日曜日, 7月 31, 2011

20110731_1サムエル18_詩篇11_マタイ3

■1サムエル18:1ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。
★ヨナタンとはサウル王の後継者となる息子です。しかし聖書は更に彼の行動について「18:4ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。」と紹介します。なぜでしょう。彼もダビデ同様純粋な思いで神様を愛し、民を愛していた為です。彼らは等しく自分の地位の保全よりも民に心を向ける指導者でした。ある人が言いました。「あなたの友達を紹介して下さい。そうすれば私はあなたがどんな人か言い当てましょう。」類は類を呼びます。あなたの友は何に心を注いでいる人ですか。

■マタイ3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。3:17また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
★洗礼者ヨハネとイエス様の出会いの箇所です。イエス様はヨハネから洗礼を受けると聖霊が鳩のように下り、「これは私の愛する子」と、その語りかけを聞きました。父なる神様のお墨付きとは誰でしょう。イエス様です。このお方に従うなら間違いありません。そしてヨハネはヨナタン同様、自己保全に動くものではなく神様の御心を優先し、キリストを証しします。自己推薦ではなく他者から推薦してもらえる御国の価値観を理解し、自分の内に受け取り行動することが揺るぎない人生を生きる秘訣です。ヒデ

土曜日, 7月 30, 2011

20110730_1サムエル17_詩篇9

■1サムエル17:45ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。17:46きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
★有名なペリシテ人、巨人兵士ゴリアテと少年ダビデの戦いです。この戦いでダビデはサウル王が与えて下さった鎧を脱ぎ捨て、普段どおり羊飼いとして、使い慣れた石投げ、しかも一発でゴリアテの額に命中させ倒します。雷がとどろくような大声でゴリアテが叫ぶとき、全てのイスラエルの兵士たちはそれに反応し、意気消沈し戦意を失いました。しかしダビデはゴリアテが神様を馬鹿にしたその言葉に反応し、聖なる神様の御名が汚されないようにと、神様により頼みつつイスラエルに勝利をもたらしたのです。人は何に反応するかでおおよそ自らを人の前に明らかにします。あなたの反応は何に対してでしょう。お金ですか。容姿ですか。学歴ですか。健康ですか。地位ですか。私たちの心が少年ダビデの反応と同じそれであれば幸いです。

■詩篇9:19主よ。立ち上がってください。人間が勝ち誇らないために。国々が御前で、さばかれるために。9:20主よ。彼らに恐れを起こさせてください。おのれが、ただ、人間にすぎないことを、国々に思い知らせてください。
★まさに少年ダビデ内にあった神様への聖なる思いがここに。主はその人を尊び、その聖なる思いがまさにその人を造るのです。ヒデ

金曜日, 7月 29, 2011

20110729_1サムエル15-16_マタイ1

■1サムエル16:6彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」と思った。16:7しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
★初代の王サウルは聖絶の問題で罪を犯しますが、「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。」と、なお自らの面目を保とうとします。神様はその時、ダビデを新しい王に立てようと動かれます。その時の基準が上の御言葉です。外見ではなく内側。いかに神様を畏れ、民を愛そうとするか。あなたの内側を見て、酬いて下さるお方がいらっしゃいます。

■マタイ1:19夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。1:20彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
★人間が持つ愛と正義だけでは越えられない課題があります。まさにそのことがここに。ヨセフの苦悩はどれ程だったことでしょう。しかし、神様は正しい人(神様の義と憐れみを求め、そこに生きようとする人)を不思議に助け、真実を不思議な形で明らかにし、その課題を越えさせて下さるお方です。正しく生きようと願うゆえに、苦悩の中にある方がありますか。主を仰ぎましょう。主の助けを求めましょう。主が不思議な解決法を備えて下さいます。ヒデ

木曜日, 7月 28, 2011

20110728_1サムエル14_2コリント13

■1サムエル14:45 すると民はサウルに言った。「このような大勝利をイスラエルにもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。絶対にそんなことはありません。主は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。神が共におられたので、あの方は、きょう、これをなさったのです。」こうして民はヨナタンを救ったので、ヨナタンは死ななかった。
★ペリシテ人との戦いにおいて勝利をもたらしたヨナタン。しかし父サウル王が勝利をえるまで兵士は断食するようにと命じる中、それを知らなかったヨナタンは蜂蜜をなめたため罪に問われ死を求められる羽目に。その時の民の執り成しが上の御言葉です。王であるサウルでも誰であっても間違いは犯すもの。それぞれの立場で神様の御声をどう受け取りますか。

