によって解き明かしたヨセフ。それはエジプトに臨む豊作とその後の激しい飢饉に関するもので、ヨセフはその解決策まで示します。神の霊に満たされることの大切さ、神様の知恵を頂くことの大切さを覚えましょう。その人は一時的に人に忘れられ、苦しみの中を通ることがあっても、決して神様はその人を忘れることはないのです。あなたは人と比較し早く高くならねばと人間的な焦りの中にないですか。信じましょう。神の霊を持つ人を、神様は丁度よい時に高く引き上げ用いて下さり決して忘れることはないのです。

■マタイ27:42「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
★この様にキリストをあざける祭司長、律法学者、長老たち。しかしキリストが12軍団よりも多くの御使いに命じて十字架から降りたならば、彼らはどうなるのでしょう。ただ彼らは恐れおののき、口を地に付けて伏し拝み、二度と彼らは主の前に顔を上げることができず、キリストの奴隷とならざるを得ないでしょう。知って下さい。キリストは十字架から降りて自らを救うことの出来ない、力ないお方ではないのです。しかし、それをしなかったのは、あなたのため。あなたを救うためでした。いざとなったら、自分を守り、自分を救おうとする人は、結局他者を救うことは出来ません。むしろキリストが十字架から降りれたにも関わらず、そうなさらなかったことに、救いがあることに目を開かれて、この愛の中で今日も一日感謝の歩みを始めましょう。主は決してあなたを離さず、あなたを捨てることはありません。ヒデ

日曜日, 1月 24, 2010

20100124_創世39-40_詩篇44_マタイ26

■創世記40:23ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。
★エジプトに売られたヨセフについて一言で表現するなら「主がともにおられたので」です。そして実際、御言葉はそのことを「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。」(39:2)、「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(39:21)と紹介します。それだからこそサタンは人を用い、ヨセフを誘惑し、ヨセフへの当然の恩を忘却させることを通して、彼を失意のどん底に突き落とそうとするのです。それでもヨセフはかつて見た幻と、どんな時にも常に主がともにいて下さる事実を忘れません。あなたは自分を見るなら落胆します。人を見るなら失望します。だからこそヨセフのように主を見上げて生きるのです。

■マタイ26:74すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。26:75そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。
★「あなたがたは私を裏切るでしょう」と主が語ったとき、弟子たちは皆そんなことはありませんと反論を。ペテロはその中でも殊更に「他の弟子たちが裏切っても、私は決して裏切りません」と語り、何とか主の姿を追って大祭司の官邸にまで従います。しかし結末は主の言葉通り、一婦人の語りかけによって「その人を知らない」と否むのです。なぜでしょう。それは、いつでもいざとなったら逃げ出せる距離、遠すぎたのです。もっと近ければ、否む前に主の眼差しと愛がペテロの心に注がれ、恐れの中にも大胆に告白し立つことができたでしょう。さてあなたと主との距離はどうでしょう。主の心臓の鼓動を主の胸もとで聞くほどに近くおらせて頂きましょう。主は語られます。「私は決してあなたを離れずあなたをすてない」と。ヒデ

土曜日, 1月 23, 2010

20100123_創世38_詩篇41-43_マタイ25

■創世記38:1そのころのことであった。ユダは兄弟たちから離れて下って行き、その名をヒラというアドラム人の近くで天幕を張った。
★どうしてヤコブの12人の息子の一人ユダは、父と他の兄弟のもとを離れて住むようになったのかを考えるとき、かつて自らが語った、「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。」を抜きに考えられません。ひょっとすると長男ルベン同様、他の兄弟の殺意からヤコブを何とか救いたかった、あるいはほんの出来心で「エジプトに売ろう」と言ったのかものかも知れません。しかしここに罪を犯す恐ろしさが。罪とは人が負い切れるものではないのです。その結果、ユダは自分を責め、父のもとを離れヒラの地へ。では私たちが故意にしろ、ほんの出来心、あるいは不注意であっても罪を犯した場合、どこに行けばよいのでしょう。その答えはキリストです。十字架で「彼らを赦して下さい」と執り成し、「私のもとへ来なさい。休ませてあげよう」と語られたキリストの言葉を掘り下げ深く受け取りましょう。あなたの前には既に恵みによる赦しが広げられています。

■マタイ25:40すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
★ここにはキリストの愛の深さ広さ長さ高さが鮮やかです。キリストは「最も小さい者にしたのは私にした」と明確に語ります。あなたは隠れた所における愛と施しに勇気を持てませんか。あるいはもっと自由に大胆に愛を現すことのできる人になれたらとの願いをお持ちですか。マザーテレサは「私は渇く」との御言葉と、この箇所の御言葉で、最も小さき者の中にキリストを見出し、その生涯が変えられました。信じて下さい。キリストの身体、すなわち教会としてあなたが生きようとする時、そこには必ずキリストが共におられ喜んで下さっていることを。そしてそんなあなたを主は決して、御国に於いても退けなさらないのです。ヒデ

