木曜日, 7月 29, 2010

20100729_2サムエル15_エレミヤ19_ローマ3-4

■2サムエル15:4さらにアブシャロムは、「ああ、だれかが私をこの国のさばきつかさに立ててくれたら、訴えや申し立てのある人がみな、私のところに来て、私がその訴えを正しくさばくのだが」と言っていた。15:5人が彼に近づいて、あいさつしようとすると、彼は手を差し伸べて、その人を抱き、口づけをした。15:6アブシャロムは、さばきのために王のところに来るすべてのイスラエル人にこのようにした。こうしてアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ。
★ダビデ王に助けを求めて近づこうとする人々の前に立って、「私が王でさえあったなら」と語るアブシャロム。聖書はそんな彼の行為を明確に盗みと告発します。背後に自分の野望を隠し持ち、人に善意を施すこと。それは盗み、罪なのです。主よ、私たちが人の心を盗むことが有りませんようにお守り下さい。

■ローマ3:21しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。3:22すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。3:23すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、3:24ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
★ここには信仰義認と言うキリスト教教理が明確です。おこないではなく。おこないでは成し得ないために。だからこそ神様の恵みによって備えられた救い。それが福音で、ただ感謝して受け取る以外になく、そこでは誰も誇れませんし、いえ誇る必要がないのです。御子の命の代価によってなし遂げられた福音は値付けすることが出来ません。すなわち「誇るものは主を誇れ」です。どうか福音を理解し福音に生き、福音が輝くことができますように。ヒデ

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