■2コリント13:4確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。13:5あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか──あなたがたがそれに不適格であれば別です。──13:6しかし、私たちは不適格でないことを、あなたがたが悟るように私は望んでいます。
★パウロがあなたに望むこと。それはまぎれもない事実としてキリストあなたの内におられること。あなたは既に、キリストによって与えられた永遠の命によって、生かされています。認めましょう。受け入れましょう。その時あなたは復活の命で輝きます。ヒデ

水曜日, 7月 27, 2011

20110727_1サムエル13_2コリント12

■1サムエル13:11サムエルは言った。「あなたは、なんということをしたのか。」サウルは答えた。「民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。13:12今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」
★時に思いきって行動に移すことは大切な事です。しかし越権行為となる場合は、その動機を探る必要があるでしょう。イスラエルの初代王となったサウルの場合は「民が私から去らないために」との自己保身の為でした。むしろこれがモーセの様に自分の名を「いのちの書」から消し去っても結構です。民を憐れんで下さい、ならどうなったでしょう。お互いは新約の祭司として、はばかることなく人々の祝福を願い、取りなすこと許された者とされました。

■2コリント12:9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
★パウロがこう告白する前に、彼は第三の天にまで引き上げられ、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いた経験がありました。その経験が「私は自分の弱さを誇りましょう」と言わしめました。良い面、強い面のみならず、いざ自らの弱い面や足らない面を受け入れることが出来るためには恵みが必要です。そしてあなたにも現れは異なってもパウロに注がれた同じ恵みが注がれています。ゆえに自分の弱さを誇れる可能性が与えられています。ヒデ

火曜日, 7月 26, 2011

20110726_1サムエル12_2コリント11

■1サムエル12:24 ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。12:25あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。」
★近隣諸国が王制をとり入れるなか、イスラエルも負けじと預言者サムエルにそれを求めます。民の目には王制の方が強固な国としてその目に映ったのでしょう。しかし最も強固かつ命に溢れた国づくりは神様を畏れることが土台で、それは何とも取って変えることのできない真理です。サムエルは自身の最後の勤めとして、それを民に諭します。聖書は目に見えるものは一時的で、目に見えないものこそが永遠に続くと教えます。あなたは、あなたの力と安心の基礎をどこに置いているでしょう。

■2コリント11:14しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。11:15ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。
★サタンの誘惑、攻撃に対して私たちはどんな態度を取ることが望ましいでしょうか。またパウロはなぜサタンの攻撃に怖じ惑わされることなく、主の御心に勤しむことができたのでしょう。それはパウロにはサタンの最後がしっかりと見えていた為でした。「彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります」と。私たちのゴールは既に御国であることを確認しましょう。また今どんな試練の中にあったとしても、それが結論ではなく経過であることを覚えましょう。主はあなたを愛しておられます。そこから必ずあなたを助け出されます。ヒデ

月曜日, 7月 25, 2011

20110725_1サムエル9_2コリント10

■1サムエル9:15主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて仰せられた。9:16「あすの今ごろ、わたしはひとりの人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたは彼に油をそそいで、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救うであろう。民の叫びがわたしに届いたので、わたしは自分の民を見たからだ。」9:17サムエルがサウルを見たとき、主は彼に告げられた。「ここに、わたしがあなたに話した者がいる。この者がわたしの民を支配するのだ。」
★イスラエルの初代の王となるサウルと預言者サムエルとの出会いです。そもそもサウルは父の雌ロバがいなくなったのを尋ねるためにサムエルの元を訪れます。しかしそれは二人を神様が引き合わせようとする為のそれでした。出会いの中に介入し、人を祝福しようとなさる神様がおられることを覚え、一つ一つの出会いを大切にしましょう。

■2コリント10:17誇る者は、主を誇りなさい。10:18自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。
★そもそも自分で自分を推薦する人は、人にしてもらえないから、自分で推薦しようとするのでしょうか。それとも人に推薦してもらっても、それでも物足りないので、なお自分で推薦したくなるのでしょうか。いずれにしても問題であり惨めです。しかもその心は人との比較に向かっています。そして人の評価に心が向かう以上、その心は永久に満たされることはありません。人は誰からの評価を求めるべきでしょうか。主からです。主から評価を頂く時、その心は満たされ納得と満足が与えられます。そもそも主はその愛と真実ゆえ、全ての人が誇りとすべきお方。誇るべきお方を誇りましょう。ヒデ

日曜日, 7月 24, 2011

20110724_1サムエル7_篇72_2コリント9

■1サムエル7:10サムエルが全焼のいけにえをささげていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来たが、主はその日、ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエル人に打ち負かされた。
★ペリシテ人の脅威を感じたイスラエルの民はサムエルに向かって「私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。私たちをペリシテ人の手から救ってくださるように。」と叫びます。そして主はサムエルのその祈りに応えて上の御言葉の通りイスラエルを守ります。あなたは新約の祭司。あなたはあなたが思う以上に神様の前に力ある業をなすために召し出されました。

