水曜日, 8月 31, 2011

20110831_1歴代志29_詩篇95_2テサロニケ1

■1歴代29:29ダビデ王の業績は、最初から最後まで、予見者サムエルの言行録、預言者ナタンの言行録、先見者ガドの言行録にまさしくしるされている。29:30それには、彼のすべての統治、彼の力、また、彼およびイスラエル、それに各地の諸王国が過ごした時代についてしるされている。
★イスラエルの王となったダビデの生涯最後の記述です。彼のしたことは国を統一し、神の国の拡大の為の神殿建築の備え、そして後継者へのバトンタッチでした。これらのことは先見者ガドの言行録となりましたが、あなたは与えられた人生でどんなことをなすでしょう。神様に覚えられる貢献の価値観に生きることが大切です。

■詩篇95:7主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、95:8メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。
★主の前にふさわしくないことは心を頑なにすること。恵みに心を開くのです。

■2テサロニケ1:8そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。1:9そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。1:10その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の──そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです──感嘆の的となられます。
★「そのとき」とは主が再び来られる「再臨」を意味します。主は来られます。確かに。その時、あなたの全ての労は酬われます。試練の中でのあなたの従順は「再臨」の警鐘として主が用いられます。ヒデ

火曜日, 8月 30, 2011

20110830_1歴代志28_詩篇91_1テサロニケ5

■1歴代28:9わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。28:10今、心に留めなさい。主は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。」
★ソロモンは何と偉大な父ダビデを頂いたことでしょう。しかし私たちのために天のお父様はイエス様をお与え下さいました。このお方の御声に聞き、このお方の生き様に従うなら間違うことはありません。

■詩篇91:14彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。91:15彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。
★ソロモンにも勝る神様からの約束がここに。あなたは愛されています。声に出して告白してみませんか。「主よ感謝します。これらもあなたを愛し、あなたに従います」と。

■1テサロニケ5:9神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
★信仰とは自分の努力にではなく、上の御言葉の様に、救いの計画を定めて下さった神様の真実にかかっています。その救いの中にあなたは定められたのです。恐れることはありません。信頼して踏み出しましょう。ヒデ

月曜日, 8月 29, 2011

20110829_1テサロニケ4

■1テサロ4:14私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。4:15私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。4:16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、4:17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
★かつて御使いは「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒行伝1:11)とイエス様の昇天を見ていた弟子たちに語られましたが、その通りに主は再び来られます。その順番は1.まず主が雲に乗って来られ。2.聖霊の働きによって主にあって既に死んでしまっていた人々の体が主と同じ栄光の体に変えられ。3.今地上で生きている主にある人々の体が聖霊の働きによって同じく主と同じ栄光の体に変えられ。4.これらのことがおこった次の瞬時、私たちは空中におられる主の御もとに引き上げられ、いつまでも主と共に生きることになります。これは作り話ではありません。主が語られた言葉です。そしてこれを可能にするのはあなたの力ではありません。あなたの内におられる聖霊様の力によってです。主は必ずあなたを迎えに来ます。私たちが聖く憐れみ深く生活すくべき最大の理由がここにあります。主は来られます。ヒデ

日曜日, 8月 28, 2011

20110828_1歴代22_1テサロニケ3

■1歴代22:19そこで今、あなたがたは心を尽くし、精神を尽くして、あなたがたの神、主に求めなさい。立ち上がって、神である主の聖所を建て上げ、主の御名のために建てられた宮に、主の契約の箱と神の聖なる器具を運び入れなさい。」
★イスラエルを統一するに至るまでに自らを省みて下さった主の恵みに応えて、ダビデは神殿建設のための備えを滞りなく行います。そして上記の御言葉を民への励ましとして語ります。これが旧約の神の民に課せられた使命です。では新約の祭司として召されたお互いの使命はなんでしょう。目に見える神殿ではなく、心の内にキリストを主とあがめ迎え入れることです。主の弟子ペテロは「ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。」と励まします。

■1テサロ3:7このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。3:8あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。
★テサロニケの人たちの中にも、まもなくキリストは再臨するのだから働く必要はないと考える人々や、あるいは、すでに死んだ者はキリストの再臨にあずかれないのだからと考え、悲しみの中、自暴自棄になる人々もありました。そんな中、パウロは上の御言葉を送って主の民を励ましたのです。確かに、信仰の故の試練、孤独な戦いもあるでしょう。しかし、あなたがたの心を強め、ご自分がすべての聖徒とともに再び来られるとき、父なる神の御前で、あなたを聖く、責められるところのない者としてくださるお方は、やがてパウロ同様「我がいきがい、誇りよ」とあなたに必ず語って下さいます。ヒデ

