土曜日, 7月 31, 2010

20100731_2サムエル17_エレミヤ21_ローマ7-8

■2サムエル17:14アブシャロムとイスラエルの民はみな言った。「アルキ人フシャイのはかりごとは、アヒトフェルのはかりごとよりも良い。」これは主がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからであった。
★ダビデを蹴散らして王座についた息子アブシャロムに、今すぐ1万2千の兵で父ダビデを奇襲すべきとアヒトフェルは語ります。これはまさに名案で、そうすれば、さすがのダビデも首を跳ねられていたことでしょう。しかし神様はダビデを守ろうとし、もう一人の高官フシャイの口を通して、王は昔からの戦士なのでイスラエルの全軍をもって出なければ立ち向かうことが出来ないでしょうと語らせ、アブシャロムとその兵士達を納得させ、結果ダビデを救う道を開かれたのです。聖書は「主のはかりごとはとこしえに立ち、そのみこころの思いは世々に立つ」と語ります。大切なことは神様の側に立ち続けること。そうすれば他でもなく主御自身があなたを守って下さるのです。

■エレミヤ21:8「あなたは、この民に言え。主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。
★道とは人を目的地に導くと共に、人の終着点を分けるもの。間違いのないキリストにある道を選び取りましょう。

■ローマ8:15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
★ここではキリストを信じる人に与えられる聖霊について明確です。結論はたとえ失敗しても奴隷ではないので、あなたは裁かれ、むち打たれる必要も無ければ、捨てられる必要もないと言うこと。またあなたは神様の目には誇りの息子であり娘であると言うことです。さあ今日もこの励ましの内に遣わされて行きましょう。ヒデ

金曜日, 7月 30, 2010

20100730_2サムエル16_エレミヤ20_ローマ5-6

■2サムエル16:11ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。16:12たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」
★息子アブサロムの反逆でエルサレムから陥落するダビデ王。その前には何とサウルの家の人々が立って「出て行け。血まみれの男、よこしまな者。主がサウルの家のすべての血をおまえに報いたのだ。だから主はお前に敵対するお前の息子アブサロムをお前に代えてて王として立てお前を苦しめるのだ。お前が災いにあうのは血まみれの男だから。」となじります。が、その時ダビデが語った言葉は先の御言葉です。確かにダビデにも落ち度が。しかしなぜ主はダビデを用いるのか。裁きを主に委ねる彼の姿から教えられましょう。

■ローマ6:3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。6:4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
★ここにはバプテスマの意味が明確です。キリストにあって罪に死に、キリストと共に復活の命によみがえる。これもまたキリスト教教理の根幹で、イエス・キリストにある信仰の土台です。あなたはもはや、かつての人ではありません。新しくされた使命と希望に目を留め、新しい人として進むのです。ヒデ

木曜日, 7月 29, 2010

20100729_2サムエル15_エレミヤ19_ローマ3-4

■2サムエル15:4さらにアブシャロムは、「ああ、だれかが私をこの国のさばきつかさに立ててくれたら、訴えや申し立てのある人がみな、私のところに来て、私がその訴えを正しくさばくのだが」と言っていた。15:5人が彼に近づいて、あいさつしようとすると、彼は手を差し伸べて、その人を抱き、口づけをした。15:6アブシャロムは、さばきのために王のところに来るすべてのイスラエル人にこのようにした。こうしてアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ。
★ダビデ王に助けを求めて近づこうとする人々の前に立って、「私が王でさえあったなら」と語るアブシャロム。聖書はそんな彼の行為を明確に盗みと告発します。背後に自分の野望を隠し持ち、人に善意を施すこと。それは盗み、罪なのです。主よ、私たちが人の心を盗むことが有りませんようにお守り下さい。

■ローマ3:21しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。3:22すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。3:23すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、3:24ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
★ここには信仰義認と言うキリスト教教理が明確です。おこないではなく。おこないでは成し得ないために。だからこそ神様の恵みによって備えられた救い。それが福音で、ただ感謝して受け取る以外になく、そこでは誰も誇れませんし、いえ誇る必要がないのです。御子の命の代価によってなし遂げられた福音は値付けすることが出来ません。すなわち「誇るものは主を誇れ」です。どうか福音を理解し福音に生き、福音が輝くことができますように。ヒデ

水曜日, 7月 28, 2010

20100728 2サムエル14_エレミヤ18_ローマ1-2

■2サムエル14:13女は言った。「あなたはどうして、このような神の民に逆らうようなことを、計られたのですか。王は、先のようなことを語られて、ご自分を罪ある者とされています。王は追放された者を戻しておられません。14:14私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです。神は死んだ者をよみがえらせてはくださいません。どうか追放されている者を追放されたままにしておかないように、ご計画をお立てください。
★息子アムノンを殺した、やはり我が子アブサロムをダビデは赦しきれません。その時、用いられたのがこの婦人。男や兵士には出来ない和解の務めが彼女に託されたのです。今日、主の前に立ち上がろうとするあなたですが、ここに至までには背後における多くの執り成しが。それを覚えて一日を始めましょう。

■エレミヤ18:23しかし、主よ。あなたは、私を殺そうとする彼らの計画をみな、ご存じです。彼らの咎をおおわず、彼らの罪を御前からぬぐい去らないでください。彼らを、御前で打ち倒し、あなたの御怒りの時に、彼らを罰してください。
★預言者エレミヤの赤裸々な告白です。それで良いのです。主の前には正直な気持ちを告白すべきです。またそうする人にこそ、主は癒しの霊を注ぎ、涙の預言者とし、新たに遣わされるのです。子として近づきましょう。神様の前では上品すぎてはなりません。

■ローマ2:6神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。
★「その行いによって」と、ここは神様の裁きの規準が明らかです。であれば誰がその規準をクリアーできるでしょうか。皆五十歩百歩です。だからこそ福音が神の恵みによって備えられたのです。この原則を抑えて、今日も生かされている感謝をもって始めましょう。ヒデ

火曜日, 7月 27, 2010

20100727_2サムエル13_エレミヤ17_マタイ28

■2サムエル13:32しかしダビデの兄弟シムアの子ヨナダブは、証言をして言った。「王さま。彼らが王の子である若者たちを全部殺したとお思いなさいませんように。アムノンだけが死んだのです。それはアブシャロムの命令によるので、アムノンが妹のタマルをはずかしめた日から、胸に持っていたことです。13:33今、王さま。王子たち全部が殺された、という知らせを心に留めないでください。アムノンだけが死んだのです。」
★イスラエル統一については偉大な王ダビデ。しかし家庭を納めることにおいては困難を極めます。複数の妻、そばめの子供達の憎しみ合いが原因です。そのことはたとえ王ダビデにもどうしようもありません。ただ神のことばに従う以外に祝福はないのです。そして聖書は明確に「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」と語ります。蒔いた種は必ず刈り取ることに!良き種を蒔きましょう。

■エレミヤ17:14私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。
★何と正直な神に向かった告白。私たちも神様への良き賛美をささげさせて頂きましょう。