■詩篇72:1神よ。あなたの公正を王に、あなたの義を王の子に授けてください。72:2彼があなたの民を義をもって、あなたの、悩む者たちを公正をもってさばきますように。
★あなたはどこに自分の身を置いてこの詩を味わいますか。王の子ですか、それとも治められる民としてですか。謙遜ゆえに民としてもよいでしょう。しかし本来は召された祭司として王の子として取りなすべきです。それがキリストに贖われたキリスト者が持つべき新約の価値観です。

■2コリント9:8神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
★ゆえにパウロは「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」と語ります。感謝して自分自身と与えられている賜物をささげましょう。ヒデ

土曜日, 7月 23, 2011

20110723_詩篇77_2コリント8

■詩篇77:10そのとき私は言った。「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる。」
★本当にそうでしょうか。主は「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ」(1テモテ6:16)るお方です。主が変わったのではなく本当のところは私が変わったのを主が変わられたように感じているのではないでしょうか。そうでないとするなら、あなたは喜ばなければなりません。あなたの生涯における主の特別な介入です。その試練の中で錬られるとき、あなたは豊かに神様の栄光を現わす者として出てくるでしょう。夜の明けない日はありません。必ず朝はおとずれます。そしてこの詩篇作者は「77:12私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。」と語ります。

■2コリント8:5そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。
★この章で主の弟子パウロは「8:9あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」と主の愛を紹介し、主の愛に与った者のささげものに対する考えを助言します。ささげるのはまず自分自身です。誰にですか。主にです。人にささげるならあなたはその人の奴隷です。ですから人にではありません。次に主に自らをささげた者として、主への従順の現れとして御心や人に自らを委ねます。この順番と秩序を重んじるとき、あなたは献げ物を通して、今に勝る幾倍ものを祝福を受け取ります。でも本当に価値ある大切なことは、ささげる行為自体で、その結果ついてくる祝福はおまけですよ。ヒデ

金曜日, 7月 22, 2011

20110722_詩篇66_2コリント7

■詩篇66:10神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精錬するように、私たちを練られました。66:11あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰に重荷をつけられました。66:12あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。
★主は時に私たちが願わないところへと私たちを導くことがあります。何の為でしょう。試練を通して私たちの内にある不純物に気づかせ、それを取り除き私たちの内にキリストの形をつくろうとして下さるからです。神様は父としてあなたに関わって下さるのです。試練の時、罪の誘惑に心を閉ざすことは必要です。しかし神様に心を開き、その介入を感謝しましょう。あなたはキリストに似る者として輝きます。

■2コリント7:8あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、7:9今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。7:10神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
★パウロは愛のゆえに道を外したコリントの人々のために直言をもって語りました。あなたは直言してくれる人をお持ちですか。それとも、もはや地上であなたに直言できる人は誰もいなくなりましたか。真実を語ってくれる家族、友、指導者、それは神様が恵みによって下さった宝です。ヒデ

木曜日, 7月 21, 2011

20110721_ルツ3_詩篇64_2コリント6

■ルツ3:13今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、けっこうです。その人に親類の役目を果たさせなさい。しかし、もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられる。とにかく、朝までおやすみなさい。」
★やもめとなったナオミに対する嫁ルツの真実と愛はその地で評判となりますが、はからずもルツが落ち穂を拾いに出かけた畑はナオミの無き夫エリメレクの親類ボアズの畑でした。ルツを幸せにしてやりたい。よき再婚へと導きたいと願うナオミは買い戻しの権利のあるボアズに憐れみを求めるように勧めます。その意志を伝えた時のボアズの反応が冒頭の御言葉です。あなたの良くしている右手の業を左手に教えてはなりません。神様は知っておられます。また人も見ています。神様の前に善を積みましょう。愛はまた普段の行動で証しされるものであることを確認しましょう。

■詩篇64:1神よ。私の嘆くとき、その声を聞いてください。恐るべき敵から、私のいのちを守ってください。

■2コリント6:12あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。
★恵みをいかに受け取るかをテーマとした章です。その結論は感謝してです。そうでなければお互いは自分で自分を縛ることになるとパウロは諭します。合わせて感謝するためには心が砕かれていなければ出来ません。自分で自分を救うことが出来ないことを認め、主の救いを感謝して受け入れましょう。旧約聖書はは高ぶるものは退けられ、遜るもののところに恵みは溢れると語っています。ヒデ

