月曜日, 5月 31, 2010

20100531_ヨシュア17_イザヤ23_ヘブル3-5

■ヨシュア17:14ヨセフ族はヨシュアに告げて言った。「主が今まで私を祝福されたので、私は数の多い民になりました。あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか。」
★「なぜ一つの割り当て地なのですか……」そう尋ねるヨセフ族に対する主の答えはこうでした。「もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。」。「でも敵は戦車も持って強いのです。」「強い敵だからこそ。あなたは子孫のために彼らを追い払わなければならないのです」。何とヨセフ部族のリーダー達と主の考えは違うのでしょうか。上を仰ぐ事を忘れたら人の心はどんどん内向きかつ萎縮傾向に向かいます。しかし仰ぐ者を決して見放なすことなく共に戦って下さる主を、私たちは忘れてはなりません。

■ヘブル5:8キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、5:9完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、5:10神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。
★信じがたい言葉がここに。「キリストは…従順を学び」と。聖書は、イエス様ご自身が従順を学ばれたと記します。父なる神様と共に万物を創造され、願えば天の使の十二軍団以上をも動かすことのできるお方。そのお方が従順を学んだのです。あなたは遜ること、謙虚になること。それは愚か者、弱い者のすることと軽んじているところがありますか。しかし主は、従順は学ぶべき価値あるものと評します。仕えて始めて仕える人の気持ちが分かり、従って始めて従う人の気持ちが分かるのです。あなたはどれくらい従順を学ばれましたか。それとももう学ぶ必要がないほどに従順を通して学ばれましたか。聖書は「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」と語ります。信じましょう。ヒデ

日曜日, 5月 30, 2010

20100530_ヨシュア16_イザヤ22_ヘブル1-2

■ヨシュア16:10彼らはゲゼルに住むカナン人を追い払わなかったので、カナン人はエフライムの中に住んでいた。今日もそうである。カナン人は苦役に服する奴隷となった。
★この箇所はエジプトで宰相となったヨセフの子供マナセとエフライムの子孫の約束の地に於ける記述です。カナン人を余すところなく追い払なさいとの主の命に対し、彼らは「カナン人を追い払わなかったので」と記します。その自己肯定の為にエフライムは「まあいいか。彼らは私たちの奴隷となって、私たちは彼らをこき使えるのだから。損はないか……」とでも思ったのでしょう。妥協によって失うものと、妥協の産物として目の前で得るものと、どちらが益かはすぐには分かりません。しかし、どんなことがあってもあなたは誰かを自分の奴隷にしてはなりません。もしそうするならば、奴隷とした人の面倒をあなたは一生みることになるのです。子を妻を夫を友を奴隷としてはなりません。あなたの霊がどんな時にも奴隷の霊に縛られることがないように、全ての人に対して敬意を払う人として接するのです。今その価値観であなたを祝福します。

■ヘブル2:18主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
★1章のみことばは「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」と、キリストがまぎれもない神様ご自身であることを紹介します。にもかかわらず、なぜにこのお方は人となって私たちの世界に来て下さったのでしょう。ここには、その最大の理由とも言える内容が。それはあなたを理解し、あなたを助けるため。その人と同じ立場に立てない人にどうしてその人を理解することができるでしょう。キリストは高いところから物を語られるお方ではありません。さああなたの為に私は跪いた、この私を踏み台として、壁をこえなさい。そして天国に行くのです。さあ罪の赦しと永遠の命を受けるのですと語られます。あなたの後ろ楯は主です。ヒデ

土曜日, 5月 29, 2010

20100529_ヨシュア15_イザヤ20-21_ピレモン1

■ヨシュア15:19彼女は言った。「私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。」そこで彼は、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。
★約束の地を勝ち取った者に我が娘を与えるとカレブは語りますが、ここは、その約束に基づいて兵士オテニエルに嫁ぐ娘アクサの願いに応えカレブが泉を与える所です。荒野において泉は命の源。娘はひとつの泉を求めますが父は二つを与えます。これが父の心です。そして天の父は私たちが人生の荒野で渇くことが無いように「誰でも渇く者は私のもとに来て飲みなさい。そうすれば命の水が腹の中から湧きあがります」と、私たちを招いて下さるキリストを与えて下さいました。その場限りの潤いではありません。こんこんと心の中心から湧きあがる潤いです。父の愛をアクサが受け取ったように、この朝私たちもしっかりと天の父の愛を受け取りましょう。

■ピレモン1:15彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。
★本当は非常に大切な人物。しかし主人ピレモンにとってオネシモは今や何の役にも立たない者になり、そればかりかローマへと逃亡したのです。にもかかわらずローマで主が御自身の僕パウロを用いてオネシモに出会われるとは。何と主は不思議をなさる方でしょう。オネシモはり主の恵みによってすっかり変えられました。そして主は再び主人ピレモンの元へとオネシモを送り返そうとなさるのです。本当は大切な者が手の届かない所に行ってしまったかに見える時、失望してはなりません。そこは主が働かれる世界です。祈ることしかできません。しかしそこで主は御業をなされるのです。残されたピレモンは何をすべきでしょう。それはオネシモを迎える為の備えでした。主は働かれるお方です。あなたの心はそれを受け取る用意が出来ていますか。ヒデ

金曜日, 5月 28, 2010

20100528_ヨシュア14_イザヤ19_テトス1-3

■ヨシュア14:12「どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」
★これは、ヨシュアを含む12人の斥候の一人として約束の地カナンに遣わされたカレブの45年前の言葉です。かつて彼は「ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。……主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」(民数記14:9)と語ります。その信仰はかつてのものではなく45年後も変わりません。この時カレブは85才。安心しましょう。主に信頼する者の生涯を主は責任をもって全うさせて下さいます。あなたのその生き様が人々の励ましとなりますように。

