金曜日, 9月 04, 2009

20090904_2列王9_哀歌5_2コリント3-4

■2列王9:6エフーは立って、家に入った。そこで若い者は油をエフーの頭にそそいで言った。「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、主の民イスラエルの王とする。9:7あなたは、主君アハブの家の者を打ち殺さなければならない。こうしてわたしは、わたしのしもべである預言者たちの血、イゼベルによって流された主のすべてのしもべたちの血の復讐をする。
★イスラエルに混乱をもたらすバアルに仕える悪妻イゼベルとその夫アハブの悪政に義憤を感じていたエフー。神様はそんなエフーに「アハブの子ヨラム王を打ち殺しなさい」と。その時エフーは即座にヨラム王を討つ計画を実行するのです。神様は御自身の民の内面の汚れや、不道徳な行動について、「それを討ちなさい。明け渡しなさい」と指摘し私たちを罪から解放して下さろうとするお方です。エフーは即座に従い神様の祝福を受けましたが、さてあなたはいかがでしょう。従順をもって神様の備えたもう祝福を受け取るものでありましょう。

■1コリント3:7それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。
★パウロは語ります。教会とはどんなところでしょう。それはただ天のお父様と私たちの罪のために死んで甦ってくださったイエス様を心一杯誉めたたえ、希望を神様に向けるところです。ですから高ぶるものは引き下ろされ、謙る者には恵みが主より注がれるのです。さてそこで質問です。あなたが今日一日責任を負うべきお方は誰ですか。聖書は「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか」と語ります。主を恐れるあなたの心に主が自由の霊を豊かに注ぎ今日一日を祝福の中に導かれますように。ヒデ

木曜日, 9月 03, 2009

20090903_2列王8_哀歌4_2コリント1-2

■2列王8:5彼が王に、死人を生き返らせたあのことを話していると、ちょうどそこに、子どもを生き返らせてもらった女が、自分の家と畑のことについて王に訴えに来た。そこで、ゲハジは言った。「王さま。これがその女です。これが、エリシャが生き返らせたその子どもです。」8:6王が彼女に尋ねると、彼女は王にそのことを話した。そこで、王は彼女のためにひとりの宦官に命じて言った。「彼女の物は全部返してやりなさい。それに、彼女がこの地を離れた日から、きょうまでの畑の収穫もみな、返してやりなさい。」
★なんと不思議なことでしょう。イスラエルの王がエリシャの功績を語って欲しいとエリシャの僕ゲハジから聞いているとき、まさに今ゲハジが王に語ったその証詞の婦人が自分の家と畑の困窮の解決を求め王の前に訪れたのです。結果。王は特別な計らいをこの婦人に与えます。しかし聖書を見るとこの婦人はかつて神の預言者エリシャに好意を示し、助けた経緯があったのです。主は昔も今も「最も小さい者の一人にしたのはすなわち私にしたのである」とあなたの愛と善意に酬いて下さるお方です。ゆえに聖書は「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい」と語るのです。

■2コリント2:10もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。
★神様は御自身の僕パウロを通してここで祝福を受ける赦しの法則を明らかにします。赦しとは、赦しを選び取った後は裁きは神様に委ねることですよと、パウロはそれを「キリストの前で赦したのです」と表現します。単に心の思いの中だけでなく、あなたの赦しは、その結果が相手への愛の行動となって証しされるほどとなることが望ましいと語るのです。赦さない者の足もとをサタンは巧妙な策略をもってすくおうとしますが、キリストの御前で赦す者には歯が立ちません。サタンのわざを愛によって打ち砕きましょう。赦しを選び取る人に注がれる神様の酬いは測り知ることが出来ません。ヒデ

水曜日, 9月 02, 2009

20090902_2列王7_哀歌3_1コリント16

■2列王7:9彼らは話し合って言った。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」
★アラムの全軍に包囲されたイスラエル、結果城壁から一歩も外に出られなくなったイスラエルは極度の食料不足に見舞われ、サマリヤの城壁内では婦人が産み落とした子供を煮て食べるといった悲惨が。そうした中、重い皮膚病にかかりイスラエル社会から締め出された4人はどっちにしても死ぬなら、敵アラムの陣営に行って憐れみを求めよう。ヒョッとすると生かしておいてくれるかも。ところが行って見ると実際はアラムの全軍はどんな大きな軍隊に襲われたのかと思うほど、着るべき物、食べるべき物もそのままに慌てふためいて逃げ去っているではありませんか。上の言葉は、腹を満たし、奪えるものは奪おうとする中、我に返った4人が語った言葉です。
しかし、神様はこのことについて、誰も信じませんでしたが預言者エリシャを用いて「明日の今頃、全てのものがただで手に入り飢饉は解消されるだろう」と預言していたのです。
即ち困難の中にあればあるほどに神の言葉にこそ耳を傾ける価値を覚えましょう。神の言葉は、語られた通りに事を成し遂げるのです。しかも人々に実質ある希望をもたらす良き知らせは既にキリストによって成し遂げられているのですから。