金曜日, 1月 22, 2010

20100122_創世37_詩篇39-40_マタイ24

■創世記37:6ヨセフは彼らに言った。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。37:7見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」37:8兄たちは彼に言った。「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。」こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。
★ヤコブと12の息子の歴史の始まりです。地中海世界はこの後7年間も続く大飢饉に見舞われますが、不思議な神様の計画で、エジプトの宰相となったヨセフによって救われます。それにしてもなんと言うことでしょう。兄たちの妬みをかって、17歳の弟ヨセフは兄たちの手で、エジプト行きの隊商に売り渡たされるのです。彼が夢を見たゆえんです。しかし神様は、神様にあって夢見るものに将来を託されるお方です。あなたは神様を偉大な全能者として受け入れ、このお方にあってどんな夢を見るのでしょう。

■詩篇40:7そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。40:8わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
★これは、子なる神キリストが受肉の前に父なる神様に語った言葉です。神様の御心は、心を神様にあって定めた者によって成し遂げられます。あなたの心はどうでしょう。もう既に、神様の御心をつかみ平安を得ましたか。

■マタイ24:35この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
★あなたは永遠に残るものが何かを知っていますか。神の言葉と教会です。たとえではありません。やがてこの天地も崩れるのです。そして崩れないものに望みを掛ける人が最終的な勝利者です。神の言葉と教会の交わりの中に歩める豊かさを、もう一度主にあって感謝しましょう。なぜならあなたの永遠は既に主にあって約束されているのですから。ヒデ

木曜日, 1月 21, 2010

20100121_創世36_詩篇38_マタイ23

■創世記36:6エサウは、その妻たち、息子、娘たち、その家のすべての者、その群れとすべての家畜、カナンの地で得た全財産を携え、弟ヤコブから離れてほかの地へ行った。36:7それは、ふたりが共に住むには彼らの持ち物が多すぎて、彼らが滞在していた地は、彼らの群れのために、彼らをささえることができなかったからである。36:8それでエサウはセイルの山地に住みついたのである。
★兄エソウの思いやりをここに見ます。筋で言うなら弟ヤコブが他の地へ行くべきでしょうか。この箇所を通して「立っていると思っている人は倒れないよう気をつけなさい」の御言葉を思い出します。人とは、どれほど多くの隠れた善意と愛によって支えられ生かされていることか。あるいは力を得、強くなった弟ヤコブに兄エソウはこのことを言い出しきれず仕方なく自ら他の地に移ったのかもしれません。ならば力とは何とむなしいもの。人の気持ちをねじ伏せ、人の善意さえわからなくさせ、成功はすべて私が……したからと自己満足の世界で終わらせてしまう。神様の恵みに、人の優しさに心向けましょう。そして感謝と愛を分かち合う生き方を歩みましょう。

■マタイ23:37ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
★この章は自らの力ある立場を利用し、多くの民衆をコントロールし苦しめていた律法学者、パリサイ人に対して主が呵責のない叱責を与えている箇所です。たとえば「彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。彼らのしていることはみな、人に見せるためです」と。しかしここで主の目には涙がありました。それはその叱責が単なる裁き、彼らを退けることが目的でないゆえです。私たちが常に受け取るべきはこの主の愛の心です。今日も主と共に歩みましょう。ヒデ

水曜日, 1月 20, 2010

20100120_創世34-35_詩篇37_マタイ22

■創世記35:10神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。
★一つの試練がヤコブ一家を襲ったとき、彼は「私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」とベテルへと向かいます。その時神様が上の御言葉を語られたのです。「押しのける者ではなく神の皇太子だ」と。神様とはいかなるお方でしょう。それは悩みの時あなたを励まして下さるお方です。近づくべきはこのお方、心に礼拝の祭壇を築いて主の名を求めましょう。主は必ずあなたを励まし助けて下さいます。

■詩篇37:3主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。37:4主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
★あなたが遣わされているところは「この地でありこの世」。そこで誠実を養うのです。だからこそ内に霊の命が必要です。神様はあなたを世捨て人とするためではなく、この世の変革のために召し出されました。心を強めて下さる主との交わりから、あなたが地の塩、世の光として輝きますように。

■マタイ22:21彼らは、「カイザルのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
★陥れようとした宗教家に対し、主が応えられた有名な御言葉です。「カイザルの形はカイザルに」。すなわち為政者への納税の義務を疎かにしてはなりません。しかしここで主が最も伝えたかった本質は何でしょう。「カイザル形はカイザルに、ではあなたにはどんな形が刻まれているのか。あなたには『神のかたち』が刻まれているではないですか。それは神様に返すのです」です。わすれないで下さい。あなたの中には神御自身が造られた、永遠を慕う、神に似せて造られた「神のかたち」があるのです。ヒデ