■テトス3:4しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、 3:5神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。3:6神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
★ここには私たちがしっかり受け取るべき言葉が豊かです。「私たちを救ってくださいました。・聖霊を……豊かに注いでくださったのです」。お尋ねしますがそれは、「救ってくださるであろう。注いでくださるであろう」ですか? いいえ。それは既に神様の恵みのゆえになされた事実なのです。だから、ただ信じ感謝し受け取るのです。それ以外に受け取り方はありません。そのことに同意し、顔を上げて主に感謝をささげるあなたを主どんなに喜んでおられることでしょう。さあ今日も主と共に始めましょう。あなたの道は主の御心の真ん中にあります。ヒデ

木曜日, 5月 27, 2010

20100527_ヨシュア13_イザヤ17-18_2テモテ3-4

■ヨシュア13:1ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。
★主にあって約束の土地の獲得に力を注ぎだしたヨシュア。しかし彼も気づいてみると早年を重ね老人となりました。思えば地上の生涯とはいかにつかの間のことでしょう。改めて人生とは迷うためでなく御心を成し遂げるためのものと思います。その上で主は「まだ占領すべき地が沢山ある」と。それは、あなたはまだ変わる事ができる。キリストに近づくことが、似ることができると言うことです。あなたにとってこれは恵み?それとも労苦ですか。大きく勝ち取った地をそれぞれの部族毎の相続地として分け与えるのは他でもないあなたに残された仕事です。良き知恵が与えられますように。

■イザヤ17:14夕暮れには、見よ、突然の恐怖。夜明けの前に、彼らはいなくなる。これこそ、私たちから奪い取る者たちの分け前、私たちをかすめ奪う者たちの受ける割り当て。
★報復に対する主のメッセージは昔も今も変わりません。「私のすることである」。なぜでしょう。それは間違いの無い裁きをこのお方は必ずなして下さるからです。正当な対策、対応を講じる中にも、苦々し思いは主に明け渡すのです。自分が病んではなりません。

■2テモテ3:16聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
★誰かに聖書とはどんな書物ですかと問われるなら、ここにこそ、あなたが答えるべき答えがあります。神が与えて下さった書物。神の言葉が記された書、神様が御自身を顕された書。それが聖書です。それ以外の理解はどんなに深い聖書の研究家のように自らを現しても無意味です。また時代に合わせ聖書を変えよう、評価しょうとするのではなくあなたが聖書によって変わるのです。なぜならそこにこそ救いがあるからです。変えて下さる生ける神様の御力を仰ぐあなたを、主は今日も祝福して下さいます。ヒデ

水曜日, 5月 26, 2010

20100526_ヨシュア12_イザヤ16_2テモテ2

■ヨシュア12:1イスラエル人は、ヨルダン川の向こう側、日の上る方で、アルノン川からヘルモン山まで、それと東アラバの全部を打ち、それを占領したが、その地の王たちは次のとおりである。
★「イスラエル人は……全部を打ち、それを占領した」と。イスラエルは結果的に約束されたカナンについて驚くばかりの勝利を勝ち取りました。その秘訣とは何でしょう。まさに一致して敵に向かったその姿勢以外に見当たりません。指導者ヨシュアと当時のイスラエルの特徴、それはアイの町の攻略の失敗によって教えられたことも、エリコの町を陥落させた神様の恵みからも教訓を学び、そこに生きる、教えられやすい心でした。それはまさに山上の垂訓「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」です。あなたは教えられやすい人ですか。

■イザヤ16:4あなたの中に、モアブの散らされた者を宿らせ、荒らす者からのがれて来る者の隠れ家となれ。しいたげる者が死に、破壊も終わり、踏みつける者が地から消えうせるとき、16:5一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行なう者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。
★なぜ憐れみ深い人となるべきでしょう。ここにはその根拠が示されています。それはやがて公平かつ憐れみ深い主が裁き主として地に立つときが来るからです。だから主にあるあなたの労苦と生き様は決して無駄ではないのです。

■2テモテ2:11次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。2:12もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。2:13私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」
★あなたは何に望みをおきますか?自分ですか。それとも他に……。しかし最後に悔いの無い満足を勝ち取る人は、御自身を否むことができない真実な主に望みを置くその人です。そう、あなたが考えた通りでいいのです。決してその確信を手放してはなりません。ヒデ

火曜日, 5月 25, 2010

20100525_ヨシュア11_イザヤ15_2テモテ1

■ヨシュア11:23 こうしてヨシュアは、その地をことごとく取った。すべて主がモーセに告げたとおりであった。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族の割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに分け与えた。その地に戦争はやんだ。
★「その地に戦いはやんだ。」とヨシュアとイスラエルの勝利が紹介されますが、その勝利の最大の秘訣は神様の言葉への従順でした。ヨシュアは勝ち取った馬の足の筋を切りなさいとの命にも従ったのです。当時馬は最大の武器の一つですからそれを使えなくすることなど通常はあり得ないことでした。失敗を通し、どこまでも神様の方法を貫こうとそう腹を決めたのです。また先ずは勝利をえることに集中することの大切さをも覚えたいものです。あなたは気づいている心の領域には既に勝利を得ていますか。まだの所があるならばそこに集中して主の助けを求めましょう。勝利の前の心配は霊的に無意味なことが多いのです。

■2テモテ1:12そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。
★愛弟子テモテに示したパウロ自身の確信がここに紹介されています。どんな反対者の前にあっても動じることのない立ち振る舞いを示したパウロ。その秘訣はと問われるなら彼は、私自身、主をよく知り、その御力を知っているからだと語ります。御言葉を通し私たちの前に御自身を示してくださる主に触れていけることは何と尊いなことでしょう。ディボーション、通読の効果は一週間でも現れるでしょう。しかしさらなる真価のあらわれは、長きに渡って主に触れ続けるものにしか移らない、キリストの香りと確信と言ってよいでしょう。御言葉を慕い求めるあなたに対し主は「これは私の愛する子」とお語り下さいます。この主の愛を受けとめてこの一日も始めましょう。主はあなたの守り手です。ヒデ