■マタイ28:20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
★マタイ1章にはインマヌエルの救い主となるために主が来られたクリスマスの説明が。そしてマタイ福音書最後の主の約束はやはりインマヌエル。それは「私たちと共におられる神」と言う意味です。御自身決して約束をたがえない主は今日もあなたと共にいて下さいます。そしてそのお方はあなたのために天においても地においても一切の権威が授けられているのです。ヒデ

月曜日, 7月 26, 2010

20100726_2サムエル12_エレミヤ16_マタイ27

■2サムエル12:13ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。
★「あなたがその男です」と、預言者ナタンに兵士ウリヤとその妻バテシェバへの罪を糾弾されたダビデ。その時のダビデの告白が上の御言葉です。何と言う神様の哀れみ深さ。彼が悔い改めると同時に、主もまたダビデの罪を赦されたのです。預言者を通して厳格に罪を指摘する神様のはらわたを受け取りましょう。それは決して裁きの為ではなく赦しのため。また主にあるあなたは勇気を失い、預言者の心を失ってはなりません。あなたのこの世に対する武器は真実な言葉と、愛の心、主はそんなあなたの生き様を喜び助け、用いて下さるのです。

■エレミヤ16:21「だから、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手と、わたしの力を知らせる。彼らは、わたしの名が主であることを知る。」
★何と感謝。やっぱり主はあなたの味方!この言葉に心励まされて、先走り裁くことがありませんように。今週も前に進んで下さる主を仰ぎ見つつ進みましょう。

■マタイ27:17それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」27:18ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。
★使徒信条には「ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ」と。何という屈辱をピラトは負ったことか。しかし彼はローマの総督として正しさを明らかにする目的のために裁判をすべきであるにも関わらず、それを自分の益のために利用しようとしたのです。聖書はただ「ハイをハイ、いいえをいいえとしないさい」と。これこそがあなたの生涯を誘惑から守り、神様の祝福を受ける秘訣です。主を信じる生き方は、確かに勇気も求められます。しかし、忘れないで下さい。この生き方を選び取るあなたの傍らには、常に真実な主がおられ、あなたを助けて下さることを。ヒデ

日曜日, 7月 25, 2010

20100725_2サムエル11_エレミヤ15_マタイ26

■2サムエル11:5女はみごもったので、ダビデに人をやって、告げて言った。「私はみごもりました。」
★今や王国の全体から信任を受けている王ダビデ。しかしこの時ダビデは王の持つ特権を濫用し、今まさに国のために命をかけて戦っている兵士ウリヤの妻バテシェバを辱めたのです。「私はみごもりました」。この報告ほどダビデの目の前を真っ暗にしたものは、彼の生涯今だかつてあったでしょうか。ここから心に刻みましょう。蒔いた物は必ず刈り取ること。たとえどんな人物であっても、様々な誘惑に対して私は絶対大丈夫と言い得る人はいないこと。さらに、祝福、自由、充実の中でこそ人は神様から離れ、道を踏み外すということを。

■エレミヤ15:16私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。
★「私にはあなたの名がつけられているからです」と、恥ずかしがることなく告白する魂はなんと幸いでしょう。神様は聖書を通してはっきりと「あなたは私のものだ」と宣言しておられます。あなたはご存知ですか。

■マタイ26:32しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
★十字架を前にした主が弟子たちに語った話です。ガリラヤとはどこですか、彼らが生まれ育った故郷でもありますが、そこは彼らが自らの弱さを自覚させられたところでもありました。しかし復活の主はあなたをそこに一人で行かせることはなさいません。私が先にそこに行き、あなたを歓迎するために迎えようと語られるのです。この週も復活の主を見上げつつ神様の恵みの中を歩みましょう。ヒデ

土曜日, 7月 24, 2010

20100724_2サムエル10_エレミヤ14_マタイ25

■2サムエル10:3アモン人のつかさたちは、彼らの主君ハヌンに言った。「ダビデがあなたのもとに悔やみの使者をよこしたからといって、彼が父君を敬っているとでもお考えですか。この町を調べ、探り、くつがえすために、ダビデはあなたのところに家来をよこしたのではありませんか。」10:4そこでハヌンはダビデの家来たちを捕らえ、彼らのひげを半分そり落とし、その衣を半分に切って尻のあたりまでにし、彼らを送り返した。
★かつてダビデがサウル王の妬みのゆえに苦しみを受けた時に助けてくれたハヌンの父ナハシュが死にました。ダビデはその真実に酬いる為に家来を遣わしますが、ナハシュの重臣たちは若き王ハヌンに上の言葉を語ります。そして結局ダビデが遣わした家来を辱め、自ら滅びを選び取るのです。聖書は「悪者は追う者もないのに逃げる」と語り、私たちは計る計りで計りかえされると警告します。大切な事は偽りのない心で普段から生きること。あなたはその為に主を仰ぐのです。

■エレミヤ14:14主は私に仰せられた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。
★言葉が氾濫している時代。目を閉じて心を開き「父よ、聞き分ける霊を私に与えて下さい」と心静める者でありましょう。

■マタイ25:39また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』25:40すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
★神様を愛するとは自分を愛するように隣人を愛すること。困窮の中にある人を助けること。そして愛は言葉だけでなく、行動としてあらわされます。主はあなたのその行動を決して忘れることはなさいません。人生とは、早く行くことでも、いかに多くを所有するかでもなく、分かち合うためにあることを心に刻みましょう。ヒデ

金曜日, 7月 23, 2010

20100723_2サムエル8-9_エレミヤ13_マタイ24

■2サムエル9:1ダビデが言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。」
★イスラエル12部族を統一し王となったダビデが、かつての王サウルの家を預かるツィバに語った言葉が上の御言葉です。聖書には「神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことは果たせ。」とありますが、ダビデはこの御言葉を重んじたのです。かつてダビデは「たとい、私が死ぬようなことがあっても、あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください。主がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすときも。」と語るヨナタンと、とこしえの契約を結んでいたのです。ダビデのように誓ったにもかかわらず果たせていない誓いはないだろうかと、気づきを主に求めることは祝福の生涯を全うする為に外せない土台の一つです。

■エレミヤ13:23クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行うことができるだろう。
★イスラエルの祝福のために主がどれほど真理の言葉を語っても、結局民は、自らの欲望を満たすため偶像礼拝を。そんな民の姿を主は預言者エレミヤを通して上の御言葉の様に語らせました。人は本質において自分で自分を変えることは出来ません。しかしそれを認めて、主を仰ぐ者のために神様は救いの御手を伸ばして下さいます。ここに希望があるのです。

■マタイ24:10そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。24:11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。24:12不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
★主が語られた世の終わりの預言です。まさに今が残念かなそうした時代であることを感じます。襟を正しましょう。主を仰ぎ、豊かな命を受け続けましょう。あなたの場所の用意をし、再び来られる主のおいでは近いのです。ヒデ