火曜日, 1月 19, 2010

20100119_創世32-33_詩篇36_マタイ21

■創世記33:1 ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが四百人の者を引き連れてやって来ていた。ヤコブは子どもたちをそれぞれレアとラケルとふたりの女奴隷とに分け、33:2女奴隷たちとその子どもたちを先頭に、レアとその子どもたちをそのあとに、ラケルとヨセフを最後に置いた。33:3ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。33:4エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。
★兄をだまし、長子の特権と祝福を奪ったヤコブが21年ぶりに生まれ故郷に帰り、兄に対面しようとするとき最初に取った態度とは。400人の勇者を前に使わし、力で兄をねじ伏せようとするそれでした。それによって激怒する兄。そんな不遜な態度ででるならば、こちらも400人の勇士をもって迎えてやろうじゃないか。ヤコブはその兄の反応を恐れ、一行全員が皆殺しにされても自分は助かれるように、一番後にわが身を置きます。しかし、その夜あらわれた神様の使いとの霊的格闘で、霊的もものつがい「力の源」に触れられ砕かれたヤコブは、自分の非を認め一番後ろからではなく、先頭にたって、謝罪の気持ちで兄に向かいます。なんとその結果、生まれたのが上の麗しい兄弟の再会の場面です。
人は問題の原因を外に見出し、それを指摘し叩き、他者を変えようとしますが、多くの場合うまく行きません。しかし、まず自分自身を掘り下げ、誤魔化さないで自分の非と向き合い、それを認め、主の前にひざまずき、あわれみを求めるなら、主は思わぬ恵みと祝福を与えてくださるのです。ヤコブはこの時、神様の使いにあなたの名はと尋ねられ時、はじめて自ら「私は押しのける者。ヤコブです」と応えます。祝福の鍵を握るのは人ではなく自分。変わることの出来るのも人ではなく自分。結果、主からヤコブではなくこれらイスラエル「神の皇太子」と呼びなさいと語られました。ヤコブとその信仰に生きる彼の霊的子孫の上に、今も後も代々限りなく神様の祝福がありますように。ヒデ

月曜日, 1月 18, 2010

20100118_創世31_詩篇35_マタイ20

■創世記31:36そこでヤコブは怒って、ラバンをとがめた。ヤコブはラバンに口答えして言った。「私にどんなそむきの罪があって、私にどんな罪があって、あなたは私を追いつめるのですか。31:37あなたは私の物を一つ残らず、さわってみて、何か一つでも、あなたの家の物を見つけましたか。もしあったら、それを私の一族と、あなたの一族の前に置いて、彼らに私たちふたりの間をさばかせましょう。
★ここに押しのける人ヤコブの性質が如実に表れます。伯父ラバンのもとを逃げるように出で立ったヤコブ。その時ヤコブの妻ラケルはヤコブに内緒で、父ラバンが占いに使うテラフィムを盗んでいたのです。結局ラバンはラケルが隠し持っているテラフィムを見つけることができません。その時ここぞとばかりに訴えているのが、このヤコブの姿です。自分に非のないのがわかり、相手の間違いを容赦なく責め立てるヤコブ。まさにこれが押しのける者の性質。そして恐れに心が捕らわれている人、ヤコブの姿でした。神様はそのヤコブを、神の皇太子へと造りかえられるのです。主の御名は、ほむべきかな。

■詩篇35:1主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。

■マタイ20:12言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』20:13しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。20:14自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
★たとえどんな人であれ精一杯生きようとする人には1日1デナリ。即ち人が生きて行く上で必要なものは得られるべきである。「私はそうしてあげたいのだ」。最も辛く悲しい立場の人にとって、この主の発言はどれほどの慰めでしょう。この主のお心のゆえに私たちは主を誇り、その心を自らのものとさせて頂きたいのです。あなたの辛いときにも、主はそう語って下さいます。ヒデ

日曜日, 1月 17, 2010

20100117_創世30_詩篇34_マタイ19

■創世記30:33後になってあなたが、私の報酬を見に来られたとき、私の正しさがあなたに証明されますように。やぎの中に、ぶち毛やまだら毛でないものや、羊の中で、黒毛でないものがあれば、それはみな、私が盗んだものとなるのです。」30:34するとラバンは言った。「そうか。あなたの言うとおりになればいいな。」
★「そうか。あなたの言うとおりになればいいな」とは、押しのける者ヤコブへの母の兄ラバンの言葉です。そしてその言葉の意味はヤコブはラバンのもとで働いたが、当然得るべき報酬も得ることができず、ただ働き同然の軽んじられた生活を強いられたと言うことです。兄の長子の特権や祝福を父さえ騙して奪おうとするヤコブの性質を知ったラバンはヤコブの人格を蔑み、正当に扱うことが出来なかったのでしょう。本当に、人は必ず蒔いた物を刈り取ることになる霊的法則は、ここでも明らかですから厳かです。一時的に人は騙せても決して神様をだますことが出来ないことを知る人は幸いです。

■詩篇34:18主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。34:19正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。

