水曜日, 7月 21, 2010

20100721_2サムエル6_エレミヤ11_マタイ22

■2サムエル6:16主の箱はダビデの町に入った。サウルの娘ミカルは窓から見おろし、ダビデ王が主の前ではねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。
★ここでサウルの娘ミカルは「ダビデをさげすんだ」と。しかし聖書はかつてのミカルのダビデへの思いを「サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。」と記します。当時は父であるサウル王がダビデの命をゆえなく狙っていた時でした。しかし今や、不従順の為に命を神によって絶たれた父サウル王の亡き後です。ダビデの神への姿勢が変わったわけではありません。ミカルの方が変わったのです。かつては王の娘として安定の中でダビデにあわれみを掛けたミカル。しかし今は妬みとさげすみが心に。人の心から湧きあがる愛について、どれほど人は父の影響を受ける事でしょう。だからこそ私たちは「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」天の父の愛でまず自らが受け止められる体験が生涯で決定的に重要なのです。

■マタイ22:21彼らは、「カイザルのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
★「税金をカイザルに納めることは法に適っているか。いないのか」。問をする宗教家の心に悪意のあることを読み取った主が彼らに答えた内容が上の御言葉です。大切なことは納税の義務の当然さと合わせ、「神のかたち」に似せて作られた人には「神に帰すべき当然の義務がある」と言うこと。しかし残念なるかな、宗教家はその義務とも言うべき真心と愛を主におささげすることが見えていなかったのです。「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。そしてあなたは命をかけた主の贖いで「神のかたち」を回復された「神のもの」。神様にお返しできる出来るものを持つ人の生涯がいかに光栄かを心に留め、感謝の中を歩みましょう。今日も一日、主はあなたを御自身の誇りとしてこの世に遣わして下さいます。ヒデ

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