木曜日, 7月 22, 2010

20100722_2サムエル7_エレミヤ12_マタイ23

■2サムエル7:18ダビデ王は行って主の前に座し、そして言った。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。
★ダビデは周囲のすべての敵から守られて王国が確立した時、預言者ナタンに「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」と、主の為に杉材の神殿を建てることを自ら進んで願い出ました。その動機と志を喜ばれた主はダビデにとこしえの王国と子孫の繁栄までも約束して下さったのです。その恵みの応答として告白したのが上の御言葉です。この世は自分が栄光を受けようとそれを奪い合います。しかしその前には必ず、当然ささげるべき主への感謝があり、そこには大きな報いが伴うのです。

■エレミヤ12:1主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。
★神の裁きに対する疑問がぬぐえない預言者エレミヤ。主は何とあわれみ深い、深すぎる?お方でしょうか。しかし「毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ」と世の終わりには二度と覆すことのない正しい裁きを為されるのです。峻厳なる神様に委ねるべき裁きは委ね、今日あなたが生きるべき道があるのです。

■マタイ23:25わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。
★十字架を前にし「偽善なるかな律法学者、パリサイ人たちよ」と激しい主の叱責が続きます。しかし主の目には涙があったことを忘れてはなりません。単に滅ぼし退ける為ではなく回心を願ってのそれなのです。キリストにある者の動機。それはいつも愛であるべきです。主にあるあなたの心から湧き出る愛が、今日も人々を生かしますように。ヒデ

水曜日, 7月 21, 2010

20100721_2サムエル6_エレミヤ11_マタイ22

■2サムエル6:16主の箱はダビデの町に入った。サウルの娘ミカルは窓から見おろし、ダビデ王が主の前ではねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。
★ここでサウルの娘ミカルは「ダビデをさげすんだ」と。しかし聖書はかつてのミカルのダビデへの思いを「サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。」と記します。当時は父であるサウル王がダビデの命をゆえなく狙っていた時でした。しかし今や、不従順の為に命を神によって絶たれた父サウル王の亡き後です。ダビデの神への姿勢が変わったわけではありません。ミカルの方が変わったのです。かつては王の娘として安定の中でダビデにあわれみを掛けたミカル。しかし今は妬みとさげすみが心に。人の心から湧きあがる愛について、どれほど人は父の影響を受ける事でしょう。だからこそ私たちは「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」天の父の愛でまず自らが受け止められる体験が生涯で決定的に重要なのです。

■マタイ22:21彼らは、「カイザルのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
★「税金をカイザルに納めることは法に適っているか。いないのか」。問をする宗教家の心に悪意のあることを読み取った主が彼らに答えた内容が上の御言葉です。大切なことは納税の義務の当然さと合わせ、「神のかたち」に似せて作られた人には「神に帰すべき当然の義務がある」と言うこと。しかし残念なるかな、宗教家はその義務とも言うべき真心と愛を主におささげすることが見えていなかったのです。「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。そしてあなたは命をかけた主の贖いで「神のかたち」を回復された「神のもの」。神様にお返しできる出来るものを持つ人の生涯がいかに光栄かを心に留め、感謝の中を歩みましょう。今日も一日、主はあなたを御自身の誇りとしてこの世に遣わして下さいます。ヒデ

火曜日, 7月 20, 2010

20100720_2サムエル4-5_エレミヤ10_マタイ21

■2サムエル5:4 ダビデは三十歳で王となり、四十年間、王であった。
★かつての主人であるサウル王の子イシュ・ボシェテの首をとってダビデに気に入られようとやって来たバアナとレカブに、ダビデは正しい審判をくだし、それをもて遂にサウル全家からの信頼をも勝ち取り、イスラエル12部族をまとめる王となりました。それはダビデが預言者サムエルから王としての油の注ぎを受け、あのペリシテ人ゴリアテを倒してから十数年後の事でした。
モーセがイスラエルを救う決心をして立ちがあったのは40才。実際に解放者となったのは、その後の40年の荒野の訓練を経た80才の時。神様の選びと召しは変わる事ことなく、やがてリーダーになった彼らです。では何が彼らをリーダとしたのでしょう。目の前に置かれた事柄を一つ一つ主にあって決断した結果と合わせ、時間によって練られた人格であることは否めません。聖書が語るリーダーとは立場ではなく実質です。その道は、今日も目の前に置かれた課題に真摯に向き合おうとするあなたの眼差しの延長線上にあるのです。

■エレミヤ10:23主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。
★エレミヤはこの時、人の道を確立できるお方はただお一人、主であると告白しました。告白によって人の人生は造り上げられます。

■マタイ21:28ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。21:29兄は答えて『行きます。お父さん』と言ったが、行かなかった。21:30それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。
★兄は処世術として頭のみを用いましたが、弟は心を用いました。主は私たちが自ら心を用い判断し、神と人への愛を選び取ることを願われ、それを助けて下さるお方です。今日も健康の為、身体と知性と合わせ、なにより心をも用いさせて頂きましょう。そんなあなたを主は今日も豊かに祝福して下さいます。ヒデ

20100720_2サムエル4-5_エレミヤ10_マタイ21

■2サムエル5:4 ダビデは三十歳で王となり、四十年間、王であった。
★かつての主人であるサウル王の子イシュ・ボシェテの首をとってダビデに気に入られようとやって来たバアナとレカブに、ダビデは正しい審判をくだし、それをもて遂にサウル全家からの信頼をも勝ち取り、イスラエル12部族をまとめる王となりました。それはダビデが預言者サムエルから王としての油の注ぎを受け、あのペリシテ人ゴリアテを倒してから十数年後の事でした。
モーセがイスラエルを救う決心をして立ちがあったのは40才。実際に解放者となったのは、その後の40年の荒野の訓練を経た80才の時。神様の選びと召しは変わる事ことなく、やがてリーダーになった彼らです。では何が彼らをリーダとしたのでしょう。目の前に置かれた事柄を一つ一つ主にあって決断した結果と合わせ、時間によって練られた人格であることは否めません。聖書が語るリーダーとは立場ではなく実質です。その道は、今日も目の前に置かれた課題に真摯に向き合おうとするあなたの眼差しの延長線上にあるのです。

■エレミヤ10:23主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。
★エレミヤはこの時、人の道を確立できるお方はただお一人、主であると告白しました。告白によって人の人生は造り上げられます。

■マタイ21:28ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。21:29兄は答えて『行きます。お父さん』と言ったが、行かなかった。21:30それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。
★兄は処世術として頭のみを用いましたが、弟は心を用いました。主は私たちが自ら心を用い判断し、神と人への愛を選び取ることを願われ、それを助けて下さるお方です。今日も健康の為、身体と知性と合わせ、なにより心をも用いさせて頂きましょう。そんなあなたを主は今日も豊かに祝福して下さいます。ヒデ