■マタイ19:26イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
★「まことにまことにあなた方に言います」とか、主がじっと見つめて語られるその時とは、主が最高度に今から語る真理をしっかりと受けとめて欲しいと願って取られる行動の常套手段です。主はあなたに知って欲しいことがあるのです。神は人でないことを。私もあなたに知って欲しいことがあるのです。人が神様の前に犯せる最大の罪とは不信仰であることを。あなたは決して自分の知識と経験で神様を小さくしてはなりません。神様はあなたよりも大いなるお方で、決してあなたの設ける枠の中には入りきらない愛と恵みに富むお方です。それを感謝し信じましょう。ヒデ

土曜日, 1月 16, 2010

20100116_創世28-29_詩篇33_マタイ18

■創世記28:15見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
★兄エソウの長子の権を奪い、祝福まで弟ヤコブが奪ったことを知ったとき兄エソウの中に弟ヤコブへの殺意が芽ばえます。それを知ったヤコブは母リベカの生まれ故郷、兄ラバンのもとに向かいます。上の御言葉はその途中、不安と孤独の中で石を枕に一晩過ごしたとき、夢の中に語りかけられた神様のことばです。なんと神様はあわれみ深いお方でしょう。先が全く見えず希望がなく、自分がしたことが正しいことかと言えばその確信もなく、かといって兄のもとに帰って悔い改める遜った心があるかと言えばそれもなく。そんなヤコブにとって「あなたを捨てない」はどれほどの慰めだったでしょう。聖書は語ります。「神の選びと召しとは変わることがない」と。
そして神様があなたに注ぐ愛と、あなたへの召しも変わることがありません。安心しましょう。そして人の祝福は自分が押しのける者ヤコブであることに気づき、神様の憐れみを求め始めるところからスタートすることを覚えましょう。罪を犯したアダムの子孫は皆、霊的な意味において、押しのける者の性質を持つヤコブです。しかし神様はその私を神の皇太子「イスラエル」へと変えて下さり、ここにこそ希望があるのです。

■詩篇33:9まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。33:10主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。33:11主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。33:12幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。……33:18見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。
★そうです主の目はあなたに注がれています。そして主の救いと恵みはあなたのも、なによりも神様を恐れ、御心を求めるあなたの計画を主が成し遂げて下さるのです。何とあなたは幸いな人でしょう。ハレルヤ!ヒデ

金曜日, 1月 15, 2010

20100115_創世27_詩篇32_マタイ17

■創世記27:38エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声をあげて泣いた。
★兄の祝福まで奪った押しのける者ヤコブ。決してヤコブが正しいわけではありません。結果、彼は今後21年間、生まれ故郷を離れ、苦しい生活を強いられます。しかしこの兄エソウはかつて「長子の特権」など何になろうと、飢えを満たすにまかせて、パンとレンズ豆の煮物で弟ヤコブにその特権を売り渡してしまうのです。神様がよしとされた「長子の特権」をいとも簡単に売り渡すなんて、注がれる霊の祝福の秩序の見えていない証拠です。学びましょう。あなたにも今でなけれ開かれていない祝福があるのです。取りもどせない祝福も、ただ信じて受け取る恵みの祝福も、神様の祝福の中にはあるのです。
あなたは神様が「……を祝福する。……の祝福をおまえに与える」と語られるのに、「どうせ私なんか……。まさか私なんかに……。」とあれこれ理由をつけて折角の祝福を拒絶しているところはないですか。神様はあなたが想像する以上に、あなたに対し気前よく素晴らしいことをして下さるお方です。信じ受け取るのです。そう神様が今くださろうとしている祝福は今受け取るのです。決して神様のくださる祝福を、かつてのエソウのように軽んじ拒んではなりません。恵みに対し素直な人が祝福を受けます。

■マタイ17:4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
★主と共に山に登り、主の素晴らしいことを見たペテロは何と言ってその素晴らしさを表現してよいか分かりませんでした。しかし、素晴らしさはそれだけではありません。山のふもとに留まった他の弟子たちの所にも、てんかんで苦しむ少年を癒す機会が備えられたのです。大切なことは信仰によってその人をキリストのもとにお連れすること。あなたは他者の祝福のために遣わされた所で祝福をお祈りするためにも召し出されました。ヒデ

木曜日, 1月 14, 2010

20100114_創世25-26_詩篇31_マタイ16

■創世記26:24主はその夜、彼に現れて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
★主がアブラハムの子イサクに語れた言葉です。この言葉によってイサクはどれほど励まされたことでしょう。しかし思い違いをしてはならないことは「アブラハムのゆえに」です。ある人々は「……は全部、自分がやった」とのことばで、その場をコントロールし周りの人々を不愉快な思いにさせることがありますが、聖書はここで「恵みのゆえに」とイサクに示すのです。立っていることは感謝、倒れないようにしなければなりません。そのためには「受けた恵み・支え・励まし・執り成し」を、感謝を持って受けとめ、栄光を父なる神様にかえすことです。「高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを給う」のは神様によって定められた不変の法則です。

