日曜日, 4月 30, 2017

20170430_2列王記23

■2列王記23:25 ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、【主】に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。
★ヨシヤとヒゼキヤ(18:5)はどちらも神様を畏れたことでたたえられています。ヒゼキヤは神様への信頼(信仰)が最も深かったと言われ、一方ヨシヤは神の律法に従うこと(従順)において最も優れていたと言われています。私たちも神様への信頼と従順な行動において、2人に倣う者でありましょう。

土曜日, 4月 29, 2017

20170429_2列王記22

■2列王記22:11王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。22:13 「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、【主】のみこころを求めなさい。私たちの先祖が、この書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについてしるされているとおりに行わなかったため、私たちに向かって燃え上がった【主】の憤りは激しいから。」
★ヨシヤが律法を聞いたとき、彼は失意のあまり衣を裂き、すぐに改革を実行します。神の律法を一読しただけで、彼は国の道筋を変えます。お互いは、神様のみことばから見つけた真理にどんな反応を示すでしょうか。当時邪悪な王が続いたために神様の言葉は隠されていましたが、当時26歳であったヨシヤは、国中に宗教改革を行おうとします。国を神のご命令に沿うものとするには劇的な変革が必要であるにもかかわらず。今朝、神様のみことばはお互いの手に委ねられています。人生をみことばに沿わせるために、どんな決断をお互いはするでしょうか。

金曜日, 4月 28, 2017

20170428_ガラテヤ6

■ガラテヤ6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
 6:9 善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
 6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
 6:16 どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。
★自らの行いによる義ではなく、イエス・キリストの恵みによる新創造に生かされ続けましょう。栄光から栄光へと。

御影福音教会森英樹

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木曜日, 4月 27, 2017

20170427_ガラテヤ5

■ガラテヤ5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
 5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
 5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
★人を奴隷にする律法と、キリストにある恵みの両方に足を掛けては、前に進むことができません。大切な事は、キリストが示してくださった愛への感謝の応答としての御霊によるあゆみ。信仰生活です。

水曜日, 4月 26, 2017

20170426_ガラテヤ4

■ガラテヤ4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
★良き行いをもって自らを義としようとする律法主義と、信仰によってイエス・キリストの十字架の贖いと復活を生きることの狭間で、行ったり来たり。なお迷いの中にあるキリスト者に向かいパウロが語ります。二度と律法をもって奴隷の鎖に繋がれてはなりませんと。

火曜日, 4月 25, 2017

20170425_ガラテヤ3

■ガラテヤ3:23 信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
 3:25 しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
 3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
 3:28 ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
 3:29 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
★律法とはあくまで人をキリストにまで導く養育係。「むさぼってはならない」との律法がなければ、私たちはむさぼりが何であるかを知らないものでした。しかし今や、キリストの救いを受けてお互いは赦された者。自由の身とされました。

月曜日, 4月 24, 2017

20170424_ガラテヤ2

■ガラテヤ2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 2:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」
★教会の指導者であったペテロでさえもユダヤ人の評価をおそれて、人の救いにはキリストだけで十分との立場から一歩後退します。それが間違いであることをハッキリと指摘した後、パウロは自分の信仰を告白します。それが上記の告白です。唯一キリストにあって死に、キリストによって蘇らされた者として生きる。お互いもいつの間にか福音に余計なものを付け福音の輝きを消すことがありませんように。

日曜日, 4月 23, 2017

20170423_ガラテヤ1

■ガラテヤ1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。
 1:8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
★「ほかの福音」を宣べ伝える人々は、異邦人信者は、ユダヤ人の律法と慣習、特に割礼の儀式に従わなければならない、キリストへの信仰では十分ではない、と説きます。この教えは、救いは賜物であり、行いへの報酬ではないという真理をひそかに傷つけることになります。イエス・キリストは、ユダヤ人だけではなくすべての人にこの賜物が得られるようにされました。救われるためにはキリストへの純粋な信仰以上のものが必要であると言う人に気を付けなければなりません。救いに追加の条件を掲げることは、十字架上でのキリストの死と復活の力を否定することになります。