土曜日, 8月 27, 2011

20110827_詩篇30_1テサロニケ2

■詩篇30:10聞いてください。主よ。私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください。30:11あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。30:12私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。
★「聞いて下さい。主よ。」と、ダビデはまるで幼子が父親の関心を引くために揺り動かしながら語りかけるように主に語ります。しかもそれは神様に感謝を伝えるためです。ダビデの神様との心の距離を感じ取りましょう。「心がつながっている」との実感。ここに安心感があり喜びがあり、生きている感謝がわいて来ます。あなたはつながるべき人と心をつなげるために心を砕いていますか。

■1テサロニケ2:19私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。2:20あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。
★上の様に語るパウロはテサロニケの人たちに対して、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまい、ただ神様の福音を語るだけではなく、彼自身のいのちまでも、喜んで与えたいと願いつつ接しました。人が人として成熟するために最も効果的な方法は、人の成長に関わることです。それは親が親になるために最も効果的な方法が理屈をこえて、実際に子供をもうけ、その子供の成長にかかわることによって与えられると同様に。知識は人を成熟へと動機付けできても、実際にその人を成熟へと引き上げることができるのは関わること以外にありません。とにかく関わるべき人に、関わりましょう。あなたもパウロのような親の心を持つ人になれます。ヒデ

金曜日, 8月 26, 2011

20110826_2サムエル22_1テサロニケ1

■Ⅱサム22:7私は苦しみの中に主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは、御耳に届いた。22:8すると、地はゆるぎ、動いた。また、天の基も震え、揺れた。主がお怒りになったのだ。22:9煙は鼻から立ち上り、その口から出る火はむさぼり食い、炭火は主から燃え上がった。22:10主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして。22:11主は、ケルブに乗って飛び、風の翼の上に現れた。
★上の歌はサウル王の手から救い出されたダビデが歌った主への感謝で、主はダビデの叫びに応えて、ご自身、天を押し曲げて下り、ダビデを助け出して下さいました。同じ主は次回、あなたを救い出すために、まさにこの言葉の通り、天を押し曲げ、暗闇をその足の下にして来られます。このお方にお会いする備えが必要です。

■1テサロニケ1:1パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。1:2私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、1:3絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。
★パウロはテサロニケの人々の素晴らしい信仰に驚きを隠しません。何がそうさせたのか。その秘訣はテサロニケの人々が主の再臨のメッセージを差し引くことなく受け止めたところにあると言えます。あなたは救い主キリストが再び来られるその時、どんな形でこられるかご存じですか。関心があれば是非テサロニケの手紙を完読して下さい。真理はあなたを自由にし、何のために生かされている命かを明確にし、あなたの命を強めます。ヒデ

木曜日, 8月 25, 2011

20110825_詩篇55_マタイ28

■詩篇55:22あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
★主にゆだねるべきものとして、ここでは「重荷」ですが、詩篇37:5には「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」と、「道」も委ねるべきものとして紹介します。ゆだねるの反対は握りしめるで、神様がお互いの人生、考え、計画に介入されることを許さない生き方です。意外と人は神様を信じていても、これだけは自分の思いや考え通りを何としても明け渡したくないと言うことがあるものです。決して多くはありません。一つです。そしてそれが結果的に人生を重くする場合があります。主はそれをゆだねよと語られます。あなたはどうですか。

■マタイ28:18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。28:19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、28:20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
★全ての権威を与えられたお方の「世の終わりまでともにいます」は有名ですが、ではそのお方が一番近くいて下さる時とはどんな時でしょう。あなたが主の御心・宣教に、一歩踏み出すときです。このことのために、先日のお勧め通り、既に神殿の隔ての幕は裂けたのです。出て行きましょう。遣わされた祝福の祭司として、そこで主はあなたを用い、御業をあらわされます。ヒデ

水曜日, 8月 24, 2011

20110824_詩篇56_マタイ27

■詩篇56:12神よ。あなたへの誓いは、私の上にあります。私は、感謝のいけにえを、あなたにささげます。56:13あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいました。それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。
★やがてイスラエルを治める王となるダビデ。しかし妬みに駆られるサウル王に追われて敵国ガテの王アキシュのもとにさえ気が違った者として逃れなければならないとは。けれどダビデはそれさえも「それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした」と、恵みによって自分のうちに受け止め王としての備えに変えます。あなたはあれが足りない、このためにだめだと不平をもらす人ですか。それとも感謝によってあなたの生涯に起こることどもを恵みに変える人ですか。