■哀歌3:22私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。主の救いを黙って待つのは良い。人が、若い時に、くびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。主は、いつまでも見放してはおられない。
★それぞれに御言葉そのものを味わいましょう。主の祝福を祈ります。ヒデ

火曜日, 9月 01, 2009

20090901_2列王6_哀歌2_1コリント15

■2列王6:16すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。6:17そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
★アラムの王がイスラエルを倒そうと密室で策略を練るにも関わらず、果たしてどうしたことでしょう。立てた計画はことごとくイスラエルの王に筒抜けです。誰かスパイがいるのかと叫ぶアラムの王。何とその時、家来の一人はイスラエルの預言者エリシャの耳にはあなたが寝室で語られることでも筒抜けなのですと語ります。憤ったアラムの王はエリシャを討伐する軍隊をおくり、突然彼らがエリシャの召使の前に明け方あらわれた時、召使いは怖じ恐れますが、その時エリシャが語った言葉が上の御言葉です。あなたは知っていますか。神を畏れ、神を愛し、信頼する人のまわりには神様が御使いを送り、火の馬と戦車を持って、あなたに敵が手を掛ける事の出来ないように守って下さることを。私の霊の目を開いて下さいと祈りましょう。

■1コリント15:9私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。15:10ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
★上の言葉は主の弟子パウノの告白です。そう誰でもその生涯において主に敵対し、主の御心を痛めることもあるのです。しかし、パウロはたとえそれであっても、神の恵みは私を成長させ、私の人生を完成して下さいますと語ります。主に赦されて、主を信じて仰ぐ信仰。これこそがあなたを生かす信仰です。ハレルヤ。ヒデ

月曜日, 8月 31, 2009

20090831_2列王5 哀歌1 1コリント14

■2列王5:14そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
★これは重い皮膚病に冒されていたアラムの王の将軍ナアマンの皮膚を癒した行動です。妻に仕える若い奴隷がイスラエル出身で「イスラエルの預言者エリシャのところに行けばきっと癒して下さるでしょうに」との言葉を受けてナアマンは彼のもとを訪ねます。その時エリシャは使いをやって「ヨルダン川へ行って7度身を洗いなさい」と言うのです。てっきり預言者エリシャが患部見て心を痛め憐れみ、その上で手を動かし直してくれると思ったナアマンは、顔も出さないエリシャに、憤りを感じ預言者の言葉を退け国に帰ろうとするのです。しかし、その時知恵あるナアマンの僕は「もしも、むずかしいことを命じられたら、あなたはそれをなさるに違いありません。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか」と。
そして心を変え、自らのプライドを捨てナアマンが預言者の言葉に従った時、なんと皮膚病は癒されたのです。奇蹟です。不思議です。そうです。神様による癒し、救いの方法はまさに奇蹟です。そして私たちの癒しの為には神の奇蹟が必要です。頭をもたげるプライドに支配される事無く、語られる神の言葉への従順をもって神様の奇蹟を受け取りましょう。

■1コリント14:32預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。14:33それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。
★神様の御名による共同体の秩序と平和は何によって築かれるのでしょう。それは神の言葉への従順と聖霊様の導きです。ただよく犯す過ちは隠れた自分の欲求を聖霊様の導きとして受け取ろうとすることでそこに混乱が生じるのです。今日も砕かれ明け渡された心を持って神の言葉に従順しましょう。主はあなたを祝福して下さいます。ヒデ

日曜日, 8月 30, 2009

20090830_2列王4 エレミヤ52 1コリント12-13

■2列王4:2エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」
★エリシャのもとで神様に仕える一人の預言者が召され、彼が残した負債のゆえにその子供が貸し主に奴隷とされようとした時、エリシャがその子の母に語った言葉が上の御言葉です。家には何があるか。彼はその婦人が唯一持っていた壺に油を満たして、彼らを危機から脱出させます。あなたは、まさにこれが神様の方法である事をご存知ですか。人は窮乏に直面するとき、於かれた環境に支配され落胆します。が、見方や発想を変えると問題を解く糸口と祝福が、多くの場合そこに隠されているのです。その為に用いられるのが感謝の心。あなたはどんな時感謝をささげますか。聖書は「いつも喜び、絶えず祈り、全てのことについて感謝しなさい」と。なぜならそれが問題を祝福に変える鍵だから。