金曜日, 4月 21, 2017

月曜日, 4月 10, 2017

20170422_2コリント5

■題名 死んでよみがえったかたのために
金言 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。(15)
★この私のためにも、十字架にまでご自身の命を捨ててくださったイエスの愛に感動し、何とかそのご愛に報いる者であれたならばと、心の内に献身の思いが芽生えはじめていた頃の思い出です。そうはいっても、とても「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」(イザヤ六・8)といえるような者ではありません。そんな青年時代、私は何かの発送奉仕を当時荻窪栄光教会の婦人牧師でいらっしゃった故森山信子先生と一緒にさせていただいた時、「信子先生はどうして献身しようと思われたんですか」とおたずねしました。
その時の先生から返ってきた言葉が、金言の(15)節と、「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」(二テモテ二・8)でした。
「私に与えられている賜物は人と比べるとわずかなものかも知れないわ。そうね。例えるならマタイ二五章のタラントの例えの一タラント託された僕かも知れないわ。でもね、どんなにわずかであっても、託されものがわずかだからと言って、それを隠しておくことは主に愛されている者としてできなかったのよ」。「私のために死んでよみがえってくださった方のためにね」。
信子先生が主の恵みを振り返りながらしてくださった証しは、私にとってどんな大伝道者が語る説教よりも励ましに満ち、私の心を揺り動かすものでした。
主がご自身の復活の証人となることを願っておられるのは、特別な人だけではありません。それはご自身の血潮によって罪の滅びより贖い出された全てのキリスト者への願いであり、遣わされた生活の場で復活のキリストを生きることが求められています。
(祈り)わたしのために死んでよみがえってくださった方の愛と恵みを、生き様を通して等身大で証しする復活の証人とさせてください。
新聖歌 三八六

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

20170421_ヨハネ21

■題名 あなたは、わたしに従ってきなさい
金言 イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。(22)
★それにしても、あの大祭司の邸宅の中庭で「わたしはその人を知らない」(ルカ二二・57.60)と、三度も否んでしまったペテロの心の重荷はいかばかりだったでしょうか。振り向いた主のまなざしはゆるしに満ちたものであったでしょうから、なおさらです。それはまさに「あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ二二・32)と語られた通りの優しさだったでしょう。
いかにしてペテロは、主を裏切ってしまったゆえに抱え込んでしまった良心の責めをぬぐい去ることができるでしょう。その苦しい思いは、主に知っていただき、理解し、赦していただく以外に、自分のわざや頑張りではどうにもなりません。そのことを誰よりも承知の復活の主は、これで三度目、ペテロを励ますためにといってよいほどに、親しく語りかけてくださいました。
「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」(15)。
「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」(16)。
「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」(17)。
「あなたがご存じです」と応える以外にない、主からの問いかけです。ペテロはその問いの中で自分がどんなものであったかを知らされるばかりでなく、言葉さえ記されていませんが、背後に悔い改めの心を抱きつつの告白の時が与えらました。そんなペテロはもはや「たとい、みんなの者があなたにつまずいても」(マタイ二六・33)と、エンジンの空ぶかしの音ばかりが大きいかつてのペテロではなくなっていました。
復活の主との個人的な出会いは、人を聖徒と造りかえるばかりか、復活の証人とします。そして主は今日も「わたしに従ってきなさい」(22)と語られます。あなたにも私にも。
(祈り)復活の証人として今日も従えますように。
新聖歌 三八四

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

20170420_ヨハネ20

■題名 マリヤよ
金言 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。(16)
★世界で最初のクリスマス。救い主の誕生を告げる最初の御使いたちの知らせは、神様を礼拝することを土台として成り立つユダヤ社会において、安息日を守れないゆえに              人々に忘れ去られたかに見える、羊飼いにもたらされました。主が「私は他の誰があなたたちのことを忘れようとも、決して忘れてはいない」と示さんがごとくに。
では復活の主が最初にご自身を示された人々とはどんな人たちだったのでしょう。この章にはそのことが鮮やかです。マグダラのマリヤ(14)。確かにこのマリヤも、羊飼いたち同様、復活の主がご自身をあらわされたとしても、その証人にはなれない存在でした。
その後に主が姿をあらわしてくださった弟子たち(19)といえば、キリストの側についた者としてキリスト同様捕らえられ、ひどい目に合わされるかも知れないと、恐れに飲み込まれて、そこから一歩もでられなくされていた者たちでした。
そんな彼らではありましたが、ともに主を心から愛したいと願う者たちです。そんな思い以外何も持ち合わせない彼ら、主はそんな彼らを忘れてはおられず最初の復活の証人とされました。その目的は、人の知恵や頑張りに基づくのではなく、御力による復活の証人と彼らをするために。「安かれ」(19)と広げて示された釘跡のある両手は「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」(ヘブル九・22)の通りの律法の成就。更に「聖霊を受けよ」(22)と息を吹きかけつつ語られる主の姿は、「命の息をその鼻に吹きいれ」(創世記二・7)喜びをもって人を人となした主の姿を彷彿とさせます。まさに神様と人との完全な交わりの回復がキリストの十字架でなされ、その証明としてキリストは死人の中よりよみがえってくださいました。
(祈り)復活の主は、深い絶望、恐れの中でも何とか主を愛したいと願うこの私にも現れてくださることを感謝します。力強い復活の証人としてください。
新聖歌 三〇三