■マタイ27:51すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
★「血を流すことなしに罪の赦しはあり得ない」の律法の成就のために、ご自身の命を懸けた主の十字架上の執り成しによって、遂に神殿の隔ての幕が人手によらず取り除かれます。神の臨在を象徴する至聖所はどこに行ったのでしょう。旧約時代イスラエルの民はまさにそれを中心に生活し、そこに祝福があるから「来なさい。なぜならここに主の臨在と祝福があるから」のメッセージに歩んでいました。ではキリストの贖いが完成した今は、あなたが至聖所、すなわち主の教会です。だから主の臨在を持ち運ぶ祭司として「行って」なのです。地の塩、世の光として今日も主の教会として、主と共に、置かれたところに主の臨在をもたらすために遣わされましょう。ヒデ

火曜日, 8月 23, 2011

20110823_詩篇71_マタイ26

■詩篇71:15私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。私は、その全部を知ってはおりませんが。71:16神なる主よ。私は、あなたの大能のわざを携えて行き、あなたの義を、ただあなただけを心に留めましょう。
★試練の中に置かれたダビデ、しかし「私は、その全部を知りませんが……」との神様の恵みに対する謙虚な姿勢は彼の生涯を守ります。時に全部知らなければ満足しない誘惑に駆られ、自分を神にしようとしている危険にさらされているにもかかわらず、それに気づかず、その人生を台無しにする人もあります。この朝も神様は高ぶる者を退け、遜るものに恵みを給うお方であることを心に刻みましょう。

■マタイ26:63しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」26:64イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」
★弟子たちとの最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で祈りをささげられるイエス様でしたがユダの裏切りによって捕らえられ、大祭司の中庭にまで引っ張り出されました。そこで上の質問を受けたのです。「あなたの言うとおりである。……」と、その答えの明確さに驚きますが、キリストが神ご自身でなければ、まさに世を惑わす者、自らを神とする者以外のなにものでもありません。しかし主は本当に神様ご自身なるお方なのです。このお方が再び来られます。そして全てのことを正しく裁かれます。このお方に会う備えをしましょう。ヒデ

月曜日, 8月 22, 2011

20110822_詩篇32_マタイ25

■詩篇32:1幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。……32:3私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。32:4それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。32:5私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。
★上の詩篇はダビデが兵士ナタンの殺害とその妻バテシェバを辱めた罪の指摘を預言者ナタンに受けたときの経験です。神様はあなたの罪を指摘されます。しかしそれはあなたを奴隷にするためにではありません。またあなたを陥れるためでもありません。むしろ解放するためです。

■マタイ25:40すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』……25:45すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』25:46 こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」
★王が来られます。その王とはあなたのために十字架に掛かり血潮を流し完全な罪の赦しを完成された主イエス・キリストです。2000年前には救い主として来られました。しかし今度来られるときには裁き主として来られます。このお方、すなわち神様に会う備えをしなければなりません。そしてあなたは愛と貢献の人生の価値観に生きるゆえに、このお方から『最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』との御声を聞くのです。ヒデ

日曜日, 8月 21, 2011

20110821_マタイ24

■マタイ24:44だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。24:45主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。24:46主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。24:47まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。24:48ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい』と心の中で思い、24:49その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、24:50そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。24:51そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
★このメール配信を受けて下さっているあなたはクリスチャンでしょうか。それともまだ何かの事情のゆえに、自らの意志をもってキリストを信じる信仰を告白することを控えていらっしゃる方でしょうか。いずれにしても知って頂きたいことは、この天地は永遠にこのままの状況が続くのではないということです。そのことをキリストは「天地は滅びます。しかし私の言葉は滅びることがありません」と表現なさいました。すなわち終末と呼ばれる状況は必ずおとずれ、その時、私たちの永遠が明らかになるのです。ではいかに分けられるのでしょう、その基準は?偶然で何の理由付けもできないそれでしょうか。それとも、主人の言葉を重んじ、それに従順する姿勢が評価されるそれでしょうか。もちろん後者です。終わりがきます。必ず来ます。この終末の審判にも耐えれる唯一の避け所はキリストの十字架のみ元です。主に信頼し主の中に駆け込みましょう。ヒデ