水曜日, 7月 20, 2011

20110720_ルツ1_詩篇61_2コリント5

■ルツ1:1さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。 1:2 その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ。ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。
★この後、ナオミは夫に先立たれ、二人の息子は妻を迎えますが、何とその息子たちも共に死ぬのです。飢饉の中、知恵を出してモアブの地に出かけたナオミ家族。しかし今や夫も二人の息子も失うとは。しかしそれが結論ではありません。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。」と語る嫁ルツを通して、神様の不思議が始まります。あなたは「なかなかの名案」と思ったことが失敗に終わり、そんな決断をした自分を責めたり、諦めたりしていることはないですか。たとえそうしたことがあっても言えることは、それが結論ではないと言うことです。神様は憐れみ深いお方、不思議をなさるお方です。

■詩篇61:2私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。

■2コリント5:17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
★主の救いにあずかる豊かさが鮮やかに語られます。その立場も、私たちを内側から動機づける思いも、あるいは受け取るべき使命も全く新しくされたのです。今や神の家族の一員であり、私のためにではなく、死んでよみがえった方のための人生となり、和解の使節として遣わされたものとなりました。ヒデ

火曜日, 7月 19, 2011

20110719_2コリント4

■2コリント4:6光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。4:7私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。4:8私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。4:9迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。4:10いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
★苦しみの中で明らかにされるものがあります。私たちの内にあるイエス様の命の輝きです。信仰によって頂いた永遠の命です。信じたお互いは既に永遠の命によって生かされています。永遠の命とは死んでから生きる命ではありません。既に頂いたその永遠の命で信じたお互いは生かされています。だから、試練の時も窮することがないのです。感謝しましょう。主を仰ぎましょう。いよいよこの命によって輝きましょう。ヒデ

月曜日, 7月 18, 2011

20110718_詩篇89_2コリント3

■詩篇89:48いったい、生きていて死を見ない者はだれでしょう。だれがおのれ自身を、よみの力から救い出せましょう。
★まさにその通り。誰もいません。しかし主は同じこの詩篇の中で「わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。わたしは、かつて、わが聖によって誓った。わたしは決してダビデに偽りを言わない。彼の子孫はとこしえまでも続き、彼の王座は、太陽のようにわたしの前にあろう。」さらに「わたしは杖をもって、彼らのそむきの罪を、むちをもって、彼らの咎を罰しよう。しかし、わたしは恵みを彼からもぎ取らず、わたしの真実を偽らない。」と語られるのです。__c19__、あなたは必ず主の真実によって支えられるのです。

■2コリント3:16しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。3:17主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。3:18私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
★旧約と新約、律法と福音の対比が表現されています。ぶどう酒と皮袋はどちらが優先されるべきでしょう。ぶどう酒、すなわち命です。神様から離れた罪人にとって、律法がなければ罪の自覚さえ曖昧ですが、示されたその罪をいざ告白し捨てるならば、十字架から注がれる命は、余すところなく私たちの心に注がれ、私たちを栄光から栄光へと主と同じ姿に変え続けます。あの永遠のいのちを求めて主に近づいた金持ちの青年(マルコ10:22)は下を向き、向きを変えて主から遠ざかりました。しかしあなたは主に向きを変えなければなりません。そして生きるのです。ヒデ

日曜日, 7月 17, 2011

20110717_士師13・16_2コリント2

■士師記16:29そして、サムソンは、宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。16:30そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。16:31……サムソンは二十年間、イスラエルをさばいた。
★ここは旧約聖書の中ではよく知られているサムソンとデリラの話です。特別な神様の選びの中で類い希な力を与えられたサムソン。しかし繰り返し言い寄るデリラに、彼も遂に自らの力の源を証しし、それが元で力を失い捕らえられ両目をえぐられるのです。それにしても聖書はその失敗よりも、彼が士師としてイスラエルを20年さばいたことを大きく評価します。あなたは人の5%の欠けを見て、「これじゃだめだな」と言う人ですか。それとも「95%もできたじゃない。すごいね」と励ます人でしょうか。神様に倣う者となりましょう。人は必ず同じ計りで計り返されます。

■2コリント2:10もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。2:11これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。
★この手紙の著者パウロは、サタンの巧妙な罠を知っていました。赦すとは自分で正当な裁きをしたいとの思いを明け渡し、神様に裁きを委ねることも含まれます。さばきの思いを握りしめ続けると、いつの間にかサタンの罠に陥ります。手放し、解放されましょう。そして報復は主に委ねるのです。ヒデ

土曜日, 7月 16, 2011

20110716_詩篇50_2コリント1

■詩篇50:14感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。50:15苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」
★苦難の中でしか見えず、考えられないことがあり、苦難の中でなければ問えない自分があります。しかし苦難の中で人とは何かを知ることができることは慰めです。見あげましょう。そこにはあなたを助けようと待って下さっている父なる神様がおられます。人は父と言う存在に受止められて力強い一歩が踏み出せます。