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

御影福音教会森英樹

20170419_ヨハネ11@01-44

■題名 あなたの兄弟はよみがえるであろう
金言 イエスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」。(23)
★「あなたの兄弟はよみがえるであろう」(23)とのみことばは、私自身復活の主から直接の語りかけをもって、いただいたみことばです。航空会社に就職するも学歴社会の現実を見せられた18歳の森君が、親元を離れ、コンプレックスに葛藤する中、自分を保ち、自分を守る術とは何だったでしょう。単に表面を装うものでしかなかったかも知れませんが、「誠実」という仮面を被ることでした。「森君は、好青年だね」と、ときに上司や先輩からいただく褒め言葉に悪い気はしませんでした。しかし「本当の私は決してそんな良い人間じゃない。何より強くない」。
そうした中で出会ったキリスト教異端、統一教会伝道ビデオで紹介されたローマ七章の御言葉は私にとって衝撃でした。
「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。……わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」。このみことばに心を刺し通され、そこからの救いがここにあると信じたからこそ、仕事を捨て、家族と友だちとの関係を断ち、私は統一教会に献身しました。にも関わらずそれが間違いだったとは。一年後、その間違いに気づかされた私は生きる気力を失いました。人の前ではとても言葉にできませんでしたが、その時こみ上げた思いは「何と言う愚かな決断を私はしてしまったんだ」との後悔と、「間違っていたかもしれない。けれど私だっていい加減な気持ちでやってたんじゃない。この気持ちを分かって欲しい。」との自己弁護のそれでした。
そんな中で、あわれみの御手を差し伸べつつ、主は「あなたの兄弟はよみがえるであろう」(23)と語りかけてくださいました。私は、この言葉とともに主の御手に掴まれて滅びの泥沼から引き上げられました。
確かに十字架にかかられた主は、今も生きておられ恵みを施してくださいます。
(祈り)復活のイエス様は確かに今も生きておられ、私に触れてくださることを感謝します。
新聖歌 二〇二

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

20170418_ルカ24

■題名 名もない私だけれど
金言 そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。(35-36)
★何という光栄でしょう。私も関西聖書神学校で一コマ授業を担当させていただいていますが、毎年最初の授業ではオリエンテーションも含めて学生ひとりひとりに救いと献身の証しを聞かせていただきます。確かにこの人も、この人も、主が召し出された器、そんな学生と、主の恵みを分かち合わせていただくことに感謝で、授業は毎回心が躍ります。そうした中でのある学生の献身の証しです。
「私のような者が、献身者なんかになれるはずがない。そもそも、やりたいことがあって……、けれどもかくかくしかじか、不思議な導きの中で献身の思いが湧いてきたとき『やっぱりだめ、私なんかだめ』と。しかしそのとき主はルカ二四章エマオ途上の弟子に私の心を向けてくださったんです。主と共にエマオ途上を歩いた弟子のうちのひとりの名は聖書に記されていない。にも関わらず、復活の証人として用いてくださるなんて。私もこの名前の記されていない弟子のわざならできるかも知れない。それを牧師先生に話したら、祈って神学校に行きなさいと言われたんです」。その証しが終わった時にも、確かに復活の主はそこに立ってくださって、そこを喜びで満たしてくださいました。
救われて間もなくただ主の愛に感動し、その愛に何とかお応えできたらと思う魂にとっては、復活の主がともに歩んでくださっているのに、そのお方が誰なのか、まさか「モーセや全ての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、解きあかしてくださる」(27)お方なんて分からない時もあるでしょう。しかし、主は、名のある人だけでなく、あなたが復活の証人として応答することを願ってくださっています。現に名のない彼が主を証ししたとき、そこに主は立ってくださったではありませんか。(36)
(祈り)復活の主は私が証人として立ち上がるとき、この私とも一緒にいてくださることを感謝します。
新聖歌 四二九