土曜日, 8月 20, 2011

20110820_詩篇51_マタイ23

■詩篇51:10神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。51:11私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。51:12あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。51:13私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
★王ダビデもゆとりの中で過ちを。国のために命懸けで戦うウリヤの妻バテシェバを辱め身ごもらせたのです。その罪をもみ消しバテシェバを妻として迎えますが、そのことを預言者ナタンに指摘されたとき、彼は悔い改め主の前に赦しを乞い上の詩を歌います。今日、主の御声を聞いたなら、心を頑なにしてはなりません。神様は悔いし砕けた魂をさげすまれないお方です。

■マタイ23:29わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、23:30『私たちが、父祖たちの時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。23:31こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。23:32おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。
★主が十字架を前に律法学者パリサイ人を痛烈に批判した章です。しかし主の目には涙が。その動機は何とか彼らが悔い改めへと導かれて欲しいとのそれでした。上の御言葉はその中でもとりわけ、自分のことは棚の上に上げて、人の粗をあげつらう生き方への批判です。自分たちも同じ罪を犯しているのに全くそのことには気づいていません。愛は欠けを覆おうとしますが、罪の性質はあげつらおうとさせます。ダビデの砕かれた魂にならいましょう。ヒデ

金曜日, 8月 19, 2011

20110819_詩篇20_マタイ22

■詩篇20:7ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。20:8彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。
★主は信じる者に力を注ぎ愛を注ぎ励ましを与えて立ち上がらせて下さるお方。ローマ14:4では「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」と語ります。私たちが誇るべきは主。主を誇りましょう。

■マタイ22:37そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』22:38これがたいせつな第一の戒めです。22:39『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。22:40律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
★上の御言葉は律法の専門家がイエス様を試して質問をしたときに、イエス様が答えられた内容です。もしあなたが聖書に人生の指針を求めるなら「神様を愛することと自分を愛するように隣人を愛すること」これ以外にないとイエス様は語られたのです。あなたの人生の目標は何ですか。そこには「愛」の文字が入っていますか。もし入っていなければあなたの人生は的外れな人生で、神様によって造られた人としての人生の目的を果たすことも出来ませんし、神様からの賞与を頂くことも出来ません。主は「最も小さい者の一人にしたのは、すなわち私にしたのです。」語られます。効率、生産性、名誉、成功を脇に置き愛の実践を目標に据えましょう。そこに揺るぎない人生が主によって建て上げられて行きます。ヒデ

木曜日, 8月 18, 2011

20110818_マタイ21

■マタイ21:2言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。21:3もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」
★いよいよ十字架を前にした主のエルサレム入場です。弟子たちは主が語られたとおりロバの子を捜しに行きますが、その主人は主が命じられたとおりにそれを渡します。救い主イエス・キリストとは、肝心なとき、戦車や馬に乗り、力ある王として自らを示すよりも、ロバに乗って、しかもまだ一度も荷を負わせたことがないようなロバの子に乗ってエルサレムに入場されることを選ばれるお方です。私たちお互いをロバの子にたとえるなら、あるいはロバの子の主人にたとえるなら、「主がお入り用なのです」との御声が掛かったとき、どのような応答をするでしょう。様々な理由を付けて、相応しくないと主の命を退けることは、いとも簡単なことかも知れません。しかし2000年前、このロバの子の主人はそれを許し、ロバの子がその使命を担いきったことによって、主の栄光は現され、全地に祝福が及ぶこととなりました。あなたは自分に御声が掛かったとき、それをゆるす、主への愛と信仰、従順がありますか。ヒデ

水曜日, 8月 17, 2011

20110817_1歴代17_詩篇2_マタイ20

■1歴代17:20主よ。私たちの耳に入るすべてについて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はありません。
★主の恵みによってダビデがイスラエルを統一した時、彼は「この私が杉材の家に住んでいるのに、主の契約の箱は天幕の下にあります。」と神殿建築の願いを申し出ます。その時主はダビデの愛する息子ソロモンにそれをゆるし、ダビデの家系が永遠に途絶えることのないことを約束下さいました。上の御言葉はその時のダビデの感謝の言葉です。主は祝福を30倍、60倍、100倍、あるいは1000倍に計り返して下さるお方です。

■詩篇2:8わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
★1歴代で、その家系を永遠に祝福するとダビデに語られた約束の原則を、この所は再度確認できる箇所です。その原則は「主に求めれば……」です。あなたは誰に、何を求めますか。