月曜日, 5月 24, 2010

20100524_ヨシュア10_イザヤ14_1テモテ6

■ヨシュア10:7そこでヨシュアは、すべての戦う民と、すべての勇士たちとを率いて、ギルガルから上って行った。
★この章には何度「ヨシュアは全イスラエルを率いて……」と記されているでしょう。8回です。その理由は「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。」との約束の通り、主が共に戦って下さるのをヨシュアが見て励まされたからです。あなたはどんな立場にいらっしゃるでしょう。もしリーダーなら、あなたが見るべきはあなたを励まして下さる神様です。またヨシュアは先に主に伺いをたてず失敗した経験を無にすることなくここで生かし民を勝利へと導いています。何と多くのことを主に向かう彼の姿勢から学べることでしょう。

■イザヤ14:12暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
★天使の長の一人であったルシファーがなぜサタンとなったのか。その動機がこの後記されます。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ……いと高き方のようになろう』。どんな時にもいと高きお方は神様お一人です。全ての邪悪はこの事実を拒む所から始まります。今日も自らのポジションを造られた者にリセットできる私たちは何と幸いな事でしょう。

■1テモテ6:17この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。6:18また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。6:19また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。
★「命じなさい」とパウロが愛弟子テモテに語った内容は明確です。私たちもすべき事とすべきでないこと、その内容をハッキリ受けとめ歩みましょう。これらは間違いなくあなたを幸せへと導くゴールデンルールです。ヒデ

日曜日, 5月 23, 2010

20100523_ヨシュア9_イザヤ13_1テモテ4-5

■ヨシュア9:15ヨシュアが彼らと和を講じ、彼らを生かしてやるとの盟約を結んだとき、会衆の上に立つ族長たちは、彼らに誓った。
★エリコの町に続きアイの町をもイスラエルが攻略したことを知った近隣の王たちは、イスラエルの力におののき、歩いて3日路にもかかわらず、乾燥したパンとすり切れた靴をもって、私たちと盟約を結んで下さいと跪いたのです。聖書はその時のヨシュアについて「そこでヨシュアは、彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示を仰がなかった。」と紹介します。覚えましょう。たとえどんな契約でも一旦交わすと破棄することは難しいのです。特に結んでしまった霊的な契約の破棄や、そこから来る縛りからの解放は告白とキリストをの血を仰ぐ以外に困難です。だからこそ「主の指示を仰がなかった」の言葉の重みを覚えたいのです。

■イザヤ13:9見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。
★何と恐ろしい事か。私たちはこの現実の神の裁きの日に備えて、愛と執り成しに生きるのです。けれどもどんな時にも父なる神様のはらわたは愛であることを覚えましょう。人々の救いは、主を畏れる所からしか開かれません。

■1テモテ5:1年寄りをしかってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人たちには兄弟に対するように、5:2年とった婦人たちには母親に対するように、若い女たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい。
★パウロの愛弟子テモテへのことばです。キリストのしもべとして長年の経験をもとにパウロは「要は実の家族のように主にある兄弟姉妹と交わるのです。尊敬と愛といたわりをもって。」とテモテに諭します。教会が失ってはならないもの。それが思いやりと温かさである事を覚え、示される愛の実践に生きましょう。ヒデ

土曜日, 5月 22, 2010

20100522_ヨシュア8_イザヤ12_1テモテ1-3

■ヨシュア8:33全イスラエルは、その長老たち、つかさたち、さばきつかさたちとともに、それに在留異国人もこの国に生まれた者も同様に、主の契約の箱をかつぐレビ人の祭司たちの前で、箱のこちら側と向こう側とに分かれ、その半分はゲリジム山の前に、あとの半分はエバル山の前に立った。それは、主のしもべモーセが先に命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。8:34それから後、ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばを、ことごとく読み上げた。
★小さく見える不従順がもたらす災いの大きさを学び、アイの町の攻略に成功したイスラエルはその後、山間のあちらとこちらの二手に分かれて神の言葉を読み合いました。交読の始まりです。神の言葉は呪いと祝福からなりますが、どちらも軽んじることなく恵みの中で魂を扱われ続ける者とさせて頂きましょう。

■イザヤ12:1その日、あなたは言おう。「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」
★その通り。主の怒りの目的は怒りの為ではないのです。むしろ赦しです。だからこそ呵責のない怒りの後には受容と赦しがあるのです。

■1テモテ1:9すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、1:10不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。
★パウロが愛弟子テモテに宛てた手紙です。ここに律法理解の奥義があります。どこまでなら許され、どこからは越えてはならないのか。罪に定められないスレスレの線を生きよう。その価値観はやがて罪に捕らえられます。そうではなく大切なのは神の愛に対する応答の人生です。赦して下さった神様に喜ばれる生き方をしたい。そうなれば律法はもはや必要ないのです。ヒデ

金曜日, 5月 21, 2010

20100521_ヨシュア7_イザヤ11_2テサロニケ3

■ヨシュア7:3彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。「民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」
★「7日間、1日1回ずつエリコの城壁をまわり、7日目は7回まわって私の合図に基づいて時の声を上げなさい。聞き従うならば城壁は崩れるであろう」と、神様の介入で驚くばかりの勝利をあげたイスラエルの民。その心はいつの間にか大きくなって「小さな町アイの攻略なら2、3千人で十分でしょう」と言うのです。しかし民は破れ、こんな事なら荒野にいた方がよかったと泣きごとを言います。一人の兵士が金の延べ棒を自分のために隠す罪がその背後にありました。何と小さな事で!しかしそうではありません。神の民が力と祝福を失うのは、大きな事によるのではなく隠された小さな罪、不従順によってです。私くらいではなく、あなたこそがキーパーソンです。

■イザヤ11:3この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
★「この方」と預言されているのが受肉なさるキリストです。表面的な、見るところ、聞くところに基づく価値観では人は生きません。キリストはそうなさらなかったことを覚えましょう。

■2テサロニケ3:16どうか、平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。
★パウロの手紙の最後はいつも同じで、こうでした。この言葉に慰められ、この言葉からチャレンジを受けましょう。今日しか会うことの出来ない人がいるかも知れません。その人の前で私たちはどんな香りを放つでしょうか。主はあなたに今日も命と祝福を注ぐことが可能です。ヒデ

