水曜日, 4月 30, 2014

20140430_創世記29 マタイ5@27-48

■創世記29:13ラバンは、妹の子ヤコブのことを聞くとすぐ、彼を迎えに走って行き、彼を抱いて、口づけした。そして彼を自分の家に連れて来た。ヤコブはラバンに、事の次第のすべてを話した。29:14ラバンは彼に、「あなたはほんとうに私の骨肉です」と言った。こうしてヤコブは彼のところに一か月滞在した。
★伯父ラバンのもとに無事にたどり着いたヤコブ。ヤコブはラバンに事の次第のすべてを話しますが、決してそれで同情を得たわけではありません。ヤコブの生き方から必然と思えるような刈り取りがここから始まります。さあ押しのけるものヤコブが神の皇太子イスラエルに変えられるまでの物語のスタートです。

■マタイ5:36あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。
5:37だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。
★人は誓いを通して真実を強調しようとします。しかし主は常に真実を生きているなら、ことさらに誓いをする必要性のないことをここで表現されます。闇雲に誓わなければ信用を得られない生き方があるなら、その人は問われなければなりません。普段から主の恵みによって『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とする人生を生きましょう。それが魂にとって最も安全な生き方です。

火曜日, 4月 29, 2014

20140429_創世記28 マタイ5@1-26

■創世記28:15見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
★兄エソウの怒りを避けて母リベカの兄である伯父ラバンのもとに身を寄せようとするヤコブ。その旅の途中で見た夢が上の出来事です。彼は後に名を「イスラエル(神の皇太子)にせよ」と主から語られますが、ここに一方的な選びの恵みが描かれています。「あなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたを捨てない」と。あなたも主イエス・キリストの恵みによって同じ恵みに招き入れられました。

■マタイ5:14あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
★イエス様は「あなたは世界の光となりなさい」とは語られていません。「すでに世界の光となっているのです。ゆえに隠れることはできないのです。」と語られました。ここに託されている使命と恵みが鮮やかです。主の者とされた者にふさわしい生き方は、その主の愛に何とか応答しようと一歩踏み出そうとする生き方です。なぜか与えられた賜物を卑下し一歩退き隠れようとする生き方はふさわしくありません。

月曜日, 4月 28, 2014

20140428_創世記27 マタイ4

■創世記27:41エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」
★イサクの息子エソウとヤコブの問題ですが、単にこの兄弟の問題ではありません。実にイサクとレア夫婦の問題でもありました。父イサクは柔和で平和を求める人でしたが、家庭を治めることにおいては十分な責任を果たしていたとは言えません。その結果、相続において息子たちが争い合う火種を残したのです。ここに至るまでにまず夫婦が一致して主の助けを祈ることができていたなら。そして教えられることはもうこれ以上成長する必要はないというほどに成熟した人はいないということです。遜って神様の恵みを慕いましょう。

■マタイ4:10イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
★人を罪に陥れようと常に狙っているサタンは実に巧妙です。起こって来る様々な出来事や環境の変化の中で、何とか姿形を変えて人を狙ってきます。主ではなく自らの腹に、欲に、力に頼ませようとする内なる誘惑においてもイエス様同様見抜き、それを退けることのできるお互いでありますように。いってらっしゃい。

日曜日, 4月 27, 2014

20140427_創世記26 マタイ3

■創世記26:22イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、【主】は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」
★イサクの柔和さがよくあらわされている箇所です。この直前彼は井戸を掘りますが、その土地の羊飼いたちに「この井戸は私たちのものだ」と訴えられ、そんなことを2度も強いられ、これが3度目だったのです。イサクは当然の権利を主張し戦うこともできたでしょうし、決して力がないわけではありません。イエス・キリストは山上の説教の中で「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。」と語られました。あなたならどんな道を選択しますか。