■マタイ16:24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。16:25いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。16:26人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
★命には2種類のいのちがあることを主はここで示されます。肉体の命とまことの命(永遠に存在する霊の命)です。あなたはどちらを優先していますか。また自分の命とは、自分で守ろうとするよりも、使うことを優先すべきも、ここで主は示されます。もっとも幸せな人とは誰でしょう。それは自分の命を捨てても惜しくないほどに、価値あるものを見つけ、そこに人生をかけることのできる人。そして主はあなたの中に価値を見つけ、その為に命を捨てて下さいました。あなたはこの愛にどう応えるでしょう。ヒデ

水曜日, 1月 13, 2010

20100113_創世24_詩篇29-30_マタイ15

■創世記24:14 私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」
★これはアブラハムから息子イサクのお嫁さん探しの使命を託された、アブラハムの最年長の僕の、お嫁さん探しの規準です。彼はアブラハムの家の全財産を任されていました。あなたは人を選ぶとき何を規準に選びますか。この僕の規準は私だけではなく、もう一つ気を使い、ラクダにもと言うことのできる愛の人でした。何を物差し、規準にするかによってその人自身が測られ、それによってその人の将来が変わります。願わくは、一時的なこと外見的、表面的なことではなく、内面的、本質的なことによって、人と関わることができますように。

■詩篇30:4聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。30:5まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

■マタイ15:26すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。15:27しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」15:28そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
★主はあなたの信仰をためされるお方。神様は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを下さいます。主はあなたの為に素晴らしい用意を既にしておられます。あきらめの霊、敗北の霊に支配されることを神様は願っておられません。遜りましょう。求めましょう。そして約束のものを頂いて栄光を神様に帰しましょう。ヒデ

火曜日, 1月 12, 2010

20100112_創世22-23_詩篇26-28_マタイ14

■創世記22:2神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
★アブラハムに臨んだ神様からの試練です。最愛、しかもひとり子であることをよくご存知の上で「イサクをささげよ」と。アブラハムは次の日躊躇することなく出かけ、指定された山のふもとまで来たとき、若い僕たちに「ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとは行き、礼拝をして、戻って来る」と言ったのです。この時のアブラハムの確信とは何でしょう。聖書は他の箇所で「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです」と答えます。神様は最善以外なさらない。生かして返して下さるお方。そして、まさにこのことを通して、アブラハムはイサクへの盲目的な溺愛から守られ、神様から託された大切な子供を、神様からお預かりしたものとして、育てることができたのです。全ては神様のもの、しかし神様はこの私も信任下さって、神様の尊いものを委ねて下さるお方。あらゆる面において、この信仰に立つ尊さを、心に憶える人は幸いです。

■マタイ14:27しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
★嵐となった湖の上で船をこぎあぐねる弟子たち。そこに歩いてイエス様が近づいたのです。主を幽霊と思い、恐れるのは当然かもしれません。しかしその時主は「恐れるな」と語られます。そして主が弟子たちの船に乗り込まれたとき嵐は止みました。そう、主は全能者。そのお方が、あなたの救いの為におとめマリヤのお腹をかり、人の姿を取って来て下さったのです。今日あなたは「恐れるな」と語りかけて下さる主の御声が聞こえますか。主を心の中に迎え入れましょう。主は嵐を静めて下さいます。ヒデ

月曜日, 1月 11, 2010

20100111_創世20-21_詩篇23-25_マタイ13

■創世記21:1主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。21:2サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
★それはアブラハムに神様が「父のもとを出て私の示す地に行きなさい」と語られた25年目のことでした。確認しましょう。主が語られたことは必ず実現へと導かれるのです。その途中には一度ならず2度までも「これは私の妹です」と自らとサラの関係が夫婦であることを隠し、肉策我策、自己保身の心で問題に臨もうとしたことも否めません。それでも主は、ご自身を見上げるアブラハムに、その時その時関わって下さり、信仰の父と呼ばれる器へと立て上げて下さったのです。自分に失望してはなりません。主に望みをおくのです。「この私をも神様は造りかえることができる」。主はアブラハムのこの信仰のゆえに、彼を義とし、信仰の父、やがて神の友と呼ばれることを恥とされなかったのです。

■マタイ13:23ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
★道ばたに落ちた種。岩地に落ちた種。いばらの中に落ちた種。そして良い地に落ちたものは30倍60倍100倍と。しかし大事なことは、人の心に関して最初から良い地はないと言うことです。神の言葉に示されて、聖霊様のあたたかな配慮のもと、罪を悔い、弱さ傷を認めて、励ましを受け取った結果、実を結ぶ良い地とされるのです。悔い改めてない罪は自己弁護、自己保身をもたらし。癒されていない傷を認めない場合は、時には自分は無意識の中にあっても結果、攻撃的人生の中で相手を傷付けざるを得ません。赦しと癒しは既に主の中に。恐れないで心を開き神様の恵みの中に飛び込む時そこから神様の不思議がはじまります。ヒデ