木曜日, 5月 20, 2010

20100520_ヨシュア5-6_イザヤ10_2テサロニケ1-2

■ヨシュア5:13さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」
★ヨルダン川を渡り終わって約束の地に入った指導者ヨシュアとイスラエルの民。しかしヨシュアの前にはあまりに高くそびえるエリコの城壁が立ちふさがっているではありませんか。その不安と緊張の中でヨシュアは、主が助けようと来て下さったにもかかわらず、それに気づかす「あなたは私たちの味方ですか。それとも敵の味方ですか」と言ったのです。これがプレッシャーに支配され易い人間の現実と、開かれなければならない霊の課題です。「いや私は軍勢の将として今来たのだ」と主は語られます。そう人生の主権者は自分ではなく主であることに気づき、明け渡す時そこに勝利があるのです。この時ヨシュアは足から靴を脱ぎイスラエルに勝利をもたらした。あなたはどうなさいますか。

■イザヤ10:3刑罰の日、遠くからあらしが来るときに、あなたがたはどうするのか。だれに助けを求めて逃げ、どこに自分の栄光を残すのか。
★主が預言者イザヤを通して問いかけられたこの深遠なるテーマ。あなたはもう心に答えを頂かれましたか。答えは「主に」です。

■2テサロニケ2:16どうか、私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神である方、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、2:17あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。
★終末に臨もうとする主の民に、主が望むことは。それは良きわざであり、よき言葉です。主の恵みによってこの朝もあなたがそこに生きれますように、キリストの御名によって祝福します。ヒデ

水曜日, 5月 19, 2010

20100519_ヨシュア3-4_イザヤ9_1テサロニケ5

■ヨシュア3:15箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、―ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが―3:16上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。
★出エジプトの時、イスラエルは左右にわけられた紅海の川底を見てそこを渡りました。しかし約束の地に入る前のここヨルダン川では、一歩踏み出す前は水があったのです。ところが一歩踏み出した途端、川の水は引きました。ここに新約の霊的奥義があります。生ける神様を信じて一歩踏み出す時、あなたは神様の助けを見ます。「もし信じるなら神の栄光を見る」とはその意味です。

■イザヤ9:6ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
★イザヤがこう預言したお方。それが主キリストです。今あなたはこのお方と共にあるのです。

■1テサロニケ5:12兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。5:13その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。
★「お互いの間に平和を保ちなさい。」と言うことは牧師と兄弟姉妹の間には時に緊張関係も生じると言うことです。もし牧師が人の顔を恐れ、へつらいの言葉しか語れなくなったとしたら。これこそ群れにとって危機以外のなにものでもありません。牧師の為にお祈り下さい。教会の空気がよどみないものとして、保たれるよう労することができるように。私も皆さんのために祝福をお祈りします。ヒデ

火曜日, 5月 18, 2010

20100518_ヨシュア2_イザヤ8_1テサロニケ3-4

■ヨシュア2:18私たちが、この地にはいって来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。
★これはヨシュアが約束の地を陥落させるために遣わした2人の斥候をかくまった遊女ラハブに彼らが語った言葉です。ラハブは彼らに言うのです。「私たちは恐怖に襲われ、震えおののいているのです。なぜなら主がこの町をあなた方に与えているのが分かるから。だからあなた方をかくまった私と私の家族を助けて下さい」と。主を畏れるものの前には主が先だって助けを与えて下さることをあなたはご存知ですか。この時代もそのことは真理です。そしてあなたはこの朝もキリストの流された血によって守られます。

■イザヤ8:19人々があなたがたに、「霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ。」と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。
★預言者イザヤが生きた紀元前700年代、人々は将来に不安を覚えれば覚えるほど、偶像礼拝へと走りました。その誘惑は現代も同じです。ただ鼻から息をするものに救いの力はありません。だまされてはなりません。

■1テサロニケ4:16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、4:17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。4:18こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。
★この言葉の通りに互いに慰め励まし合いましょう。それが教会です。世でこの希望に輝くことの出来る民は外にありません。私たちには希望があるのです。ヒデ

月曜日, 5月 17, 2010

20100517_ヨシュア1_イザヤ7_1テサロニケ1-2

■ヨシュア1:2「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。
★モーセの死後30日の喪に服し、泣ききった民に対して主が「モーセは死んだ」と語られました。いよいよ40年の流浪生活から約束の地をめざして具体的一歩を踏み出すために立ち上がる時が来たのです。その時、悲しむべきを悲しみ、痛むべきを痛み。辛い思いを共同体の中で共有することは、なくてはならない過程です。癒されきれていない感情を抱えたままで、人は前に向かうことが出来ません。あなたは主が語られる「モーセは死んだ」の言葉を受けて、立ち上がる用意がありますか。まだであれば勇気をもって心を開き、キリストにある共同体(教会)の中でその部分についても分かち合うことをはじめてみませんか。生ける神様をあなたは体験することでしょう。

■イザヤ7:14それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。
★それは「神我らと共にいます」と言う意味であると。まさにクリスマスの預言です。私たちの救い主キリストは「我らと共にいて下さる神様です」。

■1テサロニケ2:19私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
★この手紙のテーマとしてキリストの再臨を外す訳にはいきません。この書を通し初代教会の聖徒を生かし希望を与えていたものを知れるのです。「主は再び来られる。正しい裁きをなさるために」それが答えです。その時全ての人は峻厳なる主権者としての神たるキリストに出会いますが「あなたこそが我が誇り」とは何という光栄でしょう。さあ今週も授けて下さる冠をお返しすることを人生の目標に信頼と従順の一週を始めましょう。ヒデ

日曜日, 5月 16, 2010

20100516_申命33-34_イザヤ6_コロサイ3-4

■申命33:26「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。33:27昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。あなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じた。
★この章の冒頭には「これは神の人モーセが、その死を前にして、イスラエル人を祝福した祝福のことばである。」と記されています。モーセがその生涯で神の民に一番伝えたかったこと。それがこの言葉です。神様はあなたのためには雲にさえ乗られるお方。あなたの生涯をご自身の御手で、下から支えて下さるお方。だから決して落ちてしまうことはない。必ず帰ってこれる。必ず立ち上がれる。この恵みを信じあなたも約束の地、イエス・キリストにある安息に入りましょう。