月曜日, 7月 19, 2010

20100719_2サムエル3_エレミヤ9_マタイ20

■2サムエル3:39この私は油そそがれた王であるが、今はまだ力が足りない。ツェルヤの子らであるこれらの人々は、私にとっては手ごわすぎる。主が、悪を行う者には、その悪にしたがって報いてくださるように。」
★今は亡きサウル王に仕えた将軍アブネルとダビデに仕える将軍ヨアブの間では王ダビデの知らない所で激しい権力闘争が。そしてヨアブは自分の兄弟アサヘルの血に酬いるために、アブネルの腹を剣で刺し通して殺したのです。あなたに力が増し加われば加わるほど、あなたの回りには恵みと共に、あなたの立場を利用し、自らの思いをなし遂げようとする人も集います。その時ダビデが祈った祈りが上の祈りです。私たちも「試みに合わせないで悪しき者からお守り下さい。」と主の祈りを心を込めて祈りましょう。

■エレミヤ9:8彼らの舌はとがった矢で、欺きを語る。口先では友人に平和を語るが、腹の中では待ち伏せを計る。9:9これらのために、わたしは彼らを罰しないだろうか。─主の御告げ─このような国に対して、わたしが復讐しないだろうか。」
★主はあなたがおかれているこの地が、上の聖書の言葉の様であることを知って下さっています。だからこそ私たちは、岩なる主の裂け目に隠れ込み、細き主の御声に耳を傾けるのです。

■マタイ20:28人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
★人生の目的とはまさに「分かち合うこと」と、そのことが主によってここで明確に。しかしこの前には他の弟子に隠れて「イエス様。あなたが御国の位に着かれた時には私の二人の息子をあなたの右と左においてやって下さい」と願う母の姿が。何と多くの人が損しないこと、騙されないこと、少しでも他の人より得することを人生の目的にして、友さえも出し抜こうとすることでしょう。残念です。しかし主は「分かち合うこと・愛し合うこと」こそが人生の目的だと示されたのです。この神の国の価値観に生きる者の為には全てのものを備え給う主がおられることを証詞する為にあなたは召し出されました。主があなたと共におられます。ヒデ

日曜日, 7月 18, 2010

20100718_2サムエル2_エレミヤ8_マタイ19

■2サムエル2:14アブネルはヨアブに言った。「さあ、若い者たちを出して、われわれの前で闘技をさせよう。」ヨアブは言った。「出そう。」2:15そこで、ベニヤミンとサウルの子イシュ・ボシェテの側から十二人、ダビデの家来たちから十二人が順番に出て行った。2:16彼らは互いに相手の頭をつかみ、相手のわき腹に剣を刺し、一つになって倒れた。それでその所はヘルカテ・ハツリムと呼ばれた。それはギブオンにある。
★サウル王亡きあともサウルの兵士とダビデの兵士との間で憎み合いが。しかしよく考えるなら彼らは皆ヤコブの子孫、イスラエル12部族の一員で兄弟でした。一人の人の罪深さ、不従順がもたらす影響の大きさを思います。罪は決して自分だけに留まらず、結果的には最も愛する者をも巻き込むもの、だからこそ聖書は神の前に罪は告白し離れなさいと語るのです。

■エレミヤ8:10それゆえ、わたしは彼らの妻を他人に与え、彼らの畑を侵略者に与える。なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。8:11彼らは、わたしの民の娘の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。
★今や大国バビロンがイスラエルを飲み尽くそうとしているのに「大丈夫。大丈夫」とにせ預言者は語ります。しかし聖書は「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。」と警告します。大丈夫かどうかの規準は神の言葉。神の言葉に留まり続ける以外に自分を守る術はないのです。

■マタイ19:2 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」19:26イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
★「人には出来なくても神にはできる」これが聖書の語る究極です。それを実証したのが神たるキリストが人となって来られた受肉(クリスマス)であり身代わりの十字架です。信仰とはこのお方を見上げること。さあこの一日も主を仰ぎ、始めましょう。ヒデ

土曜日, 7月 17, 2010

20100717_2サムエル1_エレミヤ7_マタイ18

■2サムエル1:14ダビデは言った。「主に油そそがれた方に、手を下して殺すのを恐れなかったとは、どうしたことか。」1:15ダビデは若者のひとりを呼んで言った。「近寄って、これを打て。」
★ペリシテ軍との戦いで深い傷を負い、自ら剣に覆い被さり命を絶ったサウル。しかしダビデの前に報告に出た青年は「ひどいけいれんが起こったのでサウル王が、この私に殺してくれと頼んだのでそうしました」と。この青年はダビデから誉れを受けれると思いそう語りました。が、ダビデは「主が油注がれた方の命にふれることを畏れなかったのか」と。「主が油注がれた者を畏れる」べき。それがダビデの一貫した姿勢であり、結果として神様の祝福を受けることになったスピリットでした。聖書は「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」と。よって立てられた両親、夫、先生、上司の祝福を祈るとこは大切で、反発反抗でなく和解の道の模索が祝福です。

■エレミヤ7:5もし、ほんとうに、あなたがたが行いとわざとを改め、あなたがたの間で公義を行い、7:6在留異国人、みなしご、やもめをしいたげず、罪のない者の血をこの所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、7:7わたしはこの所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住ませよう。
★神様を愛するとは公義とあわれみに生きること。これが昔も今も変わることのない祝福の選択です。

■マタイ18:21そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」18:22イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
★「無限に」と言うことは「赦し」とは自分の力や頑張りで与えることのできるものではなく、聖霊様の力によって開かれるもの。そして今日も神様に向かって開かれたあなたのその心に、聖霊様は喜んで住まわれます。ハレルヤ。ヒデ

金曜日, 7月 16, 2010

20100716_1サムエル31_エレミヤ6_マタイ17

■1サムエル31:3攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼をねらい撃ちにしたので、彼は射手たちのためにひどい傷を負った。31:4サウルは、道具持ちに言った。「おまえの剣を抜いて、それで私を刺し殺してくれ。あの割礼を受けていない者どもがやって来て、私を刺し殺し、私をなぶり者にするといけないから。」しかし、道具持ちは、非常に恐れて、とてもその気になれなかった。そこで、サウルは剣を取り、その上にうつぶせに倒れた。
★これがサウル王、生涯最後の記述であり残念です。なぜ主は「わたしはサウルを王としたことを悔いる。」と語られたのか。それは彼が心からの悔い改めをしなかったから。聖書には「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」と記述が。悔い改めの機会が与えられていること自体、祝福でありチャンスであることを覚えたいものです。

■エレミヤ6:9万軍の主はこう仰せられる。「ぶどうの残りを摘むように、イスラエルの残りの者をすっかり摘み取れ。ぶどうを収穫する者のように、あなたの手をもう一度、その枝に伸ばせ。」
★ぶどうの収穫の時、農夫は良い実を取り残して無駄にしないように、同様に神様は「私を畏れる正しい人が捨てられてしまわないように。」と預言者に注意を促します。それは時代の暗さをいたまれると共に、その中にあっても神様は、神を畏れるあなたを覚え、支えて下さっていると言うことです。