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

20170417_マタイ28

■題名 しかし、疑う者もいた
金言 そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。(17)
★復活の主が昇天前に弟子たちに語られた大宣教命令が、この章の中心であることはわかります。完全に成し遂げられた十字架の贖いゆえに、与えられた天上・地上にわたっての主の権威。ゆえに贖いによって、キリストの身体なる教会とされたお互いが、どちらの光がまぶしいか会堂の中で比べるのではく「世」に「出て行って」キリストを生きることの重要性も。光は闇の中で輝いてこそ意味があり、必要とされ、はじめて自己満足から解放されるのですから。またその時にこそ、召されたお互いは、ともにいてくださる主を最も近く感じることができることも。
しかしある方は、「疑う者もいた」(17)の言葉に捕らえられ、「復活の主を目の当たりにしても、私と同様に疑う弟子もいたんだ」と、そこに慰めを受け、そこから復活の意味を掘り下げる力が与えられ、やがて導かれ牧師になったと証しされました。
一体主はなぜよみがえられたのでしょう。あるいはよみがえらされたのでしょう。そもそも父なる神様が御子をさえ十字架につけることをご自身の計画とされたのは、裁きではなく、裁きの向こうにある回復が目的です。レストランの店長が求められるままにメニューを客に出すのは当然です。しかし客が精算抜きで店をあとにしようとするなら、当然店長はその客を帰すわけには行きません。けれど客が支払いを済ませたら、精算済みとして気持ちよくレシートを状差しに差通すのは当然でしょう。「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。」(コロサイ二・14)とはまさにそのことです。キリストの人類の罪に対する精算が完全なゆえに、父なる神様がそれを受け取り、その証明としてキリストを死人の中からよみがえらされたのです。ゆえにキリストを信じるあなたは決して罪に定められることはありません。
(祈り)父なる神様、感情ではなく復活の事実に基づく生き様によって、復活の主を証しできますように。新聖歌 三五九

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

20170416_マルコ16

■題名 ここにはおられない
金言 「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない」。(6)
★イエス・キリストの復活を思い返すとき決して忘れられない思い出がよみがえってきます。それは人生の迷いのゆえに入信してしまった統一教会から、故森山諭先生の説得によって何とか間違いに気づくことができた間もないときの聖地旅行の思い出です。キリストを救い主として受け入れつつも、なおカルトの後遺症のリハビリのためにもと、家族の愛に押し出され一緒にバプテスマの恵みにあずかった父とともに、森山先生が団長を務めてくださる聖地旅行に参加することがゆるされました。
ひとつひとつ訪れる場所で、先生は主がなしてくださった恵みのわざを紹介してくださいました。と同時にその旅の中で、主が私にも触れてくださり、私は自分の心が癒やされてゆくのを感じました。やがて到着した園の墓での出来事です。「ここと断定できる訳ではないかも知れないが、この様な岩を切り出して作った墓に、十字架から取り下ろされた主の体は納められたのです」と、ここでも先生は短く恵みを紹介してくださいました。
幸いにもその日は訪問者が少なかったようで、墓の中に入る機会が与えられました。順番が来て中に入ったとき、私は何とも言えない感情に捕らわれました。「私の罪が、主を十字架につけたんだ。こんな冷たいところに納められたのか」。気持ちは重くなり、良心が責められる思いでいっぱいです。しかしいつまでもそこに留まっている訳にはいきません。入口には次の人が待っています。重い心のままでしたが、出るために体の向きを変えたその瞬間、扉の内側に記された御言葉が私の目と心に飛び込みました。「He is not here, but is risen!」(ルカ二四・6)。私の心は一瞬に希望と確信へと変わりました。主はよみがえられました。主はよみがえられました。本当に主はよみがえられました。ハレルヤ!
(祈り)主はよみがえられましたから、どんな時にも絶望の淵にとどまる必要のないことを感謝します。
新聖歌 一二七

20170415_マルコ15@01-39

■題名 教会に行くな。教会たれ!
金言 そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。(38)
 昨年度、御影福音教会の役員会では会議の冒頭で分かち合うための学びのテキストに、デイビッド・プラット著「ラディカル」(ツラノ出版)を通してチャレンジを受け取りました。まさに「教会に行くな。教会たれ!」とは何とラディカル(根源的)な表現でしょう。この表現はある韓国の教会の牧師が、礼拝の通訳として立ったときのTシャツにあえてプリントした言葉とのこと。「私たちこそが教会。ゆえに私たちは教会に行くことはできません。むしろキリストの身体なる教会として生きることが求められているのです」と。
なぜそんな大胆なことを言い得るのでしょう。その根拠を「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」(38)にみることができるのではないでしょうか。年に一度大祭司だけが通ることがゆるされた幕。しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはゆるされなかった幕(ヘブル九・7)。それが人手によらず上から裂けたとは、「わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができる」(ヘブル十・19―20)ということ。
それは旧約においては神様の臨在と祝福を求めるとき「来なさい」との招きの言葉に励まされ幕屋(神殿)に近づかざるを得なかった神の民が、今は自分自身が神殿となって、神様の臨在を持ち運ぶもの(クリスチャン)ともされたと言うこと。またそれが「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」(ヨハネ二・19)との主の預言の意味の一つであるとは。「教会たれ!」の言葉に、キリストの身体なる教会に加えられた者として納得です。この世に出て行く者(マタイ二八・19)と、世の終わりまでともにいてくださる主に信頼してお従いしましょう。
(祈り)父なる神様、十字架の完全な贖いのゆえに主の臨在を持ち運ぶものとされたことを感謝します。  
新聖歌 三四一