■マタイ20:27あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。20:28人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
★他の弟子たちを差し置いて、自分たちだけ抜け駆けして右大臣、左大臣の立場を願った主の弟子ヤコブとヨハネに対し、主は上の言葉で諭します。見落としてはならないポイントは右大臣、左大臣を願うこと自体を主は否定なさいません。むしろそれに相応しい心と生き方を身に付けよと語られます。何の為に願うのか、ここでも貢献の価値観の大切さを思います。ヒデ

火曜日, 8月 16, 2011

20110816_詩篇106_マタイ19

■詩篇106:1ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。106:2だれが主の大能のわざを語り、そのすべての誉れをふれ知らせることができよう。
★この章はいかにイスラエルがその歴史において罪深いものかが鮮やかに紹介され、合わせて神様がそんなイスラエルに、更なる憐れみ深さをもって接して下さるお方であるかが記されます。紅海を渡るときの不信仰。モーセがシナイ山に登ったとき、金の子牛を造ったそれ。肉がない。水がない。あげくの果てに彼らは約束の地において偶像礼拝者に。にもかかわらずそんな民を神様は救われました。ゆえにこの詩篇作者は「ハレルヤ。……」と、民の心を憐れみ深い神様へと導きました。主にハレルヤ!

■マタイ19:20この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」19:21イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
★永遠の命を求めて近づいた金持ちの青年に主は上記の様に語られました。自分と神様との関係において、律法を余すところなく行おうとすることは尊いことです。しかし主はそれ以上に、この青年が関係の中に生きることを願われました。何を知っているか、神様のために何をしているか、よりも主の愛を知った者として、どんな人として、人と関わり生きようとしているか。主はそこに関心を持ち光を当てられました。聖書の中心が、神様を愛し、自分を愛するように隣人を愛することであることをもう一度覚えましょう。ヒデ

月曜日, 8月 15, 2011

20110815_詩篇132_マタイ18

■詩篇132:13主はシオンを選び、それをご自分の住みかとして望まれた。132:14「これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。
★それは主ご自身が望まれ決められたこと。では「これ」とはどこでしょう。あなたの心と生涯です。それ以外のなにものでもありません。

■マタイ18:15また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。18:16もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
★福音とは、愛とは、聞き、受けとるべきものですが、それだけではないことをここから教えられます。福音は、愛は、受け取ると同時に生きるもの。だから一人ではとてもではありませんが勇気が湧いてきません。けれどもすぐこの後、主は仰って下さいました。「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」と。愛を生きる教会としての人生を選び取りましょう。あなたこそが「教会」であり、希望です。ヒデ

日曜日, 8月 14, 2011

20110814_詩篇68_マタイ17

■詩篇68:4神に向かって歌い、御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。
★聖書は聖霊の助けによって、著者に霊感が与えられて記された書と言われるゆえんがここで垣間見れます。「雲に乗って来られる方」とはキリストの再臨時に起る事ですが、そんな事を全く知らないダビデが何故にこうした詩を、キリストが誕生される1000年も前に預言できたのでしょうか。まさに神様に示されてと言う以外にありません。やがて雲に乗って来られるお方は、今この時「みなしごの父でありやもめのさばき人。また日々、私たちのために、重荷をになわれる主」です。

■マタイ17:1それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。17:2そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。17:3しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。
★この時ペテロは何を言ったらよいか分からずの「私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」と、わけの分からないことを語ったと聖書は記します。何を言っていいか全く分からない程、それほど驚くべき光景をペテロが見たからです。そして彼らが話し合っていたこととは、キリストに託された十字架による贖いについてで、これそこが神様の歴史の焦点、旧約を成就し、新しい恵みの世界を開く扉でした。キリストは十字架で私たちの罪を背負い、神様の怒りを一身に受けられ、今や救いは成就しました。感謝しましょう。受け取りましょう。そして蘇られたキリストと共に、無意味ではない人生を力強く生きましょう。ヒデ

土曜日, 8月 13, 2011

20110813_詩篇139_マタイ16

■詩篇139:23神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。139:24私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
★神様との交わりを待ち望むディボーションの心の備えのために、この詩はまさにふさわしい祈りです。私たちの心は思い煩いやすく、傷つきやすく、そして迷いやすいのです。だからこそ、それらを癒し、希望の心に変える主の愛が必要です。また行くべき道がどこなのかを指し示す神の言葉が必要です。主は言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ5:3)と。あなたは、自分の弱さ、貧しさをありのまま認め、それを主の前に注ぎ出す砕かれた心の備えがありますか。