日曜日, 1月 10, 2010

20100110_創世19_詩篇22_マタイ12

■創世記19:8お願いですから。私にはまだ男を知らないふたりの娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」
★ソドムとゴモラに神の使いが訪れた時、ロトは自分の家に泊まるようにと語りますが、ホモセックスを求めて戸を叩く町の汚れた人々の前に、自分の娘を差しだそうとするのです。アブラハムと分かれたときも、こうした時も外面のよさを優先しようとするロト。結果、彼は家族を失うことになるのです。しかし、本来ロトが守るべきは家族であり神様への信仰です。その心が世の欲に囚われている人のあわれを覚え、心のスイッチを明確に神様の側に切り替えさせて頂きましょう。

■詩篇22:1わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
★あなたは父に捨てられた経験がおありですか、あれば主はあなたと同じ経験をなさいました。なければキリストが捨てられたのは、あなたが父なる神様に捨てられなくてすむ道を開いて下さるためです。感謝して受け取りましょう。

■マタイ12:45そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」
★聖書はあなたが関心を寄せ、心開こうとするものについて、よく吟味しなさいと語ります。開いたものに影響を受けるのです。とりわけ注意すべきは偶像礼拝です。何にでも手を合わせることがないように。なぜなら霊的には手を合わせ、礼拝をすることによって、そこに契約関係が生じるからです。キリストはあなたを奴隷ではなく、あなたに自由を与えるために十字架の上で死んで下さいました。ヒデ

土曜日, 1月 09, 2010

20100109_創世17-18_詩篇19-21_マタイ11

■創世記17:5あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。
★アブラムとは高貴なる父、高められた父との意味。アブラハムとは多くの国民の父との意味。そう神様は人の生涯に関わり、名前とその人の本質を新しくして下さるお方です。サライはサラへ。シモンは大岩の意味であるペテロへ。大きいものとの意味のサウロは、キリストにあっていと小さき者との意味のパウロへ。押しのける者ヤコブは神様の皇太子との意味のイスラエルへ。あげれば更に続きます。あなたを母の胎に形づくられ、あなた以上にあなたを知っておられる神様は、どのようにあなたを祝福しようと計画しておられることでしょう。今まで以上に関心をもって神様の語りかけに耳を傾けましょう。あなたは神様の喜びの対象です。

■詩篇19:13あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。19:14私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。

■マタイ11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
★有名なキリストのことばです。どうすれば安らぎが与えられるのでしょう。この点においてある人々は誤解のゆえに失敗します。全ての責任の放棄、自由の権利の主張によってではありません。キリストがともに負って下さるくびきを負うことによってです。人は父なる存在、天の神様のもと、価値あることに参加し、自ら必要とされ、ともに励まし合える関係の中で満足と安らぎを経験します。あなたもこの関係の中で安んじましょう。ヒデ

金曜日, 1月 08, 2010

20100107_創世15-16_詩篇18_マタイ10

■創世記16:4彼(アブラム)はハガル(サライの女奴隷)のところに入った。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人(サライ)を見下げるようになった。
★主人を見下げるようになったハガルもハガルです。しかし、アブラムの妻サライも「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」とアブラムに勧めたのです。その点聖書は「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」と教えます。主人の迷いは主人の迷いに留まりません。その下に置かれた全ての人に影響をもたらします。だからゆるがない神の言葉に踏みとどまる責任が大きいのです。あなたに必要なのは神の約束ですか。信仰ですか。それとも忍耐ですか。

■詩篇18:6私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。18:9主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして。
★主はあなたの為にくだって下さるお方です。

■マタイ10:28からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
★あなたは何を恐れているでしょう。人は何を恐れるかによって生涯が変わります。それは、ある人にとっては「あなたは何に支配されていますか」との言葉に置き換えることも可能かもしれません。唯一あなたが恐れることによってあなたを解放して下さるのは神様。それ以外はあなたを奴隷として縛るものであることに目がくらまされていてはなりません。ヒデ

木曜日, 1月 07, 2010

20100107_創世13-14_詩篇17_マタイ09

■創世記13:14ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。13:15わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
★本当のところあなたは何に信頼しているのか。依存しようとするのか。神様のアブラムに対するテストです。そしてアブラムがロトに対して「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」と神様のみに望みを置いたとき、上のみ言葉が語られました。神様の祝福の法則を知って下さい。それは、まずは分離です。「父の元を離れ」の原則を心に刻みましょう。

■詩篇17:1主よ。聞いてください、正しい訴えを。耳に留めてください、私の叫びを。耳に入れてください、欺きのくちびるからでない私の祈りを。17:2私のためのさばきが御前から出て、公正に御目が注がれますように。

■マタイ9:18イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」
★主の奇蹟は「でも、おいでくださって……」と、主のみわざを信じて、主を問題のただ中に迎え入れようとする人を用いて為されます。あなたにとって問題と、主とどちらが大きいでしょうか。主の偉大さに目を留めましょう。主の愛の大きさに心を満たして頂きましょう。そして主を信頼して問題のただ中に迎え入れさせて頂きましょう。そして主の奇蹟を見させて頂きましょう。主は今日もあなたが主よお越し下さいと招く所に一緒に行って下さるお方です。ヒデ