■イザヤ6:5そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
★これは御使いが主に対して「聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。」と互いに呼び交わす光景を見たイザヤの叫びです。本当にもうだめでしょうか。いいえ。人は神様の光と基準で自分を見ることができたその時、無条件の赦しが与えられ、そこからまことの癒しと成長が始まります。

■コロサイ4:15どうか、ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会に、よろしく言ってください。
★教会(エクレシア ギリシャ語)とは何でしょう。それは「神様にあって召し出されたもの」との意味です。ですから建物ではなく人の交わりです。キリストを中心として、そこに主を信じる二人、三人の弟子が集まるとき、まさにそれこそが教会の原点であり世界を変えた原動力です。よってサタンが最も嫌うもの。それが教会です。あなたも教会の中に居場所を見つけて下さい。神様の祝福と奇蹟はそこから溢れ流れます。ヒデ

土曜日, 5月 15, 2010

20100515_申命32_イザヤ5_コロサイ2

■申命32:10主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。
★約束の地を目の前にしたモーセの訣別説教の一部です。主はこの時「今、見よ。わたしこそ、『有って有る者・ヤーウェ』なのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない」と彼のくちびるを通してご自身を啓示します。モーセはこの後、主のみもとへ召されますが「ひとみのように守る」契約は神の民へと永遠に受け継がれるのです。そう神の民とされたあなたはこの約束によって守られています。あなたは主の前にかけがえのないひとみの存在です。

■イザヤ5:28その矢はとぎすまされ、弓はみな張ってあり、馬のひづめは火打石のように、その車輪はつむじ風のように思われる
★主が語られるみことばが強力な弓から放たれる矢のように感じる時、それは主のあなたへの燃えるような愛の表れです。おそれず、逃げ出さず受け取りましょう。あなたは癒され回復し、やがて多くの人々に希望と命をもたらすために主の御手から放たれる矢となるのです。

■コロサイ2:14いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。2:15神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。
★レストランでレシートが状差しに差し通されるのは支払が終わったとき。同様に主がご自身十字架上であなたの債務証書を釘づけられたのは、その代価を払い終わったためでした。「父よ、罪のない私が、彼に変わって命を捨てますから、この私の命の代価によって彼を赦して下さい」とはその意味です。あなたの当然払うべき負債の代価は既に払われたのです。あなたは自由とされました。サタンにだまされて二度と奴隷のくびきを負わされてはなりません。ヒデ

金曜日, 5月 14, 2010

20100514_申命31_イザヤ3-4_コロサイ1

■申命31:6強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
★約束の地を目の前にしたモーセの訣別説教の冒頭この「強くあれ……」が語られます。理由は事実主が民とどんな時にも共にいて下さることと、これから戦わなければならない先住民族の大きさにイスラエルの心が捕らわれ恐れに支配されそうになることを、主は知っておられるからです。目を主から離してはなりません。私たちは神様にあってでなければなしえないことを成すために召し出されたのです。

■イザヤ3:6そのとき、人が父の家で、自分の兄弟をとらえて言う。「あなたは着る物を持っている。私たちの首領になってくれ。この乱れた世を、あなたの手で治めてくれ。」3:7その日、彼は声を張りあげて言う。「私は医者にはなれない。私の家にはパンもなく、着る物もない。私を民の首領にはしてくれるな。」
★私をリーダーに、責任を負わなければならないものにしてくれるな。預言者イザヤの時代、いかに主の民は希望を見出すことに困難を覚える状況だったか。しかし、そこで救い主の約束がイザヤを通して語られたのです。流されるためではなく、時代を作るために召されたあなたには、現実に支配されない開かれた霊の耳と目が必要です。

■コロサイ1:13神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。1:14この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
★私たちの罪はどうなったのでしょう。誰の支配のもとにあるのでしょうか。その答えがこの御言葉です。あなたの罪はキリストにあって赦され、キリストが愛の配慮をもって治めて下さる恵みの支配の中にあなたは移されたのです。今あなたの立つその場所は既によき土地とされました。闇を光とする主はあなたによき実を結ばせて下さいます。ヒデ

木曜日, 5月 13, 2010

20100513_申命30_イザヤ2_使徒28

■申命30:19私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、30:20あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。★何の為に神の民はいのちの道を選ぶのでしょう。それは約束の地で長く祝福を受けるため。また主があなたを祝福すると既に決めて下さっているからです。

■イザヤ2:22 鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。 ★この章は終末の預言として主が語られる章です。その中で「鼻で息をする者を……」と語られたのです。すなわち生かされている者、最終的には裁きの座にあなた同様立たなければならない者を神としてはならないと主は語られます。

■使徒28:23 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。 28:24 ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。
★いよいよ使徒の働きの最終章です。監禁されつつ、死さえ自覚しつつ、なおもパウロが最大限、心を注ぎだしたもの、それがキリストにある救いの宣教でした。にも関わらず人々の反応は…。しかし彼は最後に「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と結論づけます。ここに人間の評価ではない神様を意識した聖徒の生き方が。神様の御手に委ねつつ、示されたところに従う生涯の何と晴れやかなことでしょう。あなたはこの人生に招き入れられたのです。ヒデ

水曜日, 5月 12, 2010

20100512_申命29_イザヤ1_使徒27

■申命29:29 隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。
★この御言葉は29:5 の「私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。」と合わせ、主の御計画も人の心も、こじ開けてはならない領域のあることを覚えさせられます。神でもない私たちが無理にこじ開けようとする時、結果的に全てを失うことがあります。隠されている将来をいたずらに思い煩うよりも、今明らかにされている、行うべき御心に精一杯心を注ぎ出すものであらせて頂きましょう。

■イザヤ1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
★なんと希望に満ちた主の言葉。しかも民の現実を知った上での言葉です。自分を誤魔化さず正直に主の前に出るなら、私たちは真っ白な人生を主にあって何度でもやり直せるのです。ハレルヤ。