■2コリント1:4神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
★苦難、それは人とはが何かを私たちに悟らせる機会を提供するのみならず、神様の恵みによって、私たちを成熟へと向かわせてくれると聖書は語ります。なぜなら、その苦難を通し、主から注がれる同情、憐れみの霊を私たちが受け取ることができるようになるからです。エペソ書には「4:30神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。4:31無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。4:32お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」と、私たちの目指すゴールが優しさであることを教えます。それこそが本当の苦難であるキリストの再臨を、恵みの中で迎える秘訣です。ヒデ

金曜日, 7月 15, 2011

20110715_詩篇49_1コリント16

■詩篇49:16恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。49:17人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。49:18彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。49:19あなたは、自分の先祖の世代に行き、彼らは決して光を見ないであろう。49:20人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。
★人は何に対して悟りを得る必要があるでしょうか。死後の生です。死んだら終わりではありません。また死後のあとに潜る永遠の世界の評価基準は地上の繁栄とは無縁です。その答えは聖書から見出されなければなりません。

■1コリント16:20すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。
★パウロがコリントで主を信じた兄弟姉妹、すなわち教会にむけて書いた手紙の最後の部分です。コリント地方はそれまで、たとえ同性同士であっても接吻をもって挨拶を交わす文化があったわけではありません。ましてや主人と奴隷が同じテーブルで食事を囲み、接吻することなどあり得ないことでした。しかし最も大いなるものである神様の愛を受けた一人一人、すなわち教会はそれを可能にしたのです。あなたはこの世の文化に飲み込まれるために召し出されたわけではありません。むしろ変革をもたらし、この地に神様の支配をもたらすために召し出されました。愛することを躊躇するのは止めましょう。愛は意志であり、行動であり、犠牲です。ヒデ

木曜日, 7月 14, 2011

20110714_詩篇42_1コリント15

■詩篇42:11わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。
★この詩の著者は「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中『おまえの神はどこにいるのか』と私に言う間。私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。」と告白するほどに、神様を避け所とし、神様を愛する人物でした。ひょっとすると彼がこれほどに神様を愛さなければ、彼はこんな偏見に満ちた苦しみを経験する必要は無かったのかも知れません。しかし彼は神様を愛し、冒頭の告白の様に、主の愛への信頼を自分自身で自分に語りかけ、励まそうとしたのです。あなたは主にあって、自分自身で自分に語りかけ励ますことがありますか。

■1コリント15:10ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。15:11そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです
★復活がいかに史実的、神学的に根拠のあるものか。また世の終わりにおこる再臨がどんな形で現われるのかまで話題を広げるパウロですが、そもそもパウロが「私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」と言うに至った切っ掛けは、冒頭の御言葉です。神様の恵みを受け取るとき人に感謝が生まれます。そしてその人は変わります。将来に対して目が開けます。希望が与えられます。神様の恵みを受け取りましょう。拒んではなりません。ヒデ

水曜日, 7月 13, 2011

20110713_詩篇52_1コリント14

■詩篇52:6正しい者らは見て、恐れ、彼を笑う。52:7「見よ。彼こそは、神を力とせず、おのれの豊かな富にたより、おのれの悪に強がる。」52:8しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。
★サウル王の嫉妬を買い執拗にいのちを狙われるダビデですが、彼が寄り頼んだものが何かここでは鮮やかです。神様の恵みです。それは決して目に見えるものではなく、ある人たちにとってはつかみ所がなく、何の役にも立たないもの、むしろ具体的な力や形をもとめることでしょう。しかしダビデは、神様ご自身、そこから流れる恵み、すなわち神様の愛と憐れみ深さというご性質に寄り頼んだのです。そしてそれを信仰と呼びます。あなたは何に寄り頼みますか。信仰がなければ神様を喜ばせることはできません。

■1コリント14:26兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。
★新鮮なショックを受けた御言葉をピックアップしました。初代教会と現代の教会の姿って同じでしょうか。初代教会は双方向、互いにですが、何か現代の教会は一方通行の気がします。それが教職中心と言われる所以でしょう。私たちはみなキリストに立てられた祭司。お互いに聖書を通して示されていること、導かれていることを自由に分かち合う、こうした交わりは大切です。祈ってください。そして目指し、行動しましょう。こうしたいのちに満ちた教会の姿を。ヒデ