水曜日, 1月 06, 2010

20100106_創世11-12_詩篇14-16_マタイ08

■創世記12:1主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。12:2そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
★「神の友」「信仰の父」「祝福の基」と呼ばれたアブラムの生涯に関わる記述のスタートです。子供が与えられていないアブラムとサライに神様は上の言葉を語られます。「そうすればあなたを大いなる国民にする」と。考えてみましょう。人に与えられているもので自分にないもの、それは必ずしも不幸でしょうか。いいえ。もしそれが同じように与えられていたらアブラム夫婦はこの時、神様に従うことは出来なかったでしょう。ならば自ずとその後の全ての祝福もありません。そう、人は弱さの中でこそ、主に心を向けることが出来るのです。あなたには人知れない弱さや痛みがありますか。それは見方を変えれば、あなたになくてはならない祝福ではないでしょうか。問題は神様に従い始める生涯を歩むかどうか。そして神様は従う者の生涯を必ず祝し、埋め合わせをして下さるお方です。アブラムを召し出された主はあなたをも召し出そうと「私の示す地に行きなさい」と語られるお方です。祝福を与えるために。

■詩篇16:7私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。16:8私はいつも、私の前に【主】を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。

■マタイ8:16夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。8:17これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」
★そう主は「私たちのわずらいを、私たちの病を」十字架の上で身に受け、私たちの生涯に癒しと解放をもたらすために、この世に来て下さいました。信仰を持って今、この恵みを感謝して受け取りましょう。そこから主の命はあなたの内に注がれるのです。ヒデ

火曜日, 1月 05, 2010

20100105_創世09-10_詩篇11-13_マタイ07

■創世記9:15わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。
★洪水後、神様は改めて「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」とノアの家族を祝福して下さり、その上で二度と洪水によっては滅ぼさないと虹の契約を下さいました。それが出来ないからではありません。いえ、できますが、愛がそれを留めたのです。よって聖書は「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」と神様のご性質を証詞します。

■詩篇12:6主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。
★神の言葉は歴史上何度となく試され、それで人々は真理として受け入ることができるようになりました。試みの中にある時、それはどれほどの苦しみでしょう。しかし投げ出さないで下さい。神様がその試練の後、あなたを高く引き上げようとしておられるのですから。

■マタイ7:24だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。7:25雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
★この世の価値観は外見を飾らせようとしますが、神様はあなたの内面を揺るぎないものとして輝かせようとなさいます。神の言葉に聞き、そこに生きる決心をするのです。その時あなたは神様が生けるお方であることを体験し、神様の助けの中で、今まで成し得なかったことを成し遂げる人となるのです。ヒデ

月曜日, 1月 04, 2010

20100104_創世07-08_詩篇09-10_マタイ06

■創世記8:1神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。
★ノアの洪水の史実性に関心のある方へのキーワードは創世1:7「神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。」の「大空の水」。ノアの洪水後の人間の年齢が急激に短くなった創世記11章の記載。更に化石形成にまつわる不思議です。端的にはそれまで地球を覆っていた厚い水蒸気層が、何らかの原因で雨となり地に注がれたことが原因です。
さて本論です。40日40夜降り続いた洪水の中で、ヨブ達はいつ降り止むのだろうと不安になった事でしょう。しかし御言葉には「神はノアを心に留めておられた」と記します。今、あなたはどんな不安をお持ちですか。しかし神様はあなたを心に留め、合わせてその不安にも終止符を打って下さるお方です。

■詩篇10:3悪者はおのれの心の欲望を誇り、貪欲な者は、主をのろい、また、侮る。10:4悪者は高慢を顔に表して、神を尋ね求めない。その思いは「神はいない」の一言に尽きる。10:5彼の道はいつも栄え、あなたのさばきは高くて、彼の目に、入らない。敵という敵を、彼は吹き飛ばす。
★本当にそうでしょうか。彼は知らないのです。やがて神様が正しい裁きをなさることを。悪に負けてはなりません。そしてあなたは、この詩でダビデがしたように、辛い思い、憤り、悲しみの訴えを主に持ち出してよいのです。主の前に辛く悲しい時、義憤の思いを留めることができない時、いつにも勝って、心を注ぎ出しましょう。主はあなたを受けとめて下さいます。

■マタイ6:4あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
★4・6・18節と3度御言葉は「隠れた所で見ておられるあなたの父」と記します。あなたの人生の厚みはどれほどでしょう。父なる神様のみご存知の愛の業はあなたの宝です。多くの人はそれを人の前で吹き鳴らし、自己宣伝に用い、祝福を虚しく地に落としてしまうのです。厚みのある人生を生きましょう。ヒデ

