木曜日, 1月 21, 2010

20100121_創世36_詩篇38_マタイ23

■創世記36:6エサウは、その妻たち、息子、娘たち、その家のすべての者、その群れとすべての家畜、カナンの地で得た全財産を携え、弟ヤコブから離れてほかの地へ行った。36:7それは、ふたりが共に住むには彼らの持ち物が多すぎて、彼らが滞在していた地は、彼らの群れのために、彼らをささえることができなかったからである。36:8それでエサウはセイルの山地に住みついたのである。
★兄エソウの思いやりをここに見ます。筋で言うなら弟ヤコブが他の地へ行くべきでしょうか。この箇所を通して「立っていると思っている人は倒れないよう気をつけなさい」の御言葉を思い出します。人とは、どれほど多くの隠れた善意と愛によって支えられ生かされていることか。あるいは力を得、強くなった弟ヤコブに兄エソウはこのことを言い出しきれず仕方なく自ら他の地に移ったのかもしれません。ならば力とは何とむなしいもの。人の気持ちをねじ伏せ、人の善意さえわからなくさせ、成功はすべて私が……したからと自己満足の世界で終わらせてしまう。神様の恵みに、人の優しさに心向けましょう。そして感謝と愛を分かち合う生き方を歩みましょう。

■マタイ23:37ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
★この章は自らの力ある立場を利用し、多くの民衆をコントロールし苦しめていた律法学者、パリサイ人に対して主が呵責のない叱責を与えている箇所です。たとえば「彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。彼らのしていることはみな、人に見せるためです」と。しかしここで主の目には涙がありました。それはその叱責が単なる裁き、彼らを退けることが目的でないゆえです。私たちが常に受け取るべきはこの主の愛の心です。今日も主と共に歩みましょう。ヒデ

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