月曜日, 4月 10, 2017

20170411_ヨハネ8

■題名 わたしもあなたを罰しない
聖書箇所 ヨハネ八章
金言 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。(11)
★ヨハネ五章で紹介されたベテスダの池での主による癒やしは、安息日の出来事でした。人が幸いを得ることより、自分たちの立場に固執する宗教指導者の憤りと妬みは、この癒やしのとき以来抑圧されたものとなって蓄積され、今やイエスを陥れるためには姦淫の現場で捕らえられたとはいえ、人の尊厳などお構いなし。彼らはどんな策略を練ることも恥じない者になりさがっていました。
「姦淫の場でつかまえた女をどうするのか」との問いに「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」は有名です。その結果婦人を裁く者は誰もいなくなりますが、主ご自身も「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と、これで一件落着のように見えます。しかし律法は「ちょっと待ってくださいイエス様。あなたが赦すと仰るのは勝手でしょう。しかし彼女は石打ちの刑で償わなければならない姦淫の罪を犯したのですよ。赦すとの宣言をなさるなら、その罪の責任はどうやって取るおつもりですか」と訴えます。そうして、前借りのように赦しを宣言した彼女の罪のためにも、主は十字架にかかられました。まさにご自身の死をもって罪人を赦すためにこられたキリストの姿が、この箇所にも鮮やかです。
かつてシナイ山にて、ご自身の指で十戒を記した主は、ここにおいてもひざまづき指で地面に何かを記されます。それはきっと、ご自身の命を捨てることを担保にした、「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネ十三・34)だったことでしょう。私の罪への赦しの宣言の背後にも、払われた主の大きな犠牲があったことを忘れてはなりません。
(祈り)父なる神様、「わたしもあなたを罰しない」との背後に、主の十字架があったことを覚え、その愛に応える生き方を今日も選びとれますよに。              
新聖歌 八九

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

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