火曜日, 7月 12, 2011

20110712_士師記4_1コリント13

■士師記4:4 そのころ、ラピドテの妻で女預言者デボラがイスラエルをさばいていた。
★ヨシュアの死からサムエルが生まれるまでの200年、主は12人の裁き司を立てられ、軍事的、政治的指導者として用いられます。その中の一人デボラで、彼女は祭司、預言者として活躍しました。そもそも主が先住民を残されたのはイスラエルが本当に主に従うか、でしたが、イスラエルは先住民との妥協の道を選ぶのです。キリスト者はこの世から遊離してはなりません。しかし分離すべき罪からは妥協なく分離しなければなりません。そうでなければ必ず敗北するのです。ヨシュア記は勝利の歴史でしたが、士師記はある面敗北の歴史の繰り返しです。先の事柄に妥協があったからです。主は「この世と調子を合わせてはいけない」と語られます。あなたはこの士師記から何を学ぶでしょう。

■1コリント13:13こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
★昨日、贖われたクリスチャンはみな「みなの益」に聖霊の賜物が与えられていることを学びました。「使徒、預言者、教師、奇蹟を行う者、賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者」とその現れは様々です。しかし、その中で最も大きなもの、また求むべきものは何でしょう。愛です。聖書は「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」と語ります。愛を追い求めましょう。ヒデ

月曜日, 7月 11, 2011

20110711_1コリント12

■1コリント12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
★贖われたクリスチャンに対してパウロは重要な価値観をここで示します。「キリストのからだ」です。それは一人一人なくてはならない存在であり、誰も自分のために存在させられているのではなく、他者を助け、調和の中で大きな働きを成し遂げるためです。そのために聖書は「12:8ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、12:9またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、12:10ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」と語るのです。そして、これらはすべての人に与えられていますが、しかしそれに全ての人が気づいているかは疑問です。理由は御霊の賜物は「みなの益」の為に分け与えられたものなので、その人が今だ、自分自身のために生きようとの、この世の価値観に捕らわれ、貢献に生きる価値を知らなければ、気づけないからです。あなたはもうご自分に与えられた賜物にお気づきですか。ヒデ

日曜日, 7月 10, 2011

20110710_ヨシュア23_詩篇44_1コリント11

■ヨシュア23:5あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたの前から彼らを追いやり、あなたがたの目の前から追い払う。あなたがたは、あなたがたの神、主があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなければならない。23:6あなたがたは、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく断固として守り行い、そこから右にも左にもそれてはならない。
★約束の地での神様に受け入れられる基準は律法に基づく良き行いです。もちろんそれは昔も今もかわりません。ただそれを守れないのが神様との関係の断絶を経験した罪人で、そのためキリストは十字架の上でいのちを賭けた救い、すなわち信仰による救いを特別備えて下さいました。恵みです。信じて受け取りましょう。
りましょう。

■詩篇44:3彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです
★イスラエルの歴史に対する神様の語りかけです。そうです。私たちは神様に愛され、恵みによって持ち運ばれています。

■1コリント11:1私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。
★パウロの言葉に、全く、逃げ誤魔化しを感じません。いのちを賭けて信じたもの。ならば当然そこに生きるべきでしょう。こうして信仰のバトンは手渡されます。あなたは誰からうけ、誰に渡しますか。あなたで留まってはなりません。ヒデ

土曜日, 7月 09, 2011

20110709_ヨシュア21_詩篇47_1コリント10

■ヨシュア21:44主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。21:45主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。
★最後にヨシュアはレビ人の申し出を受け入れて彼らに町と放牧地を割り当てます。こうして全イスラエルは約束の地で安住を得ました。サタンは、神様が何かその愛を出し惜しみするかのようにエバに思わせ、罪を犯させましたが、神様は出し惜しみされることのないお方です。あなたは今欲しいものがありますか。なら遠慮なく申し出て祈りましょう。

■詩篇47:4主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を。主の愛するヤコブの誉れを。
★主はあなたのために働かれても、あなたを利用するお方ではありません。

■1コリント10:13あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。10:14ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
★14節の「ですから」は重要です。どんな試練の時にも神様は必ずあなたを助け出して下さるお方。たとえ八方ふさがりでも、現に上は開いています。ですから、主以外のものに試練の中で寄り頼もうとすることは、主が頼りないので、他の神々に……と、主の力を軽んじ、偶像の前で主を辱めることです。姦淫者になってはなりません。主はあなたを助け出されます。しかも試練の前より、あなたを主の栄光に満ちる者として。ヒデ

