月曜日, 4月 10, 2017

20170412_ルカ22

■題名 いつものようにいつもの場所で
金言 イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。(39-40)
★イエス・キリストの生涯にはゴルゴダの十字架のみならず、ゲッセマネの祈りというもうひとつの霊的な十字架があったとはよく聞くことです。ゲッセマネの霊的勝利ゆえの、ゴルゴダの十字架の勝利。ゆえに、信仰生活において「あなたも勝利ある生活をと願うならば、御前における隠れた祈りの生活を大切にしなさい」とお互いはどれほど教えられてきたことでしょう。
それにしても、弟子たちにさえ目を覚まして祈っていて欲しいと、繰り返し要請せざるを得ない主の霊的苦しみとは、どれほどのものだったのでしょうか。
しかしマルコの平行記事(一四・41)には「もうそれでよかろう。」との主の言葉が紹介されます。なぜ主はそう言い得たのでしょうか。
「イエス様は、その時、天のお父様の顔を見たんだよ。だから安心できて『もういいよ』と言うことができたんだよ。」とは、かつてジョージダンカン師がケズイックコンベンションで紹介してくださった教会学校の男の子の答えで、私の中に印象深く残っています。
決して自分のニーズのために神様を引っぱり回そうとするのとは違う、「いつものように、いつもの場所」で父なる神様の前に出て行き、父なる神様を愛そうとするイエス様の姿勢がここにはあります。人からの評価ではなく、父の顔を見ることを喜び、父の心を受け取って、それを行うことを喜びとする主の姿が。
主を愛するゆえの、私たちお互いにとっての「いつもの場所」とはどこでしょう。そこでの霊的勝利あってこその、主から託されたお互いの人生であることを思います。
(祈り)父なる神様、私にとっての「いつもようにいつもの場所で」の祈りを死守できますように。              
新聖歌 二七

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。


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