■マタイ3:15ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
★イエス・キリストがバプテスマのヨハネから洗礼を受ける箇所です。不思議ですね。創世記26章のイサクに共通する部分があります。それは柔和と謙遜です。ここに来て柔和と謙遜とは真に力と権威に満ちていてこそ生きれることを教えられます。ヨーロッパには「臆病な犬ほどよく吠える。浅い川ほど音を立てる」ということわざがあるそうです。今週も父から遣わされた確信の中に歩みましょう。いってらっしゃい。

土曜日, 4月 26, 2014

20140426_創世記25 マタイ2

■創世記25:32エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と言った。
★イサクに与えられた二人の息子エソウとヤコブの物語です。長子の権利など何になろうとは、神様の祝福など今の私に何になろう、と同じ意味です。いかに神様の祝福が尊いことか、あまりにも愚かな発言です。

■マタイ2:2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
★異邦人の唇さえ用いて神様がチャレンジなさることは「あなたの王としてお生まれになった方はどこにおられますか」です。そのお方は私の生涯と心の王座に座しておられますと言える人の何と幸いなことでしょう。そこに人生の調和が生まれます。いってらっしゃい。

金曜日, 4月 25, 2014

20140425_創世記24@33-67 マタイ1

■創世記24:43ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。おとめが水を汲みに出て来たなら、私は、あなたの水がめから少し水を飲ませてください、と言います。24:44その人が私に、「どうぞお飲みください。私はあなたのらくだにも水を汲んであげましょう」と言ったなら、その人こそ、【主】が私の主人の息子のために定められた妻でありますように。』
★イサクの花嫁さがしを依頼された、アブラハムの最年長のしもべは何をイサクの花嫁にふさわしいこととしたのでしょうか。単なる愛ではなく溢れる愛でした。また最年長のしもべが「私が遅れないようにしてください。【主】が私の旅を成功させてくださったのですから。」と言った時、迷わず「はい。まいります」と答えます。この溢れると愛と決断力はまさに主を畏れるゆえの上から注がれる賜物でした。それがリベカを飾る最高の飾りです。

■マタイ1:20彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。1:21マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
★イエスとは「主は救い」という意味です。あなたはこのお方をその様に認め受け入れるとき、罪の赦しと永遠のいのちにあずかれます。そのためにマタイの福音書は書かれました。さあ始めましょう。ちなみにヨセフはこのお方に2000年前「イエス」と名付けました。

木曜日, 4月 24, 2014

20140424_創世記24@1-32 マルコ16

■創世記24:14私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」
★上のことばはアブラハムからイサクの花嫁さがしを依頼された、アブラハムの全財産の管理を託された、最年長のしもべの言葉です。このしもべの告白によって、アブラハムが神様の前に成功した人生を歩んでいることを知ることができます。しもべに愛され尊ばれているアブラハム。それは父なる神様の愛がアブラハムを通して流れているからです。イエス様は放蕩息子のたとえを通して「父のところにはパンの有り余っている雇い人が大勢いる」と語らせましたが、まさにそのごとくです。あなたの人生においても、最高の財産はものではなく人であることを心に刻みましょう。

■マルコ16:6青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
★日本における代表的な伝道者羽鳥明先生が「多くの人は、聖書はこんなことを言うから信じられないと言います。神が死人も生き返らせることができず、よみがえることもできないなら信じましょう、とでも言うのでしょうか。」と表現されておられたことを知りました。主はよみがえられたのです。

水曜日, 4月 23, 2014

20140423_創世記23 マルコ15@21-47

■創世記23:13その土地の人々の聞いているところで、エフロンに告げて言った。「もしあなたが許してくださるなら、私の言うことを聞き入れてください。私は畑地の代価をお払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば、死んだ者をそこに葬ることができます。」
★妻サラの亡骸を葬るための交渉です。エフロンは遠慮無くアブラハムの気に入ったところを使って下さいと語りましたが、あえてアブラハムは代価を払いたいと、その土地のみなの前で語ります。結果、乱暴と思えるほどに高い額の提示でしたが、エフロンの申し出の通りの額で土地を買い取り、サラの亡骸を葬ります。アブラハムが見ていたのは一時的な損得ではなく永遠でした。どこをゴールに見るかで、その人の生き方は変わります。さてあなたのゴールは。

