土曜日, 5月 22, 2010

20100522_ヨシュア8_イザヤ12_1テモテ1-3

■ヨシュア8:33全イスラエルは、その長老たち、つかさたち、さばきつかさたちとともに、それに在留異国人もこの国に生まれた者も同様に、主の契約の箱をかつぐレビ人の祭司たちの前で、箱のこちら側と向こう側とに分かれ、その半分はゲリジム山の前に、あとの半分はエバル山の前に立った。それは、主のしもべモーセが先に命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。8:34それから後、ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばを、ことごとく読み上げた。
★小さく見える不従順がもたらす災いの大きさを学び、アイの町の攻略に成功したイスラエルはその後、山間のあちらとこちらの二手に分かれて神の言葉を読み合いました。交読の始まりです。神の言葉は呪いと祝福からなりますが、どちらも軽んじることなく恵みの中で魂を扱われ続ける者とさせて頂きましょう。

■イザヤ12:1その日、あなたは言おう。「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」
★その通り。主の怒りの目的は怒りの為ではないのです。むしろ赦しです。だからこそ呵責のない怒りの後には受容と赦しがあるのです。

■1テモテ1:9すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、1:10不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。
★パウロが愛弟子テモテに宛てた手紙です。ここに律法理解の奥義があります。どこまでなら許され、どこからは越えてはならないのか。罪に定められないスレスレの線を生きよう。その価値観はやがて罪に捕らえられます。そうではなく大切なのは神の愛に対する応答の人生です。赦して下さった神様に喜ばれる生き方をしたい。そうなれば律法はもはや必要ないのです。ヒデ

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