■2サムエル2:14アブネルはヨアブに言った。「さあ、若い者たちを出して、われわれの前で闘技をさせよう。」ヨアブは言った。「出そう。」2:15そこで、ベニヤミンとサウルの子イシュ・ボシェテの側から十二人、ダビデの家来たちから十二人が順番に出て行った。2:16彼らは互いに相手の頭をつかみ、相手のわき腹に剣を刺し、一つになって倒れた。それでその所はヘルカテ・ハツリムと呼ばれた。それはギブオンにある。
★サウル王亡きあともサウルの兵士とダビデの兵士との間で憎み合いが。しかしよく考えるなら彼らは皆ヤコブの子孫、イスラエル12部族の一員で兄弟でした。一人の人の罪深さ、不従順がもたらす影響の大きさを思います。罪は決して自分だけに留まらず、結果的には最も愛する者をも巻き込むもの、だからこそ聖書は神の前に罪は告白し離れなさいと語るのです。
■エレミヤ8:10それゆえ、わたしは彼らの妻を他人に与え、彼らの畑を侵略者に与える。なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。8:11彼らは、わたしの民の娘の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。
★今や大国バビロンがイスラエルを飲み尽くそうとしているのに「大丈夫。大丈夫」とにせ預言者は語ります。しかし聖書は「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。」と警告します。大丈夫かどうかの規準は神の言葉。神の言葉に留まり続ける以外に自分を守る術はないのです。
■マタイ19:2 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」19:26イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
★「人には出来なくても神にはできる」これが聖書の語る究極です。それを実証したのが神たるキリストが人となって来られた受肉(クリスマス)であり身代わりの十字架です。信仰とはこのお方を見上げること。さあこの一日も主を仰ぎ、始めましょう。ヒデ
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