■マタイ17:17イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
★ここは、てんかんの癒しを求めて訪れた親子に、弟子たちが右往左往しつつ対応しても癒されなかった後、主が弟子たちに語られたことばです。「その子を私の所に」。ここに生じた問題の解決法が。そう、問題の解決は主の中に。祈りはその問題・課題を主のもとにもって行く手段。さあ今日も主の前に課題を持ち出し、委ねて一日を始めましょう。主はあなたを祝福して下さいます。ヒデ

木曜日, 7月 15, 2010

20100715_1サムエル29-30_エレミヤ5_マタイ16

■1サムエル29:8ダビデはアキシュに言った。「私が何をしたというのでしょうか。私があなたに仕えた日から今日まで、このしもべに何か、あやまちでもあったのでしょうか。王さまの敵と戦うために私が出陣できないとは。」29:9アキシュはダビデに答えて言った。「私は、あなたが神の使いのように正しいということを知っている。だが、ペリシテ人の首長たちが、『彼はわれわれといっしょに戦いに行ってはならない』と言ったのだ。
★ダビデの生涯における数少ない汚点です。執拗なサウル王の脅威から逃れて、以前気が違った者を装ったガテのアキシュ王のもとに逃げ込んだダビデ。ところがペリシテ人とアキシュは同盟を結び、今やイスラエルに向かおうとしているのです。そしてペリシテ人がダビデの存在を知ったとき「彼は私たちの首をもって主君サウルの好意を得ようとしないでしょうか」と語ります。その時のダビデの反論が上の言葉。しかしこの場面は神様が憐れみによってダビデが神の民イスラエルと戦わなくても済むようにして下さった箇所で、ダビデがアキシュ王に上の言葉を誓っても、いざ戦いに出たならば上滑りせざるを得ない言葉でした。言うべきでない言葉。しかし私たちもダビデの様に時に失敗を……。けれどそれ以上に輝くのは神様の選びの器に対する憐れみです。そしてあなたもその選びの器の一人として神様から選び出されたのです。主があなたの生涯を勝利の右の手をもって支えて下さるために。

■エレミヤ5:18しかし、その日にも、【─主の御告げ─】わたしはあなたがたを、ことごとくは滅ぼさない。」

■マタイ16:19わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
★「あなたこそ生ける神の御子キリストです」と告白する人に、神様は驚くばかりの特権を授けて下さいました。さてその特権である鍵はどこで力を発揮するのでしょう。鍵穴です。今日も託された鍵を用いて、あなたが神の国の支配を広める鍵穴がどこにあるか見出し、それを用いることが出来ますように。ヒデ

水曜日, 7月 14, 2010

20100714_1サムエル28_エレミヤ4_マタイ15

■1サムエル28:19主は、あなたといっしょにイスラエルをペリシテ人の手に渡される。あす、あなたも、あなたの息子たちも私といっしょになろう。そして主は、イスラエルの陣営をペリシテ人の手に渡される。28:20すると、サウルは突然、倒れて地上に棒のようになった。
★上の言葉は霊媒の女にサウル王が「死んだサムエルを呼び出して欲しい」と願った時、呼び出された預言者サムエルがサウル王に語った言葉です。「あすあなたも息子達も私と一緒になる。」すなわち死ぬと。それで彼は突然棒の様になって地に倒れたのです。彼が主の言葉を退けて以来、主は彼に語られず、その為サウル王は口寄せ霊媒に頼ることがありました。しかしそれらに頼る時、もっと彼自身苦しめられる為、口寄せ霊媒をイスラエルから彼が追い出し禁じていたのです。にも関わらずペリシテ人が迫り来る中、誰も頼る者がいなくなったサウルは自らその禁じ手を破り口寄せを。
神様から離れた人間が落ちて行く姿が残念ながらここに。混乱から混乱。混沌から混沌。こうなる前に本来彼は「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。」の御言葉に従い心を裂くべきでした。
更に霊媒の女を通して呼び出されたサムエルとは本当に今や主の懐に憩う彼だったのでしょうか。非常に怪しいです。むしろそれは人を混乱から混乱へと導く、惑わす霊に他なりません。だからこそ真の神様は聖書を通し、決して口寄せ霊媒占いをしてはならないと。決してしてはならないのです。もしあなたにその経験があるなら今その関係を断ち切ります。「汚れた霊よこの人から立ち去れ。今までの関係をキリストの血潮によって破棄する。今キリストの御名によってそれを宣言する。この人はキリストの者である」。
あなたが真に信頼すべきお方、それは胎内にいる時から白髪になる迄あなたを担い「私は造ったゆえ必ず負い持ち運びかつ救う」と語って下さる神様です。あなたは神様に愛されている者。ゆえに今日もこのお方以外にではなくこのお方に聞いていいのです。さあ今日も「主よ感謝します。よろしくお願いします」と遣わされていきましょう。目には見えませんが主があなたの前を進んで下さっていますよ。ヒデ

火曜日, 7月 13, 2010

20100713_1サムエル26-27_エレミヤ3_マタイ14

■1サムエル26:21サウルは言った。「私は罪を犯した。わが子ダビデ。帰って来なさい。私はもう、おまえに害を加えない。きょう、私のいのちがおまえによって助けられたからだ。ほんとうに私は愚かなことをして、たいへんなまちがいを犯した。」
★以前三千人の精鋭をえり抜き、ダビデ討伐に出かけたサウルは洞穴から出た所で、自らの衣の裾だけを切ったダビデが「王よ、私があなたに対する殺意の無いことをご承知下さい」と語ったとき、「あなたは私よりも正しい。主が私をあなたの手に渡されたのに私を殺さなかったからだ」と泣きながら語り、殺意をもってダビデを追うことを悔い、止めたはずでした。ところがここでサウル王は再度ダビデ討伐に出かけるのです。
上の言葉は、野営している討伐隊の中心で眠っているサウル王のテントの中から槍と水差しだけを取り、丘の上に登ったダビデがサウル軍の将軍アブネルに「なぜお前は王を守るために見張っていないのか」とサウル王への殺意のないことを示した時、サウル王みずから語った言葉です。
自己保身の為にダビデ(人)を信じる事が出来なくなったサウル王の姿は何とあわれで惨めなことでしょう。しかし、これが語りかけられる神の言葉がありながら、それを無視し続けることによって、心の深い部分に責めを感じ続ける者が払うことになる代償です。彼に必要なのは敵を追い、攻めることでもなければ、何かに没頭して気を紛らわすことでもありません。ただ神様への真の悔い改めが必要なのです。真に明け渡しきれない罪によって、あるは真に悔い改め切れない生き様によってどれほど多くの人が心の平安を保つことが出来ず苦しんでいることでしょう。サウルを教訓としたいものです。
さらにあなたの回りには訳なくサウル王のようにあなたを傷付けようとするものがありますか。ダビデはその時「主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。」と、主の裁きにサウルを委ね、自ら罪を犯すことをしませんでした。イエス・キリストは「世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」と語られます。さあ勇気をもって今週も罪に手を染めぬ生き方を全うさせて頂きましょう。主があなたを助けて下さいます。ヒデ