■1コリント13:4愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。13:5礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、13:6不正を喜ばずに真理を喜びます。13:7すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
★上の御言葉の「愛」の部分に自分の名前を入れてもう一度朗読してみましょう。そうすれば、聖霊様はいかに自分に愛がないことを示して下さる事でしょう。そう、それが、私たちの姿です。愛がない。だからこそ主を仰ぎ、主の憐れみを求めるのです。人間の愛には限界がありますが、主の十字架を仰ぐ者に注がれる神様の愛には限界がなく、それは私たちの限界を取り除き、自分自身から解き放ち、神と人を愛する者へと変えて下さいます。決断を持ってこの愛の中に飛び込みましょう。その時、主の愛があなたを支えて下さいます。ヒデ

土曜日, 8月 29, 2009

20090829_2列王3 エレミヤ51 1コリント11

■2列王3:11ヨシャパテは言った。「ここには主のみこころを求めることのできる主の預言者はいないのですか。」すると、イスラエルの王の家来のひとりが答えて言った。「ここには、シャファテの子エリシャがいます。エリヤの手に水を注いだ者です。」
★これはイスラエルに背いたモアブを懲らしめるため、イスラエルの王ヨラムの要請に応じて出陣したユダの王ヨシャパテが語った言葉です。1週間、荒野の旅を続ける中で水を使い果たし、思わぬ劣勢に追い込まれようとする中、預言者を通して神様の助けを求める姿勢を示したのです。その結果、部隊は守られ、そればかりか神様の奇跡的な介入の中、イスラエルに勝利をもたらします。試練や劣勢の中、右往左往する人もあれば、ヨシャパテのように神に心を向ける人も……。あなたは「静まって私こそ神であることを知りなさい」との御言葉をご存知ですか。神様は信じて仰ぐ人を助けて下さるお方です。

■エレミヤ51:36それゆえ、主はこう仰せられる。見よ。わたしはあなたの訴えを取り上げ、あなたのために報復する。わたしはその海を干上がらせ、その泉をからす。
★聖書は真の神様を畏れる者ためには立ち上がって、あなたの為に戦って下さる神様を示します。ゆえに報復は神様に委ねるのです。この正しい裁きをなさるお方に報復を委ねることが出来る魂は幸いです。

■1コリント11:11とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。11:12女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。
★聖書は、優劣ではなく祝福のための秩序を神様が自然界に設けられたことを教えます。あなたの生き方が今日も回りに潤いと命のハーモニーをもたらすものでありますように祝福します。ヒデ

金曜日, 8月 28, 2009

20090828_2列王1-2 エレミヤ50 1コリント10

■2列王2:9 渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように」と言った。
★ソロモンは主に願えと命じられたとき、民を正しく裁く知恵を求め、御心に適った願いゆえに豊かに聞き入れられました。そしてここでエリシャは預言者エリヤの継承者となることを求めたのです。難しい注文。この時エリヤは、そのことは最後まで歩みを、生活を共にする中で継承されることを示します。キリストの預言者とされた私たちも、自分を十字架につける生き方の中でキリストに似る者とされて行くのです。あなたは負うべき十字架を避け、あなたの中にキリストのかたちが造り上げられるチャンスを失ってはいませんか。

■エレミヤ50:34彼らを贖う方は強く、その名は万軍の主。主は、確かに彼らの訴えを支持し、この国をいこわせるが、バビロンの住民を震え上がらせる。
★あなたを解放されるお方は主です。

■1コリント10:13あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。10:14ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
★ここには試練の時に避けるべきことが明確です。何ですか。偶像礼拝です。試練の時にこそ私たちの内面は明らかにされ、弱さも露わにされますが、そこでこそ心を主に向け、主の脱出の奇蹟を見るのです。自分や偶像にではなく主にこそより頼み、神として崇めましょう。たとえ回りは八方塞がりでも主に向かうあなたの天は常に開かれています。ヒデ