■マルコ15:34そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
★十字架上で4番目として主が語られた言葉で、キリストの贖いの完成の根拠となる聖書の中心とも言える言葉です。神を脇に置き、無視して生きようとするお互いは、死という罪の代価を請求されてしかるべき者。何よりそうでなければサタンが黙ってはいません。そのため、正当に「どうして」と言い得る罪なきキリストが人類の罪の代償としてご自身の命を差し出して下さったのです。捨てられて当然の私に代わって、捨てられる理由のないお方が捨てられてくださった。その打たれた傷によって私たちは赦されたのです。

火曜日, 4月 22, 2014

20140422_創世記22 マルコ15@1-20

■創世記22:2神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
★年老いたアブラハムが長年待ちわび遂に与えられたイサク。それはまさに目に入れても痛くない程にかわいいわが子でした。それゆえにアブラハムはイサクを溺愛し、何千人もの僕を率いる族長でありながら、イサクの事しか見えない盲目な老人となりさがっています。このままでは僕たちの間だ不満が噴出しアブラハムの地位さえ危ぶまれます。そのアブラハムのイサクに対する溺愛に聖別を与え、本来の祝福とするためにイサクをささげよと神様は語られました。あなたはどうでしょう本来祝福として与えられた「いわゆるイサク」であるにもかかわらず聖別が出来ていないゆえに結局のところ「イサク」に振り回されているだけに留まっているものはありませんか。

■マルコ15:15それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。
★自己保身のためにいとも簡単にひるがえる群衆。棕櫚の枝を手に持って「ホサナ(主よ救ってください)」と叫びながら今や十字架に付けろとは。はたまたそんな群衆のきげんとりを優先に動こうとするピラト。まさにキリストの存在は罪人である私たちの罪を明らかに浮き上がらせます。その罪の赦しときよめのためにキリストは十字架にかけられたのです。あなたがいのちに輝くために。いってらっしゃい。

月曜日, 4月 21, 2014

20140421_創世記21 マルコ14@43-72

■創世記21:12すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。21:13しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」
★何と言うサラの身勝手。自分が夫アブラハムにハガルを与えてイシマエルをもうけさせておきながら、約束の子イサクが与えられたなら、今度は邪魔者にするとは。しかし人のいのちは神様のもの。たとえ人が人の命を軽んじることがあっても、神様はその命を尊び守られます。あなたの命も同様で、主はあなたの知らないところでもあなたの命を尊ばれその御手によって守ってくださっています。

■マルコ14:72するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。
★群衆に紛れ込んで主の行方を確認する。それはペテロにとって最大限の努力であり、主への忠誠でした。しかし主のまなざしと愛を受け取るには遠すぎたのです。またこれ以上近づけないペテロの姿は、神様から離れた罪人の姿でもあります。お互いが自分の知恵と力によって自分を守るものではなく、主の愛と真実に信頼して、主によって守られるものでありますように。いってらっしゃい。

日曜日, 4月 20, 2014

20140420_創世記20 マルコ14@1-42

■創世記20:2アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。
★いのちの危険を感じるときお決まりのパターンで自分を守ろうとする罪。アブラハムの場合は嘘ですが、ある人は怒り、ある人は威圧、ある人は心のない謙遜や従順、あるいは熱心と様々ですが存在します。大切なことは自分の中にもそうした一つの陥りやすいパターンがあることにを認め気づきそこで主の助けを仰ぐことです。

■マルコ14:18そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」14:21確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
★あまりに率直なイエス・キリストの言葉。ややもするならば裁きの言葉と誤解されかねません。しかし、愛ゆえの言葉でした。あなたは人の率直な愛を受け取る用意がありますか。それを受け取る為には、まずその言葉を語る相手の立場と気持ちを思い巡らすことが助けになるかも知れません。今週も父なる神様の心を受け取って、御国の支配をこの地にもたらす者として歩みましょう。いってらっしゃい。