月曜日, 7月 12, 2010

20100712_1サムエル25_エレミヤ2_マタイ13

■1サムエル25:34私をとどめて、あなたに害を加えさせられなかったイスラエルの神、主は生きておられる。もし、あなたが急いで私に会いに来なかったなら、確かに、明け方までにナバルには小わっぱひとりも残らなかったであろう。」25:35ダビデはアビガイルの手から彼女が持って来た物を受け取り、彼女に言った。「安心して、あなたの家へ上って行きなさい。ご覧なさい。私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた。」
★荒野にいるナバルの羊と僕たちを守ったダビデとその家来。しかしナバルはそんなダビデに「ダビデとは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。私のパンと私の水、それにこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」と語ります。その報告を聞いたダビデは即座に「剣を付けよ」と、ナバルにかかわる者の全てを殺すために出で立ちます。しかし夫ナバルの愚かを聞いた妻アビガイルは、用意できるだけのパンと肉とぶどう酒を携えてダビデのもとに謝罪に向かいダビデに出会った時にこう語るのです。「主が、あなたについて約束されたすべての良いことを、ご主人さまに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、むだに血を流したり、ご主人さま自身で復讐されたりしたことが、あなたのつまずきとなり、ご主人さまの心の妨げとなりませんように。ナバルは本当に愚か者です。どうぞこの私に免じておゆるし下さい」。
このアビガイルの言葉を受けて語ったのが冒頭のダビデの言葉で、彼女はダビデの怒りを収めたのです。配慮の無さと高慢、またその人の愛のわざを見抜けず人の心に油を注ぐナバルの様な者があるかと思えば、アビガイルの様に、怒りに燃える心に理解と慰め、あるいは感謝をもって臨み、その人の心の嵐が静まるように助ける執り成し手もいます。私たちは愚か者ナバルにならないように、感謝を忘れ恩を仇で返す者であってはなりません。また私たちには怒りに燃える心に理解と慰めをもって関わって下さり、私たちの心の嵐を沈めて下さる救い主であり友なる主イエス様が必要です。今週もこのお方と共に歩みましょう。ヒデ

日曜日, 7月 11, 2010

20100711_1サムエル24_エレミヤ1_マタイ12

■1サムエル24:19人が自分の敵を見つけたとき、無事にその敵を去らせるであろうか。あなたがきょう、私にしてくれた事の報いとして、主があなたに幸いを与えられるように。24:20あなたが必ず王になり、あなたの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。
★これは妬みのゆえにダビデを殺そうと謀るサウル王がダビデに直接語りかけた言葉です。その背景には三千人の精鋭をえり抜いてのダビデ討伐でサウルは用をたすため、たまたまほら穴に。しかしそこにはダビデと部下が息を潜めて身を隠していた場所だったとは。「今こそ、主があなたの手にサウル王を渡して下さった時です。さあ一突きにして殺して下さい。」そう迫る部下達でしたがダビデは「どうして主が油注がれた人に手を掛ける事ができようか」と、衣の裾だけを切り、サウロが洞穴から出たところで、皆の見ている前でその切った衣の裾を示しつつ殺意の無いことを示したのです。このダビデの姿から神様を畏れる生き様を教えられます。報復は私のすることではなく主の為されること。そしてこの姿勢が結局彼をイスラエルの王へと導いたのです。神様を信じ神様を畏れる者にはそれにふさわしい生き様のあることを覚えましょう。蒔いた種は必ず刈り取ることになるのです。

■エレミヤ1:7すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。1:8彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。
★無理もないように思います。二十歳ほどのエレミヤに預言者としての重荷が担わされたのですから。自らの乏しさを見てその職の不可能なことを彼は並べ立てようとします。が、しかし主は「まだ若いというな」と語られたのです。人は逃げようと思えば、あるいは使命を回避しようと思えばいくらでも出来るもの。けれども彼はここで主の言葉を信じて立ち上がったのです。「まだ若いというな」とはあなたにとってはどんな意味となるのでしょう。不可能を、乏しさを数えたらきりはありません。しかし主を信じて立ち上がるとき、あなたは主にあって事を成し遂げる人になるのです。その為にあなたは召し出されました。祝福はあなたの前に既に主がおいて下さっています。さあ主の約束を信じて立ち上がりましょう。ヒデ

土曜日, 7月 10, 2010

20100710_1サムエル23_イザヤ66_マタイ11

■1サムエル23:26サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山の他の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃げようとしていた。サウルとその部下が、ダビデとその部下を捕らえようと迫って来ていたからである。23:27そのとき、ひとりの使者がサウルのもとに来て告げた。「急いで来てください。ペリシテ人がこの国に突入して来ました。」23:28それでサウルはダビデを追うのをやめて帰り、ペリシテ人を迎え撃つために出て行った。こういうわけで、この場所は、「仕切りの岩」と呼ばれた。
★妬みのゆえにダビデを殺そうと謀るサウル王。権力をもってダビデを追い詰め、ついにその目的を成し遂げる日が目前に。しかし「王よ。急いで帰って下さい。敵ペリシテ人が国に突入してきましたから」とサウル王は使者を通してその知らせを聞かされます。危機一髪の状況に追い込まれたダビデ。しかし他でもない主ご自身がペリシテ人さえ用いてダビデの命をサウル王の罠から守って下さったのです。そう主を畏れる者の命は神様ご自身がその懐の中にかき抱き守られます。あなたも決して例外ではありません。

■マタイ11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
★主はあなたに安息を与えるために私のもとに来なさいと招かれるお方です。そしてあなたが安息の中を生きるため、ここは大切なことを教えます。知って下さい。人は負うべき重荷と、負ってはならない重荷があることを。負うべきは主が負わせて下さる使命やビジョン。負ってはならないのは罪の報酬。絶望。死の不安。これらは人間が自ら犯した罪の結果当然負うものでしたが、その代価を主は十字架の上で御自身の命をもって払って下さったのです。だからあなたは絶望に留まってはなりません。あなたは十字架を仰いで生きるのです。それが心からの主の願いです。今日も主の願いを受け取り、主の命と赦しの中を歩みましょう。ヒデ

金曜日, 7月 09, 2010

20100709_1サムエル21-22_イザヤ65_マタイ10

■1サムエル21:13それでダビデは彼らの前で気が違ったかのようにふるまい、捕らえられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。21:14アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見るように、この男は気が狂っている。なぜ、私のところに連れて来たのか。
★妬みのゆえにサウル王に命を狙われるダビデの苦しみはいかばかりだったでしょう。彼はここにあるように、時に気が違った者の様に立ち振る舞わなければ、自らを守れないほどの窮地に立たされたのです。しかし彼はその苦しみの中で主への祈りを詩篇とし、自らを保ちました。詩篇34「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。」はまさにこの時の彼の祈りです。
それにしてもこの時「困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。」と聖書は紹介しますが、彼は不平不満の渦に自らを投じて、決して自らを失うことはありませんでした。徹底した神様への畏れの姿勢を貫くダビデ。こうして神様はイスラエルの王としての備えを着々とダビデの生涯になして行かれたのです。あなたは今どんな状況にありますか。たとえいかなる状況の中に置かれても、神様を畏れる人への約束はひとつ。1ペテロ5:10の通りです。
「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」この約束を受け取りましょう。そして揺るぎない人生を生きるのです。

