月曜日, 5月 30, 2011

20110530_レビ22@31-33_使徒20

■レビ22:32わたしの聖なる名を汚してはならない。むしろわたしはイスラエル人のうちで聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別した主である。22:33あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した者、わたしは、主である。」
★何が神様の前に「汚れ」かが具体的にこの章では紹介されます。しかしイスラエルは自分が神様に受け入れられるよう努力する必要があって聖を心がけるものではありません。既に主は「私があなたを聖別した」と神様の顧みの中に置かれているのです。だからこそ、生活の中で神様の御名を汚さないようにと、彼らは愛と感謝の動機で聖を求めるのです。それは贖われたクリスチャンにとっても同じで、受け入れられる為にではなく、既に受け入れられている自らゆえに、を動機として聖を求める人は幸いです。

■使徒20:35このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」
★聖霊様に示され死期を感じ「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」と語った最後のパウロの言葉が「受けるよりも与えるほうが幸い」であったことに、今日気づきました。終末のこの時代、主の教会とされたお互いは内向きであってはなりません。手をつなぎ合いましょう。出来ないことを数えるのではなく、どんなに小さいことであっても、できることを行動に移しましょう。それが自分の命をかけても惜しくない、命より価値あるものを見出した人の生き方です。ヒデ

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