木曜日, 6月 02, 2011

20110602_レビ27@30_使徒23

■レビ27:30こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。
★「人がもし、自分の○○を主に聖なるものとして聖別する時は……」で始まるレビ記最後の章ですが、旧約に示された聖別の基準は十分の一でした。ここが曖昧になる時、言葉を換えると神様の言葉より自分の思いが優先される時、聖別は絵に描いた餅となり、その人の生涯に祝福と命をもたらす力は失われます。では新約の基準は、すべては主のもの。そして喜んでささげるならです。遣わされた場所で、祝福の祭司として、その時その時、イエス様中心の価値観で歩ませて頂きましょう。

■使徒23:6しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」23:7彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。23:8サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。
★人の言い伝えを優先するパリサイ人とサドカイ人の特徴を見抜いた知恵によってパウロは身の危険から自らを守ります。結局のところ世を優先する価値観は一枚岩とはなり得ず、勝利を自らのうちに収めることは出来ません。遠回りに見えても、神様を畏れ、神の言葉に立ち続けるところに勝利はあります。「生きるにしても死ぬにしても、キリストが崇められるために」と語ったパウロの生き様と価値観から教えられましょう。ヒデ

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