■マタイ10:19人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。
★大丈夫です。だから今日も肝心なとき主を仰ぐのです。ヒデ

木曜日, 7月 08, 2010

20100708_1サムエル20_イザヤ64_マタイ9

■1サムエル20:30 サウルはヨナタンに怒りを燃やして言った。「このばいたの息子め。おまえがエッサイの子にえこひいきをして、自分をはずかしめ、自分の母親の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。20:31エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も危うくなるのだ。今、人をやって、あれを私のところに連れて来い。あれは殺さなければならない。」
★息子ヨナタンをあらんかぎりの言葉をもって叱責するイスラエルの王サウル。サウルは息子を愛していなかったからでしょうか。いいえ王として他の父に勝って息子を愛していたと言えるでしょう。「ダビデが民衆の人気を博する事はお前の将来の王としての立場が危うくなるんだぞ。なのに、なぜダビデの肩を持つのか。私はただお前の将来の為を思って行動しているんだぞ。お前は、この父の気持ちが分からないのか。」その結果「このばいたの息子め」と最悪の言葉となったのです。まさに息子の将来と心を勝ち取ろうと願いつつ、自ら息子の心を引き裂き、踏みにじる結果となりました。どこに問題が。それは民の心を引き付けつつも自ら損をしないようにと上手に立ち振る舞う2面性のあるサウルの生き方でした。あなたは多くの人に尊敬され信頼されている人ですね。そんなあなたを信頼する人や、神様があなたに求めておられる生き方は、純粋に生きようとするあなた本来の生き方であり価値観です。あなたを大切に思う人も、神様もその生き方を応援して下さっています。主にあって輝きましょう。

■マタイ9:12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。9:13『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
★正しい聖書知識は私たちを救います。神様に近づく人生ではなく、神様から遠ざかろうとする生き方。それを聖書は罪と呼び、その意味において全ての人は罪人であり医者を必要とするのです。しかしそれを認める人には、おしげもなく注がれるキリストの赦しと愛の特権が。キリストにあって新たにされたあなたは今日もこのキリストの愛を受け取って輝くのです。ヒデ

水曜日, 7月 07, 2010

20100707_1サムエル19_イザヤ63_マタイ8

■1サムエル19:9ときに、わざわいをもたらす、主の霊がサウルに臨んだ。サウルは自分の家にすわっており、その手には槍を持っていた。ダビデは琴を手にしてひいていた。19:10サウルが槍でダビデを壁に突き刺そうとしたとき、ダビデはサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた。ダビデは逃げ、その夜は難をのがれた。
★イスラエルを救うために戦ったダビデに対し、サウル王の息子ヨナタンもダビデの妻となったサウル王の娘ミカルも、心からの尊敬と信頼を寄せていました。ゆえに彼らは父に「ダビデを憎まないで」と説得します。そして父サウル王も「そうしよう」と。けれども御霊がサウル王に臨んだ時に、彼は上記の如くダビデを槍で刺し殺そうとしたのです。聖書は、御霊は人の心の奥底の思いさえも明らかにすると紹介します。自分さえ気づかなかった罪深さに気づかされた時、そこには御霊様の恵みの介入があり、思いやりがあるのです。その恵みに対する応答によって人の人生は変わります。

■イザヤ63:9彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。
★あなたは知っていらっしゃいましたか。これまでのあなたの生涯どんな時にも決して一人ではなかったことを。主は絶えずあなたと共におられたのです。そしてあなたが苦しみの中にある時、このお方もあなたの苦しみに心を合わせ、あなたがそこから脱出できるよう支え続けて下さっていたのです。いいですか。あなたは一人ではありません。主の瞳の中には常にあなたと言うかけがえのない存在があるのです。

■マタイ8:3イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。
★知って下さい。主は決して主に近づくあなたを退けるお方ではありません。そうではなく、かかわり、手を伸ばして下さるのです。今日もあなたはこのお方の愛と真実の御手に触れられて一日遣わされます。ヒデ

火曜日, 7月 06, 2010

20100706_1サムエル18_イザヤ62_マタイ7

■1サムエル18:7女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」18:8サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」18:9その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。
★これは巨人ゴリアテをはじめ、王の命令によって送り出された戦に、ことごとく勝利を治めたダビデを迎えに出た、イスラエルのむすめ達の言葉を聞いたサウル王の反応です。ここには命のないリーダーと、真に命あるリーダーの対比が明確です。物事で何が一番大変かと言えば自分の後を次ぐ後継者を育てること。よって真のリーダーは自分を越える後継者が起こったなら、これほどの光栄と喜びはありません。しかし命のないリーダーにあっては同じ事が妬みとなるのです。あなたは人の成長を喜べる人ですか。それとも妬む人ですか。共に喜び続ける人であれるよう自分自身主の御手の中で成長させて頂くのです。

■マタイ7:24だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
★主によって語られた山上の説教を締め括る譬えがこの話です。岩の上に家を建てた賢い者と、砂の上に家を建てた愚かな者との対比はあまりにも有名で、その結果は誰もが知るところ。洪水が来ようが嵐が来ようが倒れなかったのは、もちろん岩の上に建てた方。しかし賢い者と愚かな者を分ける規準は?と言われるとそれは時に曖昧です。その違いは岩なるキリストを土台とするか、しなかったかということですか。いいえ違います。キリストの言葉を聞いてもそれを素通りにするかしないかです。すなわちキリストの言葉は、ただありがたい話として聞き流すものではないと言うことです。是非生きようとする決心をして下さい。そして新たな一歩を主と共に踏み出すのです。その時あなたの足と存在は御使いと主の御腕に支えられていることを発見するのです。「見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた」これがあなたへの主の約束です。ヒデ

月曜日, 7月 05, 2010

20100705_1サム17_イザヤ61_マタイ6

■1サムエル17:39ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」ダビデはそれを脱ぎ、17:40自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。
★ダビデ以外の兵士はペリシテの代表戦士ゴリアテの280センチの体格とその轟きのような声に支配され、立ち上がることが出来ません。しかしダビデは王の鎧を脱ぎ、河原で拾った5つの石と石投げを持ち、ゴリアテの声にではなく「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」とゴリアテを倒したのです。人の人生と価値は何を見ているかによって変わります。見上げ信頼すべきお方は主。大事にすべきは「しかし私は、主の御名によって…」のスピリットです。

■マタイ6:31そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。6:32こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。6:33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。6:34だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
★主イエス様は山上の説教の全体を通して人生には優先順位があることを教えられました。神様は私たちが敬虔な宗教家となることを願っておられる訳ではありません。この世には、すれば良いことは一杯です。しかし神様は良い事ではなく、あなたが神に託された御心を、キリストと共に行う人となることを願っておられるのです。この世に遣わされるあなたが、今週もその所で御国をこの地にもたらすものとなりますように、キリストの御名で祝福します。ヒデ