■使徒27:13 おりから、穏やかな南風が吹いて来ると、人々はこの時とばかり錨を上げて、クレテの海岸に沿って航行した。
★カイザルの前における公平な裁判を望んだパウロ搬送の船旅です。都合良く暖かい所で冬を過ごしたいと考えた船長達は、御使から啓示されたパウロの助言を退け船出し、一命をとりとめるものの、一切の持ち物を失う経験をします。ちょうどよいと思いこみたくなる好機が、私たちの人生を狂わせるくせ者の場合があるのです。だまされてはなりません。では、それをどうして見分けますか。明け渡された神の人の心と祈り心以外にありません。そのため我らは心を神様に向けるのです。そんなあなたを主は今日も喜び助けて下さいます。ヒデ

火曜日, 5月 11, 2010

20100511_申命28_雅歌8_使徒25-26

■申命28:1もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。28:2あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。……28:15もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。
★上の言葉に続く祝福と呪いのメッセージに驚くばかりです。どの位の人が知っているでしょう。神様への従順と不従順がもたらすことになるその結果の違いを。すべての人にこの章を読んで欲しいと願うばかりです。そしてあなたは断固祝福を受け、生きる人にならねば成りません。

■雅歌8:5 自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう。
★主に愛されたヨハネは最後の晩餐の席でさえ主の胸もと近く寄り添い、主の愛を受け取りました。主が注がれる愛を余すところ無く受け取る者。そのものが愛の器。慰めの器となるのです。いやそれ以外に方法はないのです。

■使徒26:19 こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、 26:20 ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。
★「この天からの啓示にそむかず」ここにパウロのキリスト者としての原点が紹介されています。「私は天からの啓示にそむきたくない。むしろそれを喜び、そこに生きるものでありたい。」クリスチャンの原点もまさにここにあります。あなたは、あなた自身に向けられている神様の啓示を既に受け取りましたか。束縛ではない与えられた自由をもって、この天からの啓示の道を選び取る朝とさせて頂きましょう。あなたは主の喜び、誇り、慰めです。ヒデ

月曜日, 5月 10, 2010

20100510_申命27_雅歌7_使徒23-24

■申命27:8 それらの石の上に、このみおしえのことばすべてをはっきりと書きしるしなさい。
★約束の地に入ったとき最初にすること。それは祭壇を築いて神の言葉を書き留めること。さらに民全体に以下の言葉にアーメンと唱和するようにと、主は求められたのです。「父母を侮辱してはならない。隣人の地境を移してはならない。盲人に間違った道を教えてはならない。在留異国人、みなしごとやもめの権利を侵してはならない。近親相姦をしてはならない。獣と寝てはならない。賄賂を受け取ってはならない。」特別なことではありません。あたりまえの事です。これが汚される時祝福がなくなります。それにしてもなぜ主は唱和を求められたのでしょう。そこに罪に流されやすい傾向をもつ人の性質があります。互いに励まし合える相互依存の関係の大切さをも覚えましょう。

■雅歌7:10 私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。
★愛し合い、信頼し合えてはじめて語れる告白です。主と私たちの関係がこの告白の通りになりますように。

■使徒24:14しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。24:15 また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。24:16 そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。
★いわれの無い訴えの中、ローマの総督の許しを得て語ったパウロの弁明。それがこの言葉です。全ての人の復活と最後の審判。あなたはこの事実を掛け値無しに信じていますか。ここが信仰のスタートです。主は私たちの心を恵みで喜ばせて下さるとともに襟をも正して下さるお方、だからこそ信じ従うに足るお方なのです。ヒデ

日曜日, 5月 09, 2010

20100509_申命26_雅歌6_使徒21-22

■申命26:3 そのとき、任務についている祭司のもとに行って、「私は、主が私たちに与えると先祖たちに誓われた地にはいりました。きょう、あなたの神、主に報告いたします。」と言いなさい。
★「報告しなさい」と主が命じられる内容は簡単に、かつてのエジプトでの苦役、そこで叫んだとき主が助けて下さり約束の地へと導いて下さったこと、となります。言わずと知れたことですが、これは、感謝は自分の口と自分の意志であらわすことが大切とのメッセージの表れです。約束の地での祝福は、感謝の心と砕かれた心がスタートラインであることを覚えましょう。

■雅歌6:3 私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。
★この御言葉は人の側から主に向かって告白していますが、同じ内容をイザヤ43:1では神様の側から「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」と語って下さいます。そうです。あなたは主のもの。この主の宣言の中にこそ、あなたの真の隠れ場があることを覚えましょう。

■使徒21:28こう叫んだ。「イスラエルの人々。手を貸してください。この男は、この民と、律法と、この場所に逆らうことを、至る所ですべての人に教えている者です。そのうえ、ギリシヤ人を宮の中に連れ込んで、この神聖な場所をけがしています。」21:29彼らは前にエペソ人トロピモが町でパウロといっしょにいるのを見かけたので、パウロが彼を宮に連れ込んだのだと思ったのである。
★この後パウロは妬みゆえにキリストに敵対するユダヤ人に取り囲まれ、思わぬ騒動に巻き込まれます。誤解によってそうしたことになることもあるかも知れないと十分な注意を払ったにもかかわらずです。しかしその背後には、「パウロをしてローマで福音を」との神様のご計画があったのです。用意周到の計画が思わぬかたちで変更される時、そこに神様のみ働きを見ようとする視点を持つことは大切です。ヒデ

土曜日, 5月 08, 2010

20100508_申命25_雅歌5_使徒20

■申命25:13 あなたは袋に大小異なる重り石を持っていてはならない。25:14 あなたは家に大小異なる枡を持っていてはならない。
★上記の理由について御言葉は「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生きるためである。」と語ります。目先の欲や、好き嫌いの感情に流されそうになることは人である以上致し方ないでしょう。しかしあなたのはかりの規準は常に一つであるべきです。変えてはなりません。変わらない神の言葉(聖書)に日毎に触れる理由がここにあります。その報いは地上を平安で長く生きれることに留まらない、永遠の命です。