金曜日, 7月 08, 2011

20110708_ヨシュア20_1コリント9

■ヨシュア20:2「イスラエル人に告げて言え。わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、のがれの町をあなたがたのために定め、20:3あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる。
★神様がイスラエルに与えようとして下さっている約束の地に、なくてはならないものは何か。それは逃れの場所だと主は語られます。人は誰でも故意ではなくとも過失を犯すもの。その過失に最大限の理解を示し、保護を加えて下さろうとするお方は主ご自身です。神様とは単なる裁き主ではありません。そして、たとえあなたが敵に囲まれ、困難を覚えるような時があっても、あなたは一人ではありません。神様は私たちの避け所であり、悩める時、そこにある助けです。逃げ込みましょう。

■1コリント9:22弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
★主の弟子として自分の立場や能力を最大限注ぎだし、主に仕えた人物の一人としてあげられるのがパウロその人です。そのパウロが抱いた夢は全世界へと及びます。しかし具体的に彼がとった行動は、目の前にいる「幾人か」の祝福です。あなたの生き方は例え風呂敷を広げても、地に足がついたそれですか。聖書はキリストについて「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」と語ります。主とパウロの生き様に倣いましょう。ヒデ

木曜日, 7月 07, 2011

20110707_1コリント8

■1コリント8:12あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。8:13ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。
★コリント地方で起こっていた課題、偶像にささげられた肉を食べるべきかどうかについて、パウロはここで展開します。もちろん食べてよいのです。その理由はすべての食物は祈りによってきよめられますし、唯一の神様以外に実際存在する神はないからです。しかしパウロはその知識を持つ人は、その真理を知っているゆえにあなたは高ぶっていませんかと語りかけます。そしてパウロが問題にするのは自分の良心ではなく弱い良心を持つ人々がそれで躓かないだろうかです。生まれながらの人は、確かにそこにはその人の生育歴の関係もあるでしょう、弱い良心を持つ人と強い良心を持つ人があります。あなたどちらですか。しかしパウロが求めるのは成熟した良心、すなわち自分の為ではなく相手を思いやる良心です。人の目に縛られ自由を失うわけでも、律法主義に逆戻りするわけでもありません。弱いいのちを守るため、愛のゆえに自らの権利をあえて明け渡す生き方です。あなたに与えられた自由をいかに用いるかであなたが何者であるかが明らかになります。願わくはイエスと一緒にいたもの、クリスチャンとよばれる生き方へと導かれますように。

水曜日, 7月 06, 2011

20110706_ヨシュア14_1コリント7

■ヨシュア14:10今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。14:11しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。
★かつてカナン偵察の時、ヨシュアとカレブ以外の者たちは非常に否定的、消極的な言葉を発し、民の心を挫き、荒野において40年放浪する原因をつくりました。しかしカレブはどうでしょう。ここを見ると今なお壮健で神様の恵みに支えられた生活を送っているのを見ます。神様の恵みに応えて積極的、肯定的に応答することの大切さを覚えましょう。その人は不思議な主の祝福の中を歩みます。

■1コリント7:6以上、私の言うところは、容認であって、命令ではありません。7:10次に、すでに結婚した人々に命じます。命じるのは、私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。7:12次に、そのほかの人々に言いますが、これを言うのは主ではなく、私です。信者の男子に信者でない妻があり、その妻がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。7:25処女のことについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみによって信頼できる者として、意見を述べます。
★パウロがいかに言葉を丁寧に使っているかに目を留めましょう。決して自らの思いと考えを神様の言葉と同列に置こうとはしませんでした。どこかの大臣とは違います。信仰と希望と愛。そして与えられた力を自分のためではなく他者を生かし仕えるために用いる人。その人がいつまでも残るのです。ヒデ

火曜日, 7月 05, 2011

20110705_ヨシュア10_1コリント6

■ヨシュア10:11彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主は天から彼らの上に大きな石を降らし、アゼカに至るまでそうしたので、彼らは死んだ。イスラエル人が剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。10:12主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」10:13民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。
★聖書は信じがたいことが起こったと記します。どなたかこの史実性の調査にチャレンジする人はいませんか。しかしもう一つ忘れてはならないこと。それは、心から御心を行おうとする者を神様は人間の常識の枠を越えてまでも助けて下さるお方、と言うことです。果たしてヨシュアの内にある、主に対する信頼と従順がお互いの内に見られるでしょうか。

■1コリント6:1あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。6:2あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
★自分の正義を主張しようとするとどこまでも両者の間は平行線です。時にその中であなたのこだわりが、多くの人の知るところとなり、あなたの心の広さが測られることもあります。願わくはキリストの十字架を仰いで赦しましょう。その問題があまりに大きければ、裁きは主に委ねましょう。いずれにしてもあなたは平和と愛の道を選択するのです。ヒデ