日曜日, 7月 04, 2010

20100704_1サムエル16_イザヤ60_マタイ5

■1サムエル16:6彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」と思った。16:7しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
★サウルを王位から退けた神様はエッサイの子供達の中にその器を見つけ預言者サムエルを遣わします。長男エリアブを見たサムエルはまさにこの人物がと。しかしその時主が語られた言葉が上の6節のお言葉です。別にエリアブや後から次ぎ次ぎと連れて来られる7人の兄弟たちが悪いと言うのではありません。しかし国を治めるリーダーとなるべき人ではないと言うのです。そして主はダビデに王としての油をサムエルによって注がれました。なぜダビデが…?それがこのサムエル記のテーマです。そしてそれはまさに神の国を治めるために召し出されたあなたのテーマです。興味を持ってその真理を発見することをお勧めします。

■イザヤ60:1起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。60:2見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。60:3国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。
★上の御言葉は平たく言うと。「あなたは自らを誰と心得るか」「あなたは我が誇りの息子、娘ではないか」と言うことです。これは他でもない、あなた自身の自覚の問題です。あなたはこの真理を既に受け取りましたか。遠慮しなくて良いのです。受け取って主の輝きの反映の中に歩みましょう。

■マタイ5:8心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
★ここは有名な山上の説教の一節です。そしてここにキリスト教の本質が。きよいとは単一の意。混ざりものではないと言うこと。すなわちキリスト教はお参りの宗教ではなく、信じた所に従って生きるもの。だから神様の奇蹟を拝し、神様が生きておられることを体験できると言うのです。生きましょう。あなたのために全ての事を成し遂げて下さる主を信じて。ヒデ

土曜日, 7月 03, 2010

20100703_1サム15_イザヤ59_マタイ3-4

■1サムエル15:22するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
★恵みによってイスラエル最初の王となったサウル。しかし彼は神様から命じられたことよりも民を恐れて物事を曖昧に処理しようとする者でした。主は預言者サムエルを通しそんなサウルに「私は悔いる」と語られます。以下はそれ以降のやり取りです。「私は主の言葉を守りました。」「ではこれはなんですか」「それは私ではなく民のせいです」「いい加減止めなさい。言い訳は」「私は罪を犯しました。でも今は人々の前で、王としての私の面目を立てて下さい」。聖書は人を恐れると罠に陥ると明確に語ります。また罪を悔い改めようと言う者が「今は人の前での面目を立てさせて」とはゼスチャーでなくて何でしょう。最初は素晴らしいスタートを切ったサウル。にも関わらず彼は神の関心から人の関心に心を奪われ、結果全てを失うことになったのです。繁栄と栄誉のそばには常に罠が!しかしそれを主の助けによって退けてこそ、イスラエルを治める王足りうるのです。主の恵みの光の中で心の動機の点検を日毎に頂ける私たちは何と幸いなことでしょう。

■イザヤ59:1見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。59:2あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。
★上記御言葉は、罪とは神様の側に関することでなく、私に与えられた自由をいかに私が用いるかである事を教えます。委ねられている自由をもってキリストの十字架を仰ぎましょう。

■マタイ4:19イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」4:20彼らはすぐに網を捨てて従った。
★「ついて来なさい」と、主は召し出されるお方。そしてその中にある希望を受け取れるようにと備えられたのが今日一日。あなたの前を進んで下さる主がこの朝も見えますか。ヒデ

金曜日, 7月 02, 2010

20100702_1サムエル14_イザヤ57-58_マタイ1-2

■1サムエル14:45すると民はサウルに言った。「このような大勝利をイスラエルにもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。絶対にそんなことはありません。主は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。神が共におられたので、あの方は、きょう、これをなさったのです。」こうして民はヨナタンを救ったので、ヨナタンは死ななかった。
★ペリシテ軍の脅威から、勇敢な行動ゆえにイスラエルに勝利をもたらしたサウル王の息子ヨナタン。しかし父サウル王は、極度のプレッシャーの中で「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれる」と。結局その父の言葉を聞く前に戦いにでたヨナタンと道具持ちは戦いに勝利を治めますが、途中ミツバチの巣の蜂蜜に手をつけ、王の命令に背いた者として罪に問われてしまったのです。その全容を知った時サウル王は息子ヨナタンに対して「あなたは死ななければならない」と。しかし民が冒頭の言葉を語りヨナタンを死から免れさせたのです。ここからリーダーは極度のプレッシャーの中に置かれた時、いかに自らを処すべきか。また例え王と言えども間違った判断をした時、その王に対して進言する事のできる勇気ある民のあることの幸いを覚えます。またサウル王はイスラエルに勝利をもたらした息子ヨナタンを王の命令を破った者として、本心では殺したくなくても立場上「死ななければならない」と語らざるを得なかったのです。そう思うと何と国を愛し、王を愛し、会社を愛し、家庭を愛し、教会を愛して、リーダーに進言することのできる勇気ある人物のいる共同体は幸いなことか。また、立てられたリーダーは本当に共同体を愛する者の進言を聞き分ける心と謙虚さが求められる事でしょう。キリストにあるものとされ、なくてはならない共同体の中に世の光、地の塩として遣わされるお一人お一人を主が今日も豊かに祝福して下さいますように。主はこの朝もあなたの祈りに耳を傾け、あなたと共に戦い勝利を治めて下さるお方です。ハレルヤ ヒデ

木曜日, 7月 01, 2010

20100701_1サムエル13_イザヤ56_黙示21-22

■1サムエル13:11サムエルは言った。「あなたは、なんということをしたのか。」サウルは答えた。「民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。13:12今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」
★全焼のいけにえをささげる日を決めたのはサムエル。けれども預言者サムエルの到着は1週間遅れ、しかも自分たちの2倍以上のペリシテの軍隊の圧迫によって兵士がサウルのもとを去ることを恐れて、預言者でもない王サウルは全焼のいけにえをささげてしまったのです。遅れたのはサムエルなのに。しかしここからリーダーにとってのなくてはならない気質が何かが浮かび上がります。それは人の目を恐れない。人気に支配されない。むしろその心を捕らえられる必要があるのは神への畏れと御心を神様の方法によって成し遂げる決断です。リーダーは試されざるを得ず、しかも誘惑も一杯です。ただ主に目を留めましょう。それ以外勝利の道はないのですから。

■イザヤ56:7わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。
★私たちの祈りを楽しみへと導くのはイエス様。祈りの言葉も願いもまずは脇において、イエス様を思いましょう。新しいことはそこからおこることを信じます。

■黙示録22:18私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。22:19また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。
★ここに外せない聖書の本質が。それは聖書は神様が人にお与え下さった契約書と言うこと。だから加えても削除もならないというのです。信じて文字どおり、永遠の祝福を受け取りましょう。ヒデ