■マタイ16:16シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」……16:18ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
★ペテロの「あなたこそ……」との告白を聞かれた主は「たとえ死の力でも討ち滅ぼすことのできない、わたしは教会を建てる」と語られました。「教会」とは何でしょう。決して目に見える建物、すなわち「会堂」ではありません。イエス様を「主」と告白するあなた自身が「教会」です。だからあなたが世の光であり、あなたこそが世界の希望です。主はあなたを喜び、誇りに思い自分の者として導いて下さいます。ゆえにその人生を導き完成して下さるのは誰でしょう。主です。だから思い煩い恐れる必要はありません。どんな時にもイエス様を主と告白し続けましょう。
★9-12日、ご奉仕させて頂いたティーンズキャンプの会場、少年自然の家にインターネットの環境がなく配信できませんでした。ごめんなさい。またお祈りを感謝します。ヒデ

火曜日, 8月 09, 2011

20110809_1歴代10_マタイ12

■1歴代志10:13このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、10:14主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。
★イスラエルの初代王となったサウルの生涯の最後の記述です。神様の恵みによって召し出され王となったサウル。しかし彼の生涯は時間の経過と共に主に仕えるそれではなく、神様の前にさえ自らを王とし神とし、我が心に仕えるそれとなりました。与えられた権力は何の為かがぼけたのです。幾度となく神様は彼にチャンスを与え、語りかけを与えましたが、遜り砕かれる生き方を選択しませんでした。さらに彼の特徴はどんな中にも自分の面目を人前で保ちたいとのそれで、ますます悔い改めを困難にし、この生涯の最後となりました。「ごめんなさい」の重みを思います。

■マタイ12:48しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」12:49それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。12:50天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
★イエス様は母マリヤと実の兄弟を否定されたのではありません。それ以上に神様の主権がこの地上においてもなされて行くようにと、それを願いそこに生きようとする一人一人を喜ばれ上記の様に表現されたのです。主は人の足らない部分をあげつらい、その人の可能性を摘み取るお方ではなく、内にある一つの良き志を尊びその人を励まして下さるお方です。あなたはどうですか。ヒデ

月曜日, 8月 08, 2011

20110808_詩篇109_マタイ11

■詩篇109:30私は、この口をもって、大いに主に感謝します。私は多くの人々の真ん中で、賛美します。109:31主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。
★ダビデが主に感謝し、主を褒め称える理由をあげています。主は憐れみなく死刑の宣告をされる者のかたわらに立ち、救い出して下さるお方ゆえ。しかもこれは地上の生涯ばかりではありません。人は一度死ぬことと、死んだ後神様の裁きの座に立つことが決まっていますが、そこであなたを永遠の滅びに定めようとするサタンはあなたを訴えます。しかしイエス様はその訴えに対して「父なる神様、しかし彼は私を信じたのです。そして私は彼の罪のためにも十字架で罪の代価を支払ったのです。ですから彼は天国に入る権利があります」と語って下さいます。そしてあなたは永遠の滅びではなく天国に入ります。

■マタイ11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。11:29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
★どうすれば本当の安息が与えられるのか、ある人たちは誤解しているかも知れません。安息はただ何もしないで休むことによって与えられるものではありません。あなたのことをあなた以上に知っていて下さるお方の語りかけに聞き、負わせて下さる導きを受け取り、そこに生きるときに与えられるもの。主が負わせて下さるくびきは、あなたの命を引き出し、祝福された関係の中であなたが居場所を見いだせるように助けるものです。さあ主のもとに行きましょう。ヒデ

日曜日, 8月 07, 2011

20110807_詩篇141_マタイ10

■詩篇141:1主よ。私はあなたを呼び求めます。私のところに急いでください。私があなたに呼ばわるとき、私の声を聞いてください。141:2私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。
★主の弟子パウロは愛弟子テモテに「『人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。」ということばは真実です」と書き送り、主も弟子たちが右大臣左大臣の席をかつて競い合ったとき「だめだ」ではなく、偉くなりたいなら仕える人になりなさいと語られました。ダビデも王とならなかったならば上の御言葉ほどに心を注ぎ出す必要は無かったのかも知れません。世的名誉のために立場に憧れる人は多くいるかも知れません。しかしダビデの様に与えられた権威の意味を理解し、仕えるために心を注ぎ出すものでありたい者です。