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

20170414_マタイ27@45-56

■題名 その罪さえ赦される主の十字架
金言 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(46)
★昨日に続いての十字架の七言で、今日は後半部分です。「父よ、彼らをおゆるしください。」(ルカ二三・34)にはじまり「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ二三・46)との祈りで終わる七言ですが後半部の中心はこの四言です。
永遠のはじめからこのかた「神」と呼ぶよりも「父」と語りかけられるのが当然の、父なる神様と御子イエス様の関係です。それが「神」と呼ばざるを得ないとは。
そのことを思う時、統一教会によって迷わされた青年の救出のためにも命を削られた、荻窪栄光教会牧師、故森山諭先生のことが思い出されます。統一教会に入信後まだ間もない時に、先生から間違いを聞く機会が与えられた青年の中には「何だ、間違ってたんだ。これなら堂々とやめられる。」と発言した青年も。しかし、霊感商法の霊能者役として、先祖やパートナーあるいは子どものためにと多額の壺や高麗人参等を売りつけることさえさせられ、その結果いくつかの家庭が崩壊するのを目の当たりした青年はどうだったでしょう。とても「間違いだったんだ。助かった」と言う気にはなれず、そこから苦悩が始まるケースも。たとえ「イエス様を信じたら全ての罪が赦されるから」と言われても「この私が赦されるはずがない。ただで赦されるなんて、そんなことがあってはならない」と。そんな苦悩の中にある青年のために森山先生があえて語られた言葉はこうでした。「○○さん、赦されないんだよ。だからこそイエス様は、そのあなたの罪のためにも十字架の上に命を捨てて下さったんだよ。その罪の代価をご自身の命で支払うために」。その青年の目から涙が溢れ、同時にそこからその青年の新しい歩みが始まりました。
(祈り)父なる神様、自分ではどうにもならないと思っている、その罪さえ赦してくださる主の十字架に感謝します。
新聖歌 一〇八

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。



20170413_ヨハネ19@23-27

■題名 新しい神の家族誕生
金言 それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。(27)
★受難週に主が十字架上で語られた七言からみことばを味わうことは幸いです。
しかし、私は今日の金言、三言をどう受け取ってよいか長らくわからずにいました。そればかりか疑問さえ抱いていました。
一言の「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。(ルカ二三・34)は、愛と赦し以外入っていないキリストの心の表れのみならず、したたりおちる罪のない血潮を父なる神様に示しながらの律法の成就であると、感激をもって受けとめることが出来ました。二言の「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。(ルカ二三・43)は、罪人さえもパラダイスに入ることを可能とする、十字架の勝利ゆえの主の権威ですから、ただひれ伏して主に感謝を申し上げる以外にありません。
しかし続いてのこの三言を、皆さんはどのように受け取っておられるでしょうか。母マリヤをいたわるイエス様の愛の表れとも思えますが、それならなぜ「婦人よ」なのかと、何か胸に突っかかった思いを、私は長らくぬぐえませんでした。
ところが将来のために御影福音教会が、みなで教会とは何かを学び合っている時のこと、主が光を注いで下さいました。「これは血肉を越えて愛し合うようにと、十字架を通して主が生み出してくださる教会のあり方を、あらかじめ主ご自身が表現してくださったのではないか」。「主がご自身の命をかけて生み出してくださる神の家族のあり方ではないか」。私の胸の突っかかりはストンと落ちました。そして教会はプログラムに基づく集会や行事中心から、互いが受け取った御心の実現に向けて、支え合う神の家族御影福音教会としての共同体へと変わってきています。
(祈り)父なる神様、互いに愛し合うようにと命をかけて生み出してくださった神の家族としての共同体に、私も加えてくださったことを感謝します。
新聖歌 一四六