■雅歌5:2 私は眠っていましたが、心はさめていました。戸をたたいている愛する方の声。「わが妹、わが愛する者よ。戸をあけておくれ。私の鳩よ。汚れのないものよ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」
★私たちが清さを求める理由をこの御言葉に見出すことができます。主はあなたを愛する者、汚れない者として見て下さっています。

■使徒20:35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」
★「受けるよりは与えるが幸い」と、主の弟子パウロが常に意識したことが紹介されています。しかし考えてみれば、与えるものがなければその生き方はできません。ならば与えるものがないよりも、与えるものを持っていることがいかに幸いでしょう。けれど多くの場合、人の心は少しでも多くを受けることに捕らわれて、この恵みを受け損なうことが多いのです。パウロが万事につけ示し続けた意味、それはこれが霊的な不変の法則だからです。あなたもキリストから頂いたものについて、この不変の法則を適用してみませんか。そうする時、あなたは人間関係の広がりと祝福を実感することとなるでしょう。ヒデ

金曜日, 5月 07, 2010

20100507_申命24_雅歌4_使徒18-19

■申命24:10 隣人に何かを貸すときに、担保を取るため、その家に入ってはならない。24:11 あなたは外に立っていなければならない。あなたが貸そうとするその人が、外にいるあなたのところに、担保を持って出て来なければならない。
★今日も主の恵みによって約束の地に入る者が持つべき価値観です。それは、どんなに相手が負い目を持つ者であってもあなたはその人の人格を尊び、人として接しなければならないと言うことです。押し入ることは相手を軽んじ、自らを過信しおごる者の姿です。間違ってはなりません。人は必ずはかったようにはかり返されます。それ以上に「日没のころには、その担保を必ず返さなければならない。彼は、自分の着物を着て寝るなら、あなたを祝福するであろう。また、それはあなたの神、主の前に、あなたの義となる。」と主は語られます。

■雅歌4:12 私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉。
★注ぎ出されたキリストの命によって贖われた私たちの霊を私たちは誰に開くべきでしょう。主です。偶像礼拝はそれ以外のものに開こうとするとき生まれ、それが呪いとなるのです。

■使徒19:18 そして、信仰にはいった人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。
★パウロがエペソで福音を語ったとき主の弟子たちに聖霊が下り、病気の癒し、悪霊の追い出し等、様々な奇蹟がおこります。そのひとつの現れとして上の自分たちのしていることをさらけ出して告白する現象が起こったのです。まさに聖霊様の働きです。聖霊は私たちの内にある隠された罪を指摘し、その罪からあなたが解放されるように導かれます。そこには霊的葛藤も生じるでしょう。しかし聖霊様の導きに従うことが勝利の秘訣です。悪霊は隠しもつ罪を足がかりにあなたを縛ろうとします。しかし聖霊はあなたを命と解放に導くのです。権威あるキリストの御名によって聖霊を受けましょう。ヒデ

木曜日, 5月 06, 2010

20100506_申命23_雅歌3_使徒16-17

■申命23:24 隣人のぶどう畑にはいったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。 23:25 隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。
★主は何度も何度も約束の地の価値観は憐れみであることを教えます。主の民とされた私たちは、どんなときにも弱い立場にある人が、人として生きれるように助けるためにも召されたことを忘れてはなりません。また憐れみの中に生かされている人も貪欲に陥ることがないようにと警告します。それは「全ての人が自立に向けて」で、まさにこれこそが教会の価値観です。

■雅歌3:9 ソロモン王は、レバノンの木で自分のためにみこしを作った。
★知恵のソロモンと言われた偉大な王。しかしそんな王でも、ここでは失敗することが描かれています。自分を担ぐみこしを自分で造ったり、人に造らせたり。一体どうした事でしょう。そもそもキリストの者とされた私たちは神様を担ぎ出す必要もないのです。むしろそうではなく、このお方に担われ、このお方が責任を取って下さる生涯に招き入れられたのです。

■使徒16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。16:26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
★獄舎の土台をも揺り動かし、主を信じる者に自由を与え、そればかりか囚人の心さえも神様への畏れで揺り動かす力あるものとは何でしょう。ここにはそれが明確です。「ささげられる祈りと讃美」。その時、三位一体の聖霊様が働かれ、人知を超えた御力をもって、ご自身のみわざをなしとげられるのです。さあ心いっぱい主を讃美しましょう。神様は神様を愛する者が自由の無い中に生きるとこを願っておられません。ヒデ

水曜日, 5月 05, 2010

20100505_申命22_雅歌2_使徒14-15

■申命22:6 たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵がはいっていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。
★今日の箇所も約束の地におけるイスラエルのライフスタイについて語られています。それはあわれみの輪を広げる生き様です。ここではそれ以外にも「あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。必ず、その者を助けて、それを起こさなければならない。」等紹介されています。神の国は憐れみと相手の気持ちに立った思いやりから広げられて行くのです。

■雅歌2:1私はシャロンのサフラン、谷のゆりの花。
★1-2は花婿と花嫁の対話ですが、1節は花嫁の言葉です。良く言われるセルフイメージですが、この花嫁は健全、しかも麗しいイメージを持ち、幸せを受け入れる備えが出来ています。あなたはどうでしょう。中には「どうせ私なんか」と、どんな良き励ましが注がれても、それを全部否定してしまう人さえいるのです。主はあなたのセルフイメージを健やかなものとするために来て下さいました。主の愛を受け取りましょう。

■使徒15:28聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。
★この時教会は異邦人の救いについて、福音が福音であるように、最も重要な決定を下します。すなわち人はたとえ異邦人であっても、ただイエス・キリストの十字架の贖いに対する信仰によってのみ救われるという確認です。そして神様はその最も重要な確認にかんして「聖霊と私たちは」と、弟子たちが主体的に関われる道を備えて下さっていたのです。主はあなたに主体的な信仰と喜びを与えて下さるお方です。その信仰の中を歩みましょう。ヒデ

