土曜日, 10月 16, 2010

20101016_2歴代7_エゼキエル42_ヨハネ8

■2歴代7:13もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、7:14わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。
★神殿奉献の祈りをソロモンが祈り終えると、主は御自身の栄光をその宮に満ち溢れさせ、天からの火をもって、全焼のいけにえを焼き尽くされ、上の約束をソロモンに示されたのです。内容は、聞く、赦す、癒す、確立するです。かつて時代、この神殿の祈りに目を留められた主は、今やキリストの十字架を通してささげる祈りに目を留められ、耳を傾けられ事を為して下さいます。「神よ、私はこの取税人のような罪人でないことを感謝します」と祈ったパリサイ人ではなく、「罪人のこの私をおゆるし下さい」と祈った、取税人の祈りをお聞き下さった主は、今も変わることなく生き働いて下さることを心に刻みましょう。

■ヨハネ8:58イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
★イエス様のお生まれになった二千年前に、神様の語りかけに従って約束の地を見ずして出で立った信仰の父アブラハム。キリストは彼が生まれる前から「私はある」(エゴーエイミ)と語られました。「私はある」とは誰でしょう。イスラエルをエジプトの苦役から脱出させるためにモーセに現れた主ご自身です。主はモーセが「私が民の前で出エジプトの計画を説明した時、ではモーセよ、あなたに現れた神様の名前は何と言うのかと問われたたら、何と答えたらいいですか」に対して、御自身「私はある」だと語られました。私たちはこのお方によって「有らせられている存在」。しかしこのお方は常に「有ってあるお方」。キリストは神御自身。この事実に他の宗教にはない救いがあるのです。アブラハムに御自身を示し、十字架から甦られた主は、今も生きておられます。ヒデ

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