日曜日, 9月 25, 2011

20110925_ピリピ1

■ピリピ1:15人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。1:16一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、1:17他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。1:18すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。
★「いつも主にあって喜びなさい」と。喜びの書と呼ばれるピリピ書ですが、自分たちのグループでない者が福音を語った時、かつて12弟子たちは。「先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。」と語ります。が、パウロはここで「党派心からであろうと見せかけであろうと私は喜ぶ」と語ります。その心の広さの違いは何でしょう。自分の人生の評価の中心をキリストとするか、あるいは自分とするかの違い。また人を導くキリストの力への信頼でしょう。人の歓心を買うことに東奔西走する人生はむなしいものです。人生の焦点をキリストに合わせましょう。そして「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」と告白しましょう。やがての日あなたは御使いを通して、大きな冠をその頭にかぶらせられることでしょう。ヒデ

0 件のコメント:

コメントを投稿