木曜日, 8月 27, 2009

20090827_1列王22 エレミヤ49 1コリント8-9

■1列王22:34ところが、ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。そこで、王は自分の戦車の御者に言った。「手綱を返して、私を敵陣から抜け出させてくれ。傷を負ってしまった。」
★これは妻イゼベルによってイスラエルに偶像礼拝を持ち込み民を苦しめたアハブ王の最後です。彼は戦いに出るとき。「私は変装して戦いに行こう。でも、あなたは、自分の王服を着ていてください。」とユダの王ヨシャパテに語りますが、敵国アラムの王の目は誤魔化せても主の目は誤魔化せませんでした。国を滅ぼすほどの罪とは偶像礼拝を他にしてありません。しかし主は既にこの偶像礼拝の罪のためにもキリストを私たちの罪の身代わりに十字架に付け、救いの道を開いて下さっいました。いかに偶像礼拝から離れるか。まさにこれそこが人生の命題です。キリストを仰ぎましょう。

■1コリント9:22弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
★パウロは、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建て、人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」と語ります。そして全世界の異邦人の救いの為に生涯をささげたパウロの実際は、まさに幾人かであり、目の前の一人でした。私の話に耳を傾けてくれる人が三千人いたら、いや百人、五十人いたらではありません。まさに目の前の一人のために自分の命を注ぎ出そうとしたのです。それが主ご自身の生き方であり、パウロはそれを自らの生き方としたのです。一人の為にとは、それをしたあなたが公にしなければ、ほとんど明らかになることはない愛のわざです。即ちパウロは人々の関心を自分に向けさせるためではなく、ただキリストに仕えたのです。あなたは与えられた今日一日をいかに生きますか。ヒデ

水曜日, 8月 26, 2009

20090826_1列王21 エレミヤ48 1コリント7

■1列王21:25アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行った者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。
★アハブ王の幼児性には驚くべきものがあります。彼はイスラエルの王でありながら、宮殿のそばにあった民、ナボテのブドウ畑が欲しくなり、それ相当の代価で購入したいと申し出ますが、それがかなわなかった時、なんとふて寝をしていたと言うのです。そこに関わったのが過干渉で、全く神を畏れない悪妻イゼベル。あなた、どうしたのですか。アハブはこうこうしかじか、その理由を伝えます。ならば私があなたの為にそのブドウ畑を手に入れてあげましょうと、よこしまな者たちを雇ってナボテを殺し、さあナボテは死んだので、ぶどう園をあなたのものとするために出かけなさいとイゼベルは語るのです。そしてここにはそれを喜んで出かけるアハブの姿があるのです。なんと言う幼児性。夫と妻の関係ではなく、子供の事しか目にない愚かな母と幼稚な息子の関係です。王が男として立たなければ国は滅び、夫が男として立たなければ家は滅んでしまいます。幼児性を自らの中に温存するものではなく、主の前に差し出し癒しを受けることは幸いです。

■1コリント7:35ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。
★パウロはこの章で、主にある夫婦の有りよう、親子の有りよう、奴隷と主人の有りよう等を取り上げ、クリスチャンの生き方についてのアドバイスを書き送ります。が、その書き方は、……してはいけません。……が良いと思います。……のほうがもっと幸いです。私も神の御霊を頂いていると思います。と自分の分を弁えたもので、聖霊様よりも先んじることはありませんでした。人は慎み深いクリスチャンの発言と行動によって始めて慰め生かされます。逃げないで人と関わろうとしたパウロを温かみのある人格者として造り上げた主は、あなたもそのような温かみある人へと導いて下さるお方です。主を仰ぎましょう。ヒデ

火曜日, 8月 25, 2009

20090825_1列王20 エレミヤ47 1コリント6

■1列王20:34ベン・ハダデは彼に言った。「私の父が、あなたの父上から奪い取った町々をお返しします。あなたは私の父がサマリヤにしたように、ダマスコに市場を設けることもできます。」「では、契約を結んであなたを帰そう。」こうして、アハブは彼と契約を結び、彼を去らせた。
★主はイゼベルを妻とし、イスラエルをバアルの預言者によって悩ました優柔不断なアハブ王のもとにある民をあわれんで、アラムの王ベン・ハダデの剣から奇蹟をもって救われます。その時、主は勝利を収めたアハブ王にベン・ハダデを打てと命じますが、どうでしょう。アハブは彼と同盟を結んで帰すのです。結局のところいつも神を畏れず、優柔不断をもって自分の思いを優先させるアハブ。聖書はそのつけがやがて彼の子孫に及ぶことを語ります。優柔不断。それは神様に忌み嫌われるものであることを心に刻みましょう。