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

20170412_ルカ22

■題名 いつものようにいつもの場所で
金言 イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。(39-40)
★イエス・キリストの生涯にはゴルゴダの十字架のみならず、ゲッセマネの祈りというもうひとつの霊的な十字架があったとはよく聞くことです。ゲッセマネの霊的勝利ゆえの、ゴルゴダの十字架の勝利。ゆえに、信仰生活において「あなたも勝利ある生活をと願うならば、御前における隠れた祈りの生活を大切にしなさい」とお互いはどれほど教えられてきたことでしょう。
それにしても、弟子たちにさえ目を覚まして祈っていて欲しいと、繰り返し要請せざるを得ない主の霊的苦しみとは、どれほどのものだったのでしょうか。
しかしマルコの平行記事(一四・41)には「もうそれでよかろう。」との主の言葉が紹介されます。なぜ主はそう言い得たのでしょうか。
「イエス様は、その時、天のお父様の顔を見たんだよ。だから安心できて『もういいよ』と言うことができたんだよ。」とは、かつてジョージダンカン師がケズイックコンベンションで紹介してくださった教会学校の男の子の答えで、私の中に印象深く残っています。
決して自分のニーズのために神様を引っぱり回そうとするのとは違う、「いつものように、いつもの場所」で父なる神様の前に出て行き、父なる神様を愛そうとするイエス様の姿勢がここにはあります。人からの評価ではなく、父の顔を見ることを喜び、父の心を受け取って、それを行うことを喜びとする主の姿が。
主を愛するゆえの、私たちお互いにとっての「いつもの場所」とはどこでしょう。そこでの霊的勝利あってこその、主から託されたお互いの人生であることを思います。
(祈り)父なる神様、私にとっての「いつもようにいつもの場所で」の祈りを死守できますように。              
新聖歌 二七

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。


20170411_ヨハネ8

■題名 わたしもあなたを罰しない
聖書箇所 ヨハネ八章
金言 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。(11)
★ヨハネ五章で紹介されたベテスダの池での主による癒やしは、安息日の出来事でした。人が幸いを得ることより、自分たちの立場に固執する宗教指導者の憤りと妬みは、この癒やしのとき以来抑圧されたものとなって蓄積され、今やイエスを陥れるためには姦淫の現場で捕らえられたとはいえ、人の尊厳などお構いなし。彼らはどんな策略を練ることも恥じない者になりさがっていました。
「姦淫の場でつかまえた女をどうするのか」との問いに「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」は有名です。その結果婦人を裁く者は誰もいなくなりますが、主ご自身も「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と、これで一件落着のように見えます。しかし律法は「ちょっと待ってくださいイエス様。あなたが赦すと仰るのは勝手でしょう。しかし彼女は石打ちの刑で償わなければならない姦淫の罪を犯したのですよ。赦すとの宣言をなさるなら、その罪の責任はどうやって取るおつもりですか」と訴えます。そうして、前借りのように赦しを宣言した彼女の罪のためにも、主は十字架にかかられました。まさにご自身の死をもって罪人を赦すためにこられたキリストの姿が、この箇所にも鮮やかです。
かつてシナイ山にて、ご自身の指で十戒を記した主は、ここにおいてもひざまづき指で地面に何かを記されます。それはきっと、ご自身の命を捨てることを担保にした、「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネ十三・34)だったことでしょう。私の罪への赦しの宣言の背後にも、払われた主の大きな犠牲があったことを忘れてはなりません。
(祈り)父なる神様、「わたしもあなたを罰しない」との背後に、主の十字架があったことを覚え、その愛に応える生き方を今日も選びとれますよに。              
新聖歌 八九

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

20170410_詩篇40

題名 みこころを行うことを喜びます
聖書箇所 詩篇四〇章
金言 その時わたしは言った、「見よ、わたしはまいります。書の巻に、わたしのためにしるされています。(7)
★この詩篇四十章が開かれるとき、神学生時代に奉仕教会としてお世話になった御影福音教会牧師、故山田晴枝先生のことが思い出されます。「主が、罪に支配された人間の救いのために神であることをやめることができないとは考えないで、十字架への道を喜んで選んでくださったとするなら、どうしてこの私がそれ以外の道を選ぶことができるでしょう」。『 わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります』」(8)と、心を注ぎだして祈っておられた先生の、生き様と熱河宣教のお証しを忘れることができません。
昨年相模原の障害者施設で19名の命が奪われた事件は私にとって余りに衝撃でした。もしあの青年の心を聞いてあげる誰かがいたなら、あの様な最悪の事態になっていただろうか。そのときからこの御影の町のために私にもできることがあればと、週に一度阪神御影駅前の広場で「聞き屋」を始めました。
湧いて来る多少の恥ずかしさゆえに、躊躇する思いもありました。現に、高校教師を定年まで勤め上げた壮年の方に「何をやってるんですか。あっ、教会の牧師さんですか。牧師さんも大変ですね。こんなことまでしないといけない時代になったとは」と、少々上から目線の冷ややかな言葉を掛けられたこともありました。しかし不思議です。一歩踏み出し、継続していくとき私の心にも、「私は単に御影福音教会の牧師として遣わされているだけではないんだ。この御影の町の牧師として生きるようにと、神様がこの私をも召してくださったのではないか」との熱い思いと、喜びが心の内に湧いてきました。強いられてではなく、自ら進んであのゴルゴダの十字架をめざして進んでくださった主に、改めて感謝の思いが湧きあがります。
(祈り)父なる神様、十字架をめざして進まれたイエス様の御足の跡を歩めますように。              
新聖歌 四三〇