土曜日, 4月 19, 2014

20140419_創世記19 マルコ13

■創世記19:17彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」
★こう御使いに告げられたのにロトの妻はソドムとゴモラに未練を残し後を振り向き塩の柱となりました。未練を残してはならないもの、それはこの世です。主を愛する者は一度世から聖別されなければなりません。この世が主のもとから遣わされる所となるために。

■マルコ13:5そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
★世の終わりに注意すべきこととして最初に主が語られたことは「人にだまされないように」でした。それだけ世の終わりは愛が冷え、人の傲慢がはびこるということです。渡辺和子さんは記しています。「人間関係において100%の信頼ではなく、そこに2%の赦しののりしろを持ちなさい。人は誠実であろうとしても、完全ではないのですから」と。また私たちは自分自身をもだましてはなりません。主に赦されているお互い、いつも等身大で歩みましょう。いってらっしゃい。

金曜日, 4月 18, 2014

20140418_創世記18 マルコ12@28-44


■創世記18:32彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」
★アブラハムはソドムの状態を神様から聞かされたとき「もしや、五十人の正しい者がいるかもしれません。その五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。」と執り成し遂に十人にまで来ました。しかしその時ソドムには一人も正しい者がいないことに気づきます。執拗に神様の前に執り成すことのいかに大切な事でしょう。その祈りは祈り手に物事の本質を見極めさせ、真に神様を仰ぐ者へと導きます。

■マルコ12:43すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。12:44みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」 
★額ではありません。神様は心と信仰を見られるお方です。感謝の心を持ち、信仰の決断をなして、あなたの人生に介入し、助けることを願っておられる神様の主権を認め、今日も神様と共に歩み始めましょう。いってらっしゃい。

木曜日, 4月 17, 2014

20140417_創世記17 マルコ12@1-27

■創世記17:23そこでアブラハムは、その子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また金で買い取った者、アブラハムの家の人々のうちのすべての男子を集め、神が彼にお告げになったとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。
★「わたしは全能の神である」と語られても、90歳のサラにどうして子供が与えられようかと、神様の祝福を即座には受け止め切れなかったアブラハム。しかしアブラハムは、主との交わりの中で、その日の内に神様が命じられたことを実行します。このアブラハムを神様は喜び、彼を多くの国民の父とします。神様の祝福を受け取るになくてはならない要素。それは従順です。

■マルコ2:17するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。
★聖書の中でも特に深い奥義が記されている箇所と言っても過言ではありません。イエス様を陥れようとする宗教家の言葉に対して主が語られた言葉です。デナリ銀貨にカイザルの像が刻まれているなら、そのコインを使用する恩恵に与る者として税金をカイザルに払いなさい。しかしそれ以上にあなたは「神のかたち」に似せて造られた人ではないのですか。そうならその恩恵に与る者として神様を愛し、神様に栄光を帰する者でありなさい。あなたの中には神のかたちが刻まれています。そのかたちが輝くように神様はあなたの人生に関わりたいと願われるお方です。今日も心の内に喜んで主の主権を迎え入れ、主と共に歩みましょう。いってらっしゃい。

水曜日, 4月 16, 2014

20140416_創世記16 マルコ11

■創世記16:3アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。16:4彼はハガルのところに入った。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。16:5そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。【主】が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」16:6アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。
★約束の子が与えられない中、主の前に忍耐しきれず女奴隷を夫に与えるサライ、アブラムに子をもうけることによって高ぶる女奴隷ハガル。理性をコントロールできず毒をまく妻サライのなお言いなりになる夫アブラム。この時まさに人間の罪性が噴出しました。ひとりでも主を畏れ、主を仰ぐ者があれば。罪は伝染し、その流れを断ち切るためには勇気と決断が必要です。