日曜日, 1月 03, 2010

20100103_創世05-06_詩篇06_マタイ05

■創世記6:7そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」6:8しかし、ノアは、主の心にかなっていた。
★神様さえ、手のつけようがないほどの悪とは、どれほどのものでしょう。これが自由を与えられた者の恵みと怖さです。その中でも一人輝く存在がノアです。神様は、罪を犯した人間に対して、もうダメだ。ゼロからやり直しと、書き損じた紙を丸めて、全部いっぺんにゴミ箱に捨てるようには、人を扱われません。むしろ回復を願い、その可能性に目を注がれるお方です。あなたは自分自身の過去の失敗の経験から、自分を諦めてしまってはいませんか。しかし主は決してあなたを諦めてはいませんよ。

■詩篇6:8不法を行う者ども。みな私から離れて行け。主は私の泣く声を聞かれたのだ。6:9主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。
★その通りです。主は確かにあなたの流す涙に心を合わせ、嘆く声に耳を傾け、あなたをゆえなく滅びに陥れようとする者に対して、あなたに代わって戦って下さるお方です。神様はあなたを耐えられない試練に会わせることはなさらないばかりか、脱出の道をも備えて下さるお方です。信じましょう。そして報復の思いがあるなら、それを主の御手に委ねるのです。

■マタイ5:9平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
★主イエス様が山上の説教として語られた8つの祝福の中のひとつです。平和を語る人は沢山います。しかし主は、平和をつくる者たることを願われます。そしてそれは自らの心に平和を持つものでなければ実現不可能です。では第一ステップは何でしょう。心の中から赦せない思いを、全部主の前にはき出すのです。捨てれば新たに主の平和を受け取れます。そして主にある友に執り成しをしてもらうのです。そこから生まれる平和こそ、やがて世界を変える平和です。そしてそのスタートはあなたの心から。真の平和を造るために、神様に召しだされたあなたとあなたを主の前に執り成してくれる友に主の祝福を。ヒデ

土曜日, 1月 02, 2010

20100102_創世03-04_詩篇03-05_マタイ03-04

■創世記3:7このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
★神様の言葉よりも、惑わす者、サタンの言葉をより信じたアダムとエバの姿です。罪とは何でしょう。それは、他者との違いが受け入れられなくなることです。ありのままの自分、他者と違う自分に自信が持てなくなるのです。その結果、物まね、責任転嫁、恐れの人生が始まります。しかし神様はこの時既に「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」と、キリストによる身代わりの救いの予表を示して下さいます。人が罪に支配されたその時から、私たちの望みは、ほふられる小羊キリストにあります。仰ぎましょう。そして生きるのです。

■詩篇3:7主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。3:8救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。
★まさにアーメン。あなたの祝福がこうしてディボーションを通して主に近づくおひとりおひとりの上にこの一年も豊かにありますように。

■マタイ4:11すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。
★御使いに支えられ仕えられるキリストの生涯のスタートです。そしてキリストが通ったこの誘惑は、神様を愛し、神様の御心を行いたいと願う人なら一度は誰でも通る試みです。ではキリストとあなたとの違いは。それはあなたが、その試みに勝利しようとする時、キリストはあなたのかたわらで励まし、あなたを力づけ、あなたを導いて下さる。即ちキリストはどんな時にもあなたのかたわらにいて下さるということです。キリストの側に立てば勝利は必ずあなたの側にあります。恐れなく立ちましょう。そしてあなたはこの一年、主の奇蹟をみるのです。ヒデ

金曜日, 1月 01, 2010

20100101_創世01-02_詩篇01-02_マタイ01-02

■創世記1:26神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
★天地創造のくだりです。よりによってどうして人間を一番最後、6日目に造られたのでしょう。大切ならば、好きならば、一番最初に造ればいいものを。「いつ生まれても困らない用意ができてから」がその答えです。そうです神様はあなたを愛し、顧みておられるのです。神様はあなたの命をご計画のうちに与え、あなたの人生に希望と喜びを抱きつつ創造して下さいました。さあ今年も、その神様のあなたへの愛を発見する喜びの旅のスタートです。このメールを受け取られた全ての人の上に神様の祝福が豊かにありますように。

■詩篇1:3その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
★うわべではありません、問題は根っこが水路に届き、そこから命を受け取っているかどうかです。あなたのルーツとは何でしょう。そうこのディボーションを通しての主との交わりです。ですからあなたは何をしても栄えるのです。一人では弱いです。だから励ましつつ歩むのです。そして心を主に注ぎ出しましょう。

■マタイ1:19夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
★あなたは年の初め、神様の御心を間違って受け取ったらどうしようと恐れに囚われてはいませんか。神様が見られるのは動機です。ここでもヨセフの決心は正しさにおいて不十分でしたが、神様は御使いを遣わし、完全にして下さいました。それに何より、ヨセフは神様の喜びの対象。そしてそれはあなたもです。この年の初め萎縮してはなりません。神様はあなたよりも大いなるお方。さあ背筋を伸ばして、示され、信じたところに従い歩み出しましょう。間違ってたら神様が軌道修正して下さいます。大丈夫。ヒデ