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

土曜日, 4月 08, 2017

20170409_創世記3

題名 律法主義的生き方からの回復
聖書箇所 創世記三章
金言 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。(21)
  「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」とは二章16節の主の言葉です。人が取って食べる(それによって生きようとする)とき、必ず死ぬ以外にないものとは何でしょう。まさにそれこそが、神様から離れ、自らの行いをもって神様の前に立とうする律法主義的生き方でしょう。
すでに「神のかたち」に似せて造られ、それゆえ唯一、畏れ多くも霊において神様と交わることのできるものとして造られた人アダム。にもかかわらず神様との豊かな交わりが失われてしまった理由はなんでしょう。それは試みる者の「それを食べると……神のように善悪を知る者となる」(三・5)とのそそのかしに捕らわれたことが原因です。主は創造のわざをすでに完成され「はなはだ良かった」(一・31)と語られたのにもかかわらず。試みる者の、そのそそのかしはありのままの自分では何か足りず、神様に受け入れてもらうためには、良い行いという自分の努力でなお補わなければならないかの印象を与えます。
さあその結果、誰かに認めてもらうための良い行いという皿回しの生涯のはじまりです。しかもこの皿回しは一度始めたら途中で止めることができないのです。まさにそれは死の道、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。」(ローマ七・24)との叫びをあげざるを得ない生涯の始まりです。そんな呪いの生涯を終わらせるために、父なる神様はアダムの子孫に救いの道を備えてくださいました。それが今日の金言です。罪のない動物がほふられ、血潮が流され、その犠牲によって、自分の身を守る衣がアダムとエバに着せられました。
(祈り)父なる神様、試みる者の誘惑によって、人はあなた以外で生きる道を選び取りました。しかしその直後に救いの道を備えてくださって感謝します。自らの行いに頼る皿回しではなく、あなたに信頼する生き方を全うさせてください。
新聖歌 二四七

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

20170408_2列王記21

■2列王記21:3 彼は、父ヒゼキヤが打ちこわした高き所を築き直し、バアルのために祭壇を立て、イスラエルの王アハブがしたようにアシェラ像を造り、天の万象を拝み、これに仕えた。 21:4 彼は、【主】がかつて、「エルサレムにわたしの名を置く」と言われた【主】の宮に、祭壇を築いたのである。 21:5 こうして、彼は、【主】の宮の二つの庭に、天の万象のために祭壇を築いた。
★一度は罪と示され捨て去ったものを、もう一度築き直そうとする。そこには明確な意志が働いています。こうなる前に人は、神様を畏れ、欲を捨て去って神様のあわれみをもとめなければなりません。そうでなければ滅びを自身の上に招きます。翻って考えれば、あなたとあなたの家族を永遠に祝福しようとしておられる神様がいらっしゃると言うことです。

金曜日, 4月 07, 2017

20170407_2列王記20

■2列王記20:19 ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた【主】のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は、平和で安全ではなかろうか、と思ったからである。
★病のゆえに間もなく死ぬはずのヒゼキヤが、神様への悔い改めによって寿命が15年伸ばされます。それに満足したヒゼキヤは伸ばされた寿命を何に使おうとしたのでしょうか。神様から生かされている人はその恵みに対する応答の動機は問われます。

木曜日, 4月 06, 2017

20170406_2列王記19

■2列王記19:30 ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。
 19:31 エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の【主】の熱心がこれをする。
19:34 わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」
★上のことばはアッシリアの王セナケリブの脅迫を受けた南ユダ王国の王ヒデキヤが「 【主】よ。アッシリヤの王たちが、国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。私たちの神、【主】よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、【主】よ、あなただけが神であることを知りましょう。」と祈った祈りに対する主からの答えです。主はご自身により頼もうとするあなたの祈りにも耳を傾けてくださいます。

