月曜日, 6月 14, 2010

20100614_士師14-15_イザヤ38_2ペテロ1-2

■士師14:3すると、父と母は彼に言った。「あなたの身内の娘たちのうちに、または、私の民全体のうちに、女がひとりもいないというのか。割礼を受けていないペリシテ人のうちから、妻を迎えるとは。」サムソンは父に言った。「あの女を私にもらってください。あの女が私の気に入ったのですから。」14:4彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。そのころはペリシテ人がイスラエルを支配していた。
★その名を不思議とよばれる主によって地上に生を受けたサムソンの人生の一こまです。「異邦の娘をめとってはならない」との律法の中、サムソンが抱いたペリシテの娘をめとりたいとの思いは、主もゆるされた事だったとは。私たちはここから物事をみ言葉の規準で評価できる目を持つ必要と、その上で、なお主権的に許される主のわざのあることを教えられます。後になって始めて分かる世界、そこには信じる者の為に、すべての事を働かせて益として下さる神様の存在があるのです。仰ぎ、へりくだりましょう。

■イザヤ38:17ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。
★神から投ぜられる光ゆえの苦しみは無駄ではありません。むしろ人は自分の事が見えなさ過ぎ、知らなさ過ぎるのです。しかし私たちの苦悩を苦悩で終わらせないのが神の恵み。自分の本当の姿を知り、主を仰ごうとする人の罪を、主はご自身の後ろに投げ捨てられるのです。たまたまではありません。主が投げ捨てられたものを訴える者がもう一度拾って「これですよ。主よ」と差し出したとしても、同じように主はあなたの罪をご自身の後ろに投げ捨てられるのです。理由はあなたに請求すべき罪の負債は、キリストにあって徴収済だからです。それが十字架の効力です。キリストにあるあなたを誰も罪に定める事は出来ません。主はあなたの罪を永遠にご自身の後ろに投げ捨てられました。ヒデ

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