■マタイ10:29二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。10:30また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。10:31だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。10:32ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
★人の永遠を最終的に決定づける最後の審判。その基準が何かがここには明確です。キリストを認めるか、否か。主とはあなたの全てを知り、あなたに価値を抱かれるお方。そのために十字架の上で罪の代価として、ご自身の命を惜しげもなく注ぎ出されました。信じましょう。感謝しましょう。そして告白しましょう。その時あなたの名は天国のいのちの書に書き記されます。ヒデ

土曜日, 8月 06, 2011

20110806_詩篇63_マタイ9

■詩篇63:3あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。63:4それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。
★ダビデがサウル王を避けてユダの荒野にいた時に読んだ詩です。人の生涯において最も幸せな人とは誰でしょう。自分の命を捨てても惜しくない価値あるものを発見し、それに仕えることのできる人ではないでしょうか。ダビデはそれを発見しました。主です。だからどんな時にも希望を失うことなく試練の中にあっても、このお方の前に心を注ぎ出し、生きることができました。

■マタイ9:17また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」
★何のための新しい皮袋でしょう。ぶどう酒を保つため。ぶどう酒のいのちを保つためです。イエス様がもたらした明確な価値観の一つに、「全てに勝って優先されるものは命」をあげることができます。しかし自分たちの地位の確保を優先に考えた律法学者たちは「なぜ安息日に人を癒すのか」と、人間がつくった言い伝えによって人を縛ろうとします。そもそもルールとはある条件のもと、命が最大限守られるために設けられるべきもので最初にルールありきではないはずです。しかし悲しいかな、多くの場合、機能していないにもかかわらず既にあるルールに人を合わせようとすることが。そのいのちが解き放たれ、最大限輝けるように執り成すのも、新約の祭司として召されたお互いの大切な働きです。ヒデ

金曜日, 8月 05, 2011

20110805_詩篇57_マタイ8

■詩篇57:7神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。57:8私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。
★闇の世界に暁、しののめ、あけぼのを呼び覚ましたいとのこのダビデの決心はイスラエルに新しい価値観をもたらしたいとの思いが込められたものでした。しかも彼がこの詩を読んだ背景は、狙うサウル王を避けて洞穴に隠れていたとき、まさにサウルがそこに入って来たとき。いわば、神様がダビデにサウルの命を「さあどうにでも好きなようにしなさい」と預けた時でした。ダビデの従者は「今です」と語ります。しかしダビデは「神様が油注がれた者を犯してはならない。裁きは神様に委ねるべき」でした。その結果ダビデの時代、王国は統一され平和が訪れました。新しい時代の幕開けです。

■マタイ8:2すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」8:3イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。
★今日のディボーションテーマは「新しい時代の幕開け」でしょうか。山上の説教が終わったとき、一人の人物が切実かつ強い願いをもって主に近づきました。主は彼の願いを聞いて手を差し伸べられます。旧約の律法に従うなら、触れる側の者が汚れるから触れてはならないとされる「ツァラアト」でした。しかし主が手を伸べられた時癒されたのです。なぜでしょう。主の中には形式ではない、いのちが満ちあふれていたからです。それが新約の祭司とされた者の生き方です。与えられた永遠の命は守るためではなく仕えるため。その時、命はますますみなぎり30倍60倍100倍の実を結びます。ヒデ

木曜日, 8月 04, 2011

20110804_詩篇31_マタイ7

■詩篇31:4私をねらってひそかに張られた網から、私を引き出してください。あなたは私の力ですから。31:5私の霊を御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。
★続いて命を狙うサウル王から受ける苦しみの中で読んだダビデの詩です。しかし「私の霊を御手にゆだねます」は、主が十字架の上で最後に語られた言葉でもあります。すなわち聖書は神様の霊感によって書かれた神様の言葉であり、預言の言葉でもあります。それは私たちの生涯においても時にそうした状況に置かれる場合があることと、その時聖書は生きた神様の言葉となって私たちを強めることができるという保証です。人が受けるであろう辛苦をその生涯においてなめられたお方がおられます。あなたは一人ではありません。

■マタイ7:24だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。……7:26また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。7:27雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
★主が山上の説教の結論として語られた内容ですが、人々から最も誤解されて受け取られている聖書の箇所でもあります。問題は神の言葉を人生の土台とするか、しないかではなく、聞いた神の言葉に生きようとするか、しないかです。それによって神様を生けるお方として体験できるか、できないかが分けられ、生涯は全く違ったものとなるのです。神の言葉に生きようとするあなたを助けようと待って下さっている聖霊様があなたの内におられます。ヒデ