月曜日, 7月 04, 2011

20110704_ヨシュア7_1コリント5

■ヨシュア7:20アカンはヨシュアに答えて言った。「ほんとうに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。私は次のようなことをいたしました。7:21私は、分捕り物の中に、シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て、欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地に隠してあり、銀はその下にあります。」
★約束の地における戦いでイスラエルは初めての敗北をなし、民の心は周りの国民に取り囲まれ殺されるのではないかと意気消沈します。それにしてもその原因は?アカンが欲に溺れ、聖絶のものを自分の天幕に隠し持ち返り、自らを聖絶のものとしたからです。罪に対して曖昧な態度をとる時、自分自身を罪とすることになります。罪には断固拒否です。心に刻みましょう。でなければ祝福は失われます。それにしても、何と僅かなもののことで自分を滅びに追いやったことか。それが罪の誘惑です。罪の芽をどんなに小さくても侮るべきではありません。

■1コリント5:4あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、5:5このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
★パウロは教会内でおこる汚れに対し、教会自体がいわば聖絶のものとならないように上の様に表現します。「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。」もパウロの言葉です。罪についてはあくまで毅然とした態度を取りましょう。それがあなたを守り、相手を生かす、あなたが取るべきスタンスです。ヒデ

日曜日, 7月 03, 2011

20110703_ヨシュア3_1コリント4

■ヨシュア3:15箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが3:16上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。
★イスラエルがエジプトから脱出する時に渡った紅海は、モーセがアロンの杖を海に向かって差し伸べたとき、紅海は川底を見せ、イスラエルはそこを通って脱出したと記します。しかし、いざ約束の地に入ろうとするここヨルダンでは、決して水が引き、川底を確認してのそれではありませんでした。祭司が神様の言葉を信頼して、一歩川に足を踏み入れたその時、水は上流でせき止められたのです。さてあなたはここから何を受け取られるでしょうか。聖書は信仰がなければ神様に喜ばれることはありませんと語ります。

■1コリント4:16ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。4:17そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。
★今ある立場と恵みはキリストによってもたらされたものであるのに、それを無視し、キリストの教えを通り越して、一方にくみし、他方に反対し高慢な生き方をする者たちが起こり、教会に混乱を作り出していました。その時パウロは「私にならう者」と彼らのライフスタイルを問うたのです。福音は知ると共に、生きることを通し人を成熟へと向かわせます。ヒデ

土曜日, 7月 02, 2011

20110702_ヨシュア1_詩篇37

■ヨシュア1:1さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。1:2「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。1:3 あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。
★神様はこの言葉をヨシュアに与えるために30日間モーセの死を悼み、喪に伏し涙する期間を与えられます。もしこの期間がなければ「モーセは死んだ。今、立って……」との励ましに応えることは出来なかったでしょう。また、丁度よいこの時期のこの言葉がなければ、イスラエルの民は立ち上がる機会を逸したかも知れません。与えられたこの期間の何と大きなことか。あなたは新しい決断に歩み出すため、起こった悲しむべき出来事に蓋をし、感情を押し殺すのではなく、十分に涙し、喜ぶことを喜び、泣くことを泣いていますか。主は「私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と語られるお方です。人は強すぎる必要はありません。立ち上がるのはそれからです。

■詩篇37:23人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。37:24その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。
★主の恵みによって支えられ、生かされる人生があります。あなたはヨシュアの様に、深い悲しみをも共に受止めて下さり、さらに「モーセは死んだ、今、立って……」と、あなたを励まして下さる方をお持ちですか。そのお方を知らない人生と、知る人生では全く終着点が異なります。このお方の手に支えられる人生を歩むことを心からお勧めします。ヒデ

金曜日, 7月 01, 2011

20110701_申命33_1コリント2

■申命33:26「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。33:27昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。あなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じた。33:28こうして、イスラエルは安らかに住まい、ヤコブの泉は、穀物と新しいぶどう酒の地をひとりで占める。天もまた、露をしたたらす。33:29しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。」
★エシュルンとはイスラエルの詩的呼び方で、ここははじめの2-5節と対になったものです。そして結局のところ神様のイスラエル全体に対する思いは祝福です。神様の御腕の中に持ち運ばれ、神様の御腕に支えられて歩んだ民が未だかつつてあったでしょうか。あなたは愛されています。あなたの生涯は主の御手の中以外の奈落へと落ちることはありません。

■コリント2:11いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。2:12ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。
★主の弟子パウロはなにゆえに、あれほどの大きな業績を残すことができたのでしょう。それは彼の豊かな知性に基づくものでも、人一倍の熱心でもありません、ただ受けた御霊によるものでした。あなたはこれを認め、聖霊に餓え渇きますか。御霊に満たされることを求めましょう。神様の愛と御力に対する信頼が広がります。ヒデ