火曜日, 5月 04, 2010

20100504_申命21_雅歌1_使徒13

■申命21:17きらわれている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から、二倍の分け前を彼に与えなければならない。彼は、その人の力の初めであるから、長子の権利は、彼のものである。
★約束の地においてのイスラエルのあり方を神様が示されます。確かにあらゆる面における平等の価値観も大切です。しかしあなたは敬うべき者を敬う視点を忘れてはならない、またそのことに気づかないものであってはならないと聖書は語ります。「兄ばっかり、兄のくせに、なんで兄は……」と裁く前に、あなたは兄が与えられていることを感謝し、兄に負わされた責任を思い、兄のために継続的な執り成しをしていますか。これは姉についても同じでしょう。またあなたが兄、姉の立場にある場合には、他の兄弟への優しさ思いやりを忘れてはなりません。

■雅歌1:15 ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ。
★花婿が歌う花嫁の歌。しかしこれこそが主が私たちに向かって語りかけて下さることばです。

■使徒13:39 モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。
★「サウロ、サウロなぜ私を迫害するのか」と天から巡り照らされる光と共に預かった主の御声。それに続く導きの中でパウロ自らが経験したもの。それがこの結論です。「人は自分の努力(律法)によって救われるのではない。すべての救い、解放の御業はキリストの中にあり、キリストによって成し遂げられる」。そしてパウロはここから聖霊に送り出されて世界を変えることとなった、伝道旅行に旅立ちます。あなたはパウロも受け取ったこの真理を受け取りますか。そして、与えられた自由の中を感謝をもって歩みますか。生ける神様のみわざは、そこから豊かに開かれます。ヒデ

月曜日, 5月 03, 2010

20100503_申命20_伝道12_使徒11-12

■申命20:3 彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。
★ここでモーセはイスラエルの民に、約束の地とは祝福の地であると共に戦いの地であることを明確にします。そして民に「新しい家、ブドウ畑、婚約中の妻が気になる人があるならばその人は家に帰りなさい。まわりの戦友たちの心がくじけるといけないから」と語るのです。出て行きたくても人生には出て行くわけにはいかない場合もあります。主はそれをご存知です。かと言って私たちは、まわりの人の主への献身を留めてはなりません。やがて戦いが終わる時が来るのです。私たちは戦えるときに戦い、主からの冠を頂くのです。

■伝道12:7ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。
★身体と魂(心)と霊を持つものとして造られた人間。それにしても上の御言葉の真理は、神様がソロモンに啓示して下さった奥義でしょう。魂の領域にかかわることは死と共にやがて消えます。が、霊によって築かれた関係は永遠です。「最も小さい者の一人にしたのはすなわち私にしたのである」との主の言葉を心に留め、関係を築く人生をめざしましょう。

■使徒11:18人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。
★人の心というものは、おうおうにして内向き、現状維持傾向、それを承知で主は不思議をもって、私たちを新たな祝福、解放の次元へと導かれるお方なのでしょうか。神様は御言葉と共に、自然、出来事、夢、人を通しても語られるお方です。常に主に明け渡された霊をもって、聖霊様の語りかけに従順するものとさせて頂きましょう。主は留まるお方ではなく、世の終わりの脱出に向けて、顔をエルサレムに向けて進まれるお方です。ヒデ

日曜日, 5月 02, 2010

20100502_申命19_伝道11_使徒10

■申命19:11 しかし、もし人が自分の隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかり、彼を打って、死なせ、これらの町の一つにのがれるようなことがあれば、19:12 彼の町の長老たちは、人をやって彼をそこから引き出し、血の復讐をする者の手に渡さなければならない。彼は死ななければならない。
★約束の地にて真に拡大されなければならないもの。それがあわれみです。ゆえにそれに真っ向から敵対する悪意の動機はあくまで厳しく問われる必要があるのです。何が許され、何は赦されなければならないのか、贖われた民はここに関する明確な理解が必要です。その時、主の十字架が共同体の中で輝くのです。

■伝道11:2あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。
★「早く行きたいなら一人で、遠くまで行きたいなら一緒に行きなさい」との格言がありますが、ここのみ言葉も、共に生きることの大切さを教えます。なぜなら人生、想定外のことがおこるからです。共依存は不健全です。しかし人は相互依存の中に生きるよう造られました。あなたは「お願い手伝って、助けて」と言うことができますか。

■使徒10:34 そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、10:35 どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。
★この章の究極のメッセージとは?それは「私たちの人生のつじつまを合わせるのは誰か」と言うこと。もちろんそれが神様であることが、ここには分かりやすく記されています。時には御言葉ばかりか夢や幻、人との出会いさえ備えて。そう、だからこそ私たちは主の導きに応答できる様に心を開き、柔らかな心で日を過ごすのです。さあ主の導きを聞き、受けとめる心の備えを致しましょう。コルネリオにペテロを出会わせられた主はあなたにも必要な出会いと恵みを注がれます。ヒデ

土曜日, 5月 01, 2010

20100501_申命18_伝道10_使徒9

■申命18:9 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入ったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。
★この9節のあとに続く御言葉には「占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。」と続きます。命がけの出エジプトを経験したイスラエル。しかしここに挙げられた内容はみな約束の地に入った後のことです。一息付けるようになるといつのまにか私たちの信仰は「命がけ」から「ファッション」に変わる危険性があるというのでしょうか。恵みによって与えられたゆとりが誘惑となることの無いように、こうして静まることができることを感謝しましょう。

■伝道10:20王をのろおうと、ひそかに思ってはならない。寝室でも富む者をのろってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を持ち運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。
★霊の世界は天高い遠くにあるわけではありません。それは単なる次元の違いで私たちの目の前にも開かれるもの。すなわち主は私の傍らで、私の言葉を耳にすることができるのです。このお方の前で語りましょう。また、この事実に立つ信仰が恥ずべき陰口の罠から私たちを守ります。

■使徒9:17そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
★ここに大宣教命令を成し遂げる教会の姿が。あなたはもうお気付きでしょうか。教会とはあなた自身。そしてあなたが主に送り出されて外に出て行く時、そこでみわざがおこるのです。始まったゴールデンウイーク、よき休息の時であると共に、主から遣わされて行く時でありますように。ヒデ