■マルコ11:5すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」11:6弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。
★イエス様の命のゆえに自分の宝を解き放つロバの子を所有する主人。あなたは。いってらっしゃい。

火曜日, 4月 15, 2014

20140415_創世記15 マルコ10@32-52

■創世記15:5そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」15:7また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した【主】である。」
★約束の子孫が今だ与えられず不安を覚えるアブラムに、主は空の星を見せてご自身がどんな者であるかを示されます。アブラム同様、神様はどんな所からあなたを導き出したかご存じのお方。アブラムは不安の中で主を仰ぎ神様に義と認められました。あなたもまだ神様の約束を手にしていないかも知れません。しかし主を仰ぎ感謝しましょう。それが神様に義と認められ、約束のものを手にする方法です。

■マルコ10:45人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
★サタンも糾弾できない、決して人が用意することのできない程の身代金。主はその身代金を払うために十字架の上に命をささげて下さいました。あなたのために。あなたは愛されています。主が願い創ろうとされる神の国は、共に仕え合う御国です。今日もその価値観の中で、神様と人を愛することを選び取るあなたでありますように。いってらっしゃい。

月曜日, 4月 14, 2014

20140414_創世記14 マルコ10@1-31

■創世記14:23糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。
★アブラムは神様がなして下さったわざが見えることを何よりの願いとしました。自分が栄光を受けようとする生き方と神様に栄光をおかえししようとする生き方の違いがここにあります。主は私を尊ぶ者を私も尊ぶと語られます。

■マルコ10:17イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
★いのちとは自分の努力や力で生みだせるものではありません。与えられるもの。ましてや肉体のいのちに勝る永遠のいのちを、どうして人の何かの行いで獲得することができるでしょう。ただ、受け取るだけです。いのちというあまりにも尊いものを授かったお互いに最も相応しい生き方は謙虚さと感謝の生涯ではありませんか。いってらっしゃい。

日曜日, 4月 13, 2014

20140413_創世記13 マルコ9@30-50

■創世記13:10ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。13:11それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。
★アブラムの生涯にスポットを当てるのが当然の筋でしょうが、なぜロトは?と、ロトの方に心が向かいます。彼が貪欲でなく、もっと人の必要を思いやり、欠けもないわけではありませんが思いやり深いおじアブラムの公平な良き生き方に目を留め、教えられることができたならば、彼は家庭まで失うことはなかっただろうにと。なすべき当然の決断を先延ばしにし、最も安易な道を常に選び、選択できる時には先ずは自分を優先にするそんな彼のライフスタイルが滅びを刈り取ることになるのです。

■マルコ9:35イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」
★弟子達は罪が入ったこの世の価値観と、神様が直接治められる、永遠に続く御国の価値観には違いがあることにまだ気付いていませんでした。共に生きることを喜び、自分のためたけでなく、むしろ他者の成功に仕える生き方、そこに御国の価値観の本質が、あなたは人の失敗や不幸を共に痛み悲しみ、人の成功のために仕え、成功を共に喜ぶ用意がありますか。

土曜日, 4月 12, 2014

20140412_創世記12 マルコ9@1-29

■創世記12:4アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。
★主の「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」との言葉への応答としての行動です。祝福はまず、世からの分離からスタートします。分離され神様にまで聖別され、そして新たに世に遣わされるのです。あなたは一度神様にまで聖別された経験をお持ちですか。

■マルコ9:23するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」9:24するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
★主からの祝福を受け取るに妨げとなるのは能力や熱心のなさではなく、不信仰に心が支配されることです。主はかつてご自身の言葉によって天地を造られたお方。できないことは一つもありません。主はご自身に近づく者の不信仰に光を当て、悔い改めへと導き、回復された信仰のパイプを通して、あなたの心と生涯に祝福といのちを注がれます。そのパイプは神様に直結するのです。神様にはできないことは一つもありません。

