■創世記21:1主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。21:2サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
★それはアブラハムに神様が「父のもとを出て私の示す地に行きなさい」と語られた25年目のことでした。確認しましょう。主が語られたことは必ず実現へと導かれるのです。その途中には一度ならず2度までも「これは私の妹です」と自らとサラの関係が夫婦であることを隠し、肉策我策、自己保身の心で問題に臨もうとしたことも否めません。それでも主は、ご自身を見上げるアブラハムに、その時その時関わって下さり、信仰の父と呼ばれる器へと立て上げて下さったのです。自分に失望してはなりません。主に望みをおくのです。「この私をも神様は造りかえることができる」。主はアブラハムのこの信仰のゆえに、彼を義とし、信仰の父、やがて神の友と呼ばれることを恥とされなかったのです。
■マタイ13:23ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
★道ばたに落ちた種。岩地に落ちた種。いばらの中に落ちた種。そして良い地に落ちたものは30倍60倍100倍と。しかし大事なことは、人の心に関して最初から良い地はないと言うことです。神の言葉に示されて、聖霊様のあたたかな配慮のもと、罪を悔い、弱さ傷を認めて、励ましを受け取った結果、実を結ぶ良い地とされるのです。悔い改めてない罪は自己弁護、自己保身をもたらし。癒されていない傷を認めない場合は、時には自分は無意識の中にあっても結果、攻撃的人生の中で相手を傷付けざるを得ません。赦しと癒しは既に主の中に。恐れないで心を開き神様の恵みの中に飛び込む時そこから神様の不思議がはじまります。ヒデ
月曜日, 1月 11, 2010
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