御影福音教会森英樹

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水曜日, 4月 05, 2017

20170405_2列王記18

■2列王記18:29 王はこう言われる。ヒゼキヤにごまかされるな。あれはおまえたちを私の手から救い出すことはできない。
 18:30 ヒゼキヤが、【主】は必ずわれわれを救い出してくださる、この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない、と言って、おまえたちに【主】を信頼させようとするが、そうはさせない。
 18:31 ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリヤの王はこう言っておられるからだ。私と和を結び、私に降参せよ。そうすれば、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、また、自分の井戸の水を飲めるのだ。
★サタンが神の民から主への従順を奪おうとする常套手段です。恐怖、高圧、ときに詐りの平安、希望。しかしイエス・キリストはこれらの言葉を「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」と退けました。

火曜日, 4月 04, 2017

20170404_2列王記17

■2列王記 17:15 彼らは主のおきてと、彼らの先祖たちと結ばれた主の契約と、彼らに与えられた主の警告とをさげすみ、むなしいものに従って歩んだので、自分たちもむなしいものとなり、【主】が、ならってはならないと命じられた周囲の異邦人にならって歩んだ。
★イスラエルは偶像の性質を身につけ、周囲の神なき国々を真似ました。イスラエルは神のみことばに従うことの大切さと恩恵を忘れ去ってしまい、王も民も邪悪さに染まります。神様はたびたび、彼らがどれほど神様から離れているか警告し、呼び戻そうと預言者を遣わされました。神様の忍耐とあわれみは、私たちの理解を超えています。神様は選びの民が神様に応えるか、自らの決断と心がかたくななため、手の届かない所へ行ってしまうまで、選びの民を求め続けられます。神の審判は確実になされることを思うとき、いかに神様に信頼する安全な道を選択することの大切さを教えられます。

月曜日, 4月 03, 2017

20170403_2列王記16

■2列王記16:17 アハズ王は、車輪つきの台の鏡板を切り離し、その台の上から洗盤をはずし、またその下にある青銅の牛の上から海も降ろして、それを敷石の上に置いた。
 16:18 彼は宮の中に造られていた安息日用のおおいのある道も、外側の王の出入口も、アッシリヤの王のために【主】の宮から取り除いた。
★アハズ王は誰に気に入られようとしているのでしょう。誰に守ってもらおうとしているのでしょう。全焼のいけにえの祭壇をダマスコで見た異教の祭壇の複製と取り替え、青銅の祭壇は占いの用途に変え、祭司が自らをきよめるために使われた洗盤でいけにえを洗うとは。アッシリヤの属国であったため、南ユダ王国のアハズ王はアッシリヤの王を喜ばせることに熱心でした。どんなに魅力的な指導者であっても神様にその人物をとって変えることはできません。人を恐れると罠に陥ります。

日曜日, 4月 02, 2017

20170402_2列王記15

■2列王記15:34 彼は、すべて父ウジヤが行ったとおり、【主】の目にかなうことを行った。 15:35 ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。彼は【主】の宮の上の門を建てた。 15:36 ヨタムの行ったその他の業績、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。
★ユダ王としてのヨタムの治世については、おおむね良かったと言えます。他の王たちの荒廃ぶりを見るならすごいことです。しかし彼は最も重要な領域で失敗します。異教の神への妥協です。基本的に良い生き方ができても、心を尽くして神に従うことをしないなら、単なる自己実現の人生に。神様はそれ以上の人生を、選びの民に歩ませようとなさりたいお方です。

土曜日, 4月 01, 2017

20170401_2列王記14

■2列王記14:28 ヤロブアムのその他の業績、彼の行ったすべての事、および彼が戦いにあげた功績、すなわち、かつてユダのものであったダマスコとハマテをイスラエルに取り戻したこと、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。
14:28ヤロブアム2世は全く神様に献身しませんでしたが、その好戦的な政策と巧みな政権運営によって、イスラエルはソロモン王以降の時代で最も国力、物質的繁栄を誇ります。しかし、ヤロブアムの政権は、正義と公正という政策を無視するものでした。その結果、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなり、民は自己中心となり、神様よりも自分の力・安全・所有物に依り頼むようになりました。貧困者はあまりにもひどく抑圧されたので、自分たちの窮状に神様が気づいてくださったと信じることも難しい状態となりました。物質的な繁栄は、必ずしも神様の祝福を表すわけではありません。自己中心の結果、ということもあり得ます。人が繁栄を享受するとき、どのようにして成功を収め、富をどのように使うか、神様に説明する責任があることを忘れてはなりません。私たちが持っているものは、実はすべて神様から与えられたものであることを心に留める人は幸いです。