金曜日, 4月 11, 2014

20140411_創世記11 マルコ8

■11:4そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。
★ノアの洪水の後の出来事です。たとえ神様が洪水を再び起こすことがあっても、決して滅びない塔を建てよう。たとえ神であっても私の人生設計には触れさせない。何という敵対心でしょう。しかし、これこそが神様から離れた人間の姿です。あなたの心の深いところには突き上げるような神への怒りがないでしょうか。もしあれば何か過去に痛んだ出来事があり、まだ未解決のまま残っていることが原因かも知れません。

■マルコ8:15そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」
★主が上の言葉を語られた時、弟子たちは主がパンによって4000人を養う奇跡のあと、誰が残ったパンを持ってくるのを忘れたかを議論し、責め合います。その心の動機は自己保身で自己防衛からのスタートです。このあと主は「まだ悟らないのですか」と弟子たちに語られますが、これがその動機です。自己保身の観点から物事を見るとき、人は出来事の本質を掴むことができず、託された人生の責務を果たすことができません。人が事を成すためにはまず自分から解放されなければなりません。さあこの朝もおしみなく注いで下さる主の愛を受け取りましょう。いってらっしゃい。

木曜日, 4月 10, 2014

20140410_創世記10 マルコ7

■創世記10:31以上は、それぞれ氏族、国語、地方、国ごとに示したセムの子孫である。10:32以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。
★父の裸を兄弟たちに吹聴したカナンの子孫の歴史について聖書は語っていません。悔い改める機会を彼は逃したのでしょう。残念です。罪の指摘を受けたときどんな反応をするかによってその人の人生は大きく変わります。どんな中にもあなたを下から支えておられる主の御手を信頼し光の中を歩みましょう。

■マルコ7:9また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。7:10モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言っています。7:11それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、7:12 その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。
★神様の戒めは最初から愛する様にと語られます。しかし人は定めた儀式を守っているかいないかを問い、罪に定めようとします。神様から離れたいのちのない者がとる自己保身のための常套手段です。人が身に付けたイチジクの葉を唯一手放せるのは、神様が愛してほふって下さった小羊の毛皮を着るとき、すなわちキリストの十字架の愛によって包まれる時です。神様とのいのちの交わりを、決して儀式に変えるここのありませんように。今日も愛を生きる道を選び取りましょう。

水曜日, 4月 09, 2014

20140409_創世記9 マルコ6@30-56

■創世記9:5わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。9:6人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。
★人を殺すことは、神様の似姿を殺すこと。人は自分自身を含め、神様が永遠のいのちを与えようと創造された、価値ある存在であることを受け取ることが大切です。これが「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。」の原点です。

■マルコ6:50というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
★5000人の人をパンと魚でもてなした直後の出来事です。イエス様はご自身を教祖の様に祭り上げようとする群衆の中に弟子たちを置くことを願われず、船でベッサイダへと送り出されました。ところが思わぬ嵐、恐れの中で、弟子たちは湖を歩いて近づかれる主を幽霊とおじ恐れます。その時主が掛けられたこの「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」は有名です。主はあなたの今日置かれる状況をご存じです。何よりあなたを愛しておられます。信仰の目を持ち主を見上げて一歩を踏み出しましょう。いってらっしゃい。

火曜日, 4月 08, 2014

20140408_創世記8 マルコ6@1-29

■創世記8:20ノアは、【主】のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。
★箱舟から出たノアが最初にしたことが礼拝でした。生活のただ中で主を礼拝する。それが神様を畏れる者の生き方です。

■マルコ6:21ところが、良い機会が訪れた。ヘロデがその誕生日に、重臣や、千人隊長や、ガリラヤのおもだった人などを招いて、祝宴を設けたとき、6:22ヘロデヤの娘が入って来て、踊りを踊ったので、ヘロデも列席の人々も喜んだ。そこで王は、この少女に、「何でもほしい物を言いなさい。与えよう」と言った。
★ヘロデヤの娘が「バプテスマのヨハネの首を」と語った時、ヘロデ王は青ざめます。そして聖書はこの時のことを「良い機会が訪れた」と記します。神様の御心を行うのにではありません。全く正反対です。罪と知りつつ隠れた所で罪を楽しむとき、それが切っ掛けで取り返しのつかないところにあなたを引きずり落とそうとするのがこの世です。迷いをかなぐり捨て、主の愛と恵みの中に飛び込みましょう。あなたは豊かないのちに生きるべき尊い人です。