水曜日, 8月 03, 2011

20110803_詩篇17_マタイ6

■詩篇17:1主よ。聞いてください、正しい訴えを。耳に留めてください、私の叫びを。耳に入れてください、欺きのくちびるからでない私の祈りを。17:2私のためのさばきが御前から出て、公正に御目が注がれますように。
★命を狙うサウル王が、自分が潜んでいる洞窟に入って来ても殺さなかったダビデの価値観を見て取れる詩篇です。「どんな暴君であろうと神様が油注がれている者の命にどうして触れることができようか。そして報復は自分のすることではなく。神様がなさること」。その結果が上の祈りとなりました。ここからあくまで神様に委ねるべきものは何かを学びましょう。合わせて心を神様の前に注ぎ出すことをも。

■マタイ6:33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。6:34だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
★すべて添えて与えられる人生があります。その生き方とは日々、自分が負うべき仕事、果たすべき責任を神様に聞き、それを行動に移す生き方です。神様のお考えがどこにあるかを知るためには、日ごとに御言葉に耳を傾け、それを受け取る必要があるでしょう。また示される神様のお考えは多くの場合、自分の力だけではなし得ないもの。ゆえに「神様助けて下さい。力を与えてください。あわれんで下さい」との祈りが生まれます。その時主は、人にはなし得ないことを、あなたに成し遂げさせて下さって、ご自身の栄光を現わして下さると共に、驚くばかりの祝福をあなた注いで下さいます。その中にきっと全ての必要は恵みとして添えられているはずです。さあ恵みを刈り取る良き種まきをはじめましょう。ヒデ

火曜日, 8月 02, 2011

20110802_詩篇34_マタイ5

■詩篇34:18主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。34:19正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。34:20主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。
★依然サウル王のダビデに対する妬みと殺意は続きます。その中でダビデはイスラエルに居場所を失い、気が違った者として、あえて隣国である敵の手に陥ることさえしなければならない状況でした。何という屈辱。しかしダビデの主への確信が上の詩篇には描かれます。神を畏れる者の人生は、恵みを受けると共に、神の国の拡大のために召し出された改革者のそれです。よって悪しき霊と力があなたを倒そうとして近づくのも事実です。その中で「御心が天になるごとく、地にもこの私を通してなさせ給え」と祈るものは幸いです。主がその人を守られます。

■マタイ5:14あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。……5:17わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
★主が十字架上で「全てが完成した」と息を引き取られたとき聖所と至聖所を隔てる幕が人手によらず裂け、地上から至聖所が消え去りました。しかしそれは神様の臨在が至聖所にではなく、信じる者の心に宿るように変えられた律法成就の瞬間です。あなたはもはや主の臨在をもたらす祭司。祝福の祭司であり至聖所です。主はあなたが手を伸ばし、心を砕き、人々を祝福し癒すことを願っています。「あなたがたは世界の光です」とはその意味です。主が遣わして下さった所で主を見あげましょう。そして輝きましょう。祭司として。ヒデ

月曜日, 8月 01, 2011

20110801_詩篇59_マタイ4

■詩篇59:1わが神。私を敵から救い出してください。私に立ち向かう者が届かぬほど、私を高く上げてください。59:2不法を行う者どもから、私を救い出してください。血を流す者どもから、私を救ってください。59:3今や、彼らは私のいのちを取ろうと、待ち伏せています。力ある者どもが、私に襲いかかろうとしています。主よ。それは私のそむきの罪のためでもなく、私の罪のためでもありません。
★イスラエルに大いなる勝利をもたらしたダビデ。それを喜ぶ民衆。その時王サウルの中にはゴリアテを倒したダビデに対する妬みと殺意が渦巻きます。そして実際に命を狙われるその苦しみの中で、ダビデは上の詩を神様にささげます。あなたにも本当の苦しみを隠すことなく訴えることのできるお方がいらっしゃいます。神様はあなたの避け所です。

■マタイ4:5すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、4:6言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
★イエス様を公生涯前に倒そうとするサタンの誘惑の場面です。人は誰でも本物になろうと、それを求めるものは試されるもの。あなたは今誰かから試されていますか。踏ん張り所です。しかし唯一イエス様がどんな場面でもなさらなかったこと。それは「自分が愛されていることを証明するための良き行い」です。そう、主は既に愛されている者として常に行動したのです。あなたも「自分の良き行いによって主の愛を確かめよ」という言う誘惑に耳を貸してはなりません。主はあなたを既に主の誇りの息子、娘とされました。奴隷の霊に生きるようにとだまされてはなりません。ヒデ