月曜日, 4月 07, 2014

20140407_創世記7 マルコ5@21-43

■創世記7:16入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、【主】は、彼のうしろの戸を閉ざされた。
★聖書の中でも最も厳粛な記述の中の一つです。箱舟の戸を閉められたのは誰か。神様です。すべての人が滅びることを願われない父なる神様の心は変わりませんが、罪が入った世においては、神様の救いの介入は、同時に裁きをも意味します。キリストは律法学者を裁くとき涙を流されました。しかしその心は愛ゆえです。大切なことは父なる神様の愛の心を理解し受け取ることです。かつては箱舟でしたが、この時代はキリストが十字架を通して完成して下さった救いの箱舟の扉が開かれています。さああなたの大切な人、愛する人と共に入れるように祈りましょう。

■マルコ5:22すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、5:23いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
★頭をさげることは時に勇気のいることです。人は何のために頭をさげるでしょう。利得のため、名誉のためには何のこだわりもなく下げれても、愛のためには困難な場合もあるかも知れません。しかし最も美しい姿は友のため、子のため、親のために心から頭をさげる姿ではないでしょうか。あなたの心の内が何者によっても奪われない自信と健全な誇りによって満たされますように。そうでなければ人はなかなか頭をさげることはできません。

日曜日, 4月 06, 2014

20140406_創世記6 マルコ5@1-20

■創世記6:18しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。
★ノアについて決して彼が完全だったからではありません。9:20以降を見るとそのことがより明らかです。神様の恵みの言葉に対する従順ゆえに彼は自分と家族を救いへと導いたのです。またこの6章で神様は人の齢は120年と定められましたが、それは120年間もの猶予を人に下さったということでもあります。あなたの前に神様の恵みは常にひらかれ、生涯のどこにあってもあなたはそれをチャンスに変えることができます。大切な事はそのことを受け取ろうとするノアの内に見られた信仰と従順です。

■マルコ5:17 すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。
★レギオンを宿す悪霊につかれた人が解放されたことを喜ぶよりも、この地方から離れてと主に願った人々は、人の命よりも自分たちの収入と安心を喜ぶ人でした。あなたがもし豊かな人生への変革を願うならここから手を付け始めることが大切です。

土曜日, 4月 05, 2014

20140405_創世記5 マルコ4

■創世記5:5アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。
★この章はアダムからはじまり、みな死んだ。死んだ。死んだ。と続きます。それが罪の恐ろしさです。罪とはいのちを奪い、望みを絶つのです。その死に立ち向かい勝利を収めて下さったのがイエス・キリストの十字架と復活です。主は今も仰ぎ見て生きよと語られます。

■マルコ4:38ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
★私たちは生来「私がおぼれてしにそうでも何とも」と、内向き自己中心な思いに捕らわれやすいもの、それが神様のめぐみによって嵐の中においても使命に生きる者へと変えられるとは、それが人の心さえ変える主の御力です。

御影福音教会 森英樹
登録変更はこちらから
https://nowgetta.com/bm/p/f/tf.php?id=inchristmori

金曜日, 4月 04, 2014

20140404_創世記4 マルコ3

■創世記4:11今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。
★弟アベルをねたみによって殺した兄カインに主が語られた言葉です。「のろわれている」とは実に深いな響きでしょう。しかし、それはあくまでも土地であって、神様は決してカインを呪ってはいません。むしろ恐れおののくカインが守られるように一つの印さえ下さいました。知ってください。たとえどんなことがあっても神様はカイン同様、決してあなたを呪うことはなさいません。神様の憐れみと慈しみは尽きることがないのです。宝のあなたをどうして失うことができますか。あなたは徹頭徹尾、父なる神様から愛されています。

■マルコ3:35神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
★「神のみこころ」とは何でしょう。これを知らずして父なる神様によって造られたあなたの霊が喜び、あなたの心が満足で満たされることはありません。「神のみこころ」それはあなたが生活のただ中で、神様を愛し隣人を愛することです。愛し赦すことさえ選択できる存在として造られているとは何という光栄でしょう。今日も一日その光栄によってあなた自身が輝きますように。いってらっしゃい。

木曜日, 4月 03, 2014

20140403_創世記3 マルコ2

■創世記3:9神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
★罪を犯させるまでサタンはあなたに巧妙に近づきますが、いざ罪を犯し、あなたが良心に苦しむとき、サタンはあなたを糾弾し続けることはあっても何の助けも与えません。しかし神様はあなたを救うために近づかれます。「どこにいるのか」と。言い訳によって自分を誤魔化すのではなく、自分の状況を正直に認め神様を仰ぐことこそが大切です。その為に近づいて下さるお方こそが真の父なる神様です。神様は愛ゆえにあなたを放って置くことができません。

■マルコ2:17イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
★なにゆえ神の御子であるお方が御位を捨てて、遜って人の姿にまでならなければならなかったのか。この御言葉はその理由を端的にあらわします。もし神様から離れた人が罪人でなければ、わざわざイエスは人の姿などとる必要はなかったのです。全ての人は霊の医者を必要とする罪「神様との断絶」に犯されました。ただそれを自覚しているか、まだ気付いていないかの違いです。自分の内に霊の病があることを認めて神様を仰ぐ人は幸いです。そこには豊かな赦しと罪からの解放があるのですから。

水曜日, 4月 02, 2014

20140402_創世記2 マルコ1@21-45

■創世記2:17しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
★人の内にまだ罪が入らぬ時の唯一の戒めが「取って食べてはならない」とのこれです。すなわち神様の主権に手を延べてはならない。越権してはならない。なぜなら神様は全てのことをはなはだ良いものとして造られたのですから。これに触れることなく、神様のわざを受け取って行く時、そこには感謝と喜びが人の内に生じるはずでしたが、ここに人が手を延べる時、自らが神様を越えて主権者となり、自分中心の価値観で「なぜ、どうして」と人と物事を裁くようになるのです。それが罪の支払う報酬で、不安と怒りの生涯のはじまりです。

■マルコ1:40さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」
★もし人が自分の汚れを知り、それを悲しみ主に求めることができるなら、そこには「わたしの心だ。きよくなれ。」という癒やしがあるのに。しかし汚れを知ることなしには、飢え渇きさえ人は抱くことができません。せいぜい「私も他の人にくらべたら結構……なんじゃない」と言ったことが関の山です。その意味においても日ごとに神様の御言葉から光を頂くことを選び取ったあなたは何と幸いでしょう。主があなたを喜んでいらっしゃいます。今日も光の中を歩みましょう。いってらっしゃい。

火曜日, 4月 01, 2014

20140401_創世記1 マルコ1@1-20

■創世記1:27神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
★あなたを母の胎に宿し形づくられたのは主です。偶然ではありません。それは主のみゆるしの内になされた喜ばしい出来事です。主が祝福されなければいのちは宿りません。主があなたのいのちを祝福しご自身の形に似せて造られたのです。与えられたいのちを主の御名のゆえに受け取りましょう。そこからあなたのいのちは主の愛と恵みを受けて輝やきます。

■マルコ1:13イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。
★御心をなそうとする時、イエス様ですら困難を覚えたとするなら、どうして神様を愛し隣人を愛そうとするあなたが困難を覚えないはずがありましょう。さあ今日も神様の前に助けを求め祈りましょう。主があなたの前に立たれます。