■エレミヤ47:6「ああ。主の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め。」
★剣は自分をも、相手をも共に傷付けるもの、ゆえにキリストにあって、あなたの剣をサヤに収めよと主は語られるお方です。剣ではなく神の前に湧きあがる思いを留めていた栓を抜き、その心を主の前に注ぎ出すのです。その時、主はあなたの心に神にある平安を創って下さるお方です。

■1コリント6:20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。
★聖書は「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません」と、全てが許されていることを教えますが、その中にあっても贖われた者としての歩みの尊さを教えます。即ちどんな時にも神様に愛されている存在であることを覚えていなさいと言うのです。それがあなたが生きるための規準です。ヒデ

月曜日, 8月 24, 2009

20090824_1列王19 エレミヤ45-46 1コリント4-5

■1列王19:4自分は荒野へ一日の道のりを入って行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」
★アハブ王に仕えるバアルの預言者450人と戦い、みごと彼らを討ち滅ぼしたエリヤ。しかしそのことゆえ、「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたの命をあの人たちのひとりの命のようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」と、怒りと憎しみをあらわに、アハブの妻イゼベルが告げたとき、たとえエリヤであっても上の言葉のように意気消沈し、40日間人の前に立てないほどの鬱症状に見舞われるのです。
バアルの預言者450人を一人で滅ぼした大預言エリヤの姿はどこに?しかし、これが人間の現実です。しかし、神様はエリヤを責められません。ゆっくりと彼の回復を見守り、やさしく声を掛けられるのです。しかも神様はエリヤにバアルにひざを屈めない7千人の預言者を残して下さっていましたが「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。彼らは私のいのちを取ろうとねらっています」と、エリヤは自分に囚われた言葉を語るのです。人間とは極度の緊張とそれに続く恐怖に、何と弱いものでしょう。しかもそれは一人の婦人から発せられた言葉に過ぎないのです。
ですから人は自分を過大評価することは禁物です。むしろ主は弱くて良い、弱いままで良い。と、しかし、その弱さの中にこそ私は働き「私の恵みはあなたに対して十分である」と主は告げられるのです。自らの弱さを知った者だけが、主を仰ぐことができ、そこら「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」と再び、この方の力によって立ち上がれる世界があることを受け止めましょう。あなたの弱さは既に主に受け止められていますか。それとも一人で頑張っていますか。さあ今日も主に自らを明け渡し、祈りをもって始めましょう。主はあなたを豊かに支えて下さるお方です。ヒデ

日曜日, 8月 23, 2009

20090823_1列王18 エレミヤ44 1コリント3

■1列王18:36ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行ったということが、きょう、明らかになりますように。
18:38すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。
★神様を畏れないアハブ王と彼に仕えるバアルの預言者450人と正面から戦う預言者エリヤ。彼はアハブ王に翻弄されるイスラエルの民に「火をもって答える神を神としなさい」。「あなたがたはいつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であればそれに従い、もしバアルが神ならそれに従え」と決断を迫ります。この所から主とはあなたの純粋な愛を求めるお方であることを知って下さい。そして神様に純粋に愛を返す者に、かつて火を下された主は、今やキリストの十字架の救いを通して、信じる者の心に聖霊の火を下して下さるお方です。決断のない信仰は二心の信仰、混ざった信仰で、神様の不思議を見ることが出来ません。どちらに転んでも大丈夫なように安全策を講じるのは人のすべき事ではありません。あなたのすべきは、ただ神様を信じ、神様の救いの不思議を見ることです。主は今も御言葉を通し、変わることなく「もし、主が神であればそれに従い、もしバアルが神ならそれに従え」と語られます。

■1コリント3:13その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。3:14もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。3:15もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
★キリストを信じるあなたの永遠は既に保証されています。だから、主の酬いに預かれる真心と良き行いは感謝の応答です。主はそこに生きるあなたの歩みを今週も喜び祝福して下さいます。ハレルヤ。ヒデ

土曜日, 8月 22, 2009

20090822_1列王17 エレミヤ43 1コリント1-2

■1列王17:3「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。17:4そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」
★この御言葉は、神様を畏れないアハブに対して「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」と、主から賜った言葉をエリヤが語った時、主が彼に語られた言葉です。神様は預言者の従順と存在を通して御自身が生けるお方であることを示されます。そして神様はこの時代の預言者としてあなたを召し出されたのです。主が語られる言葉への従順の大切さを心に留めましょう。

■1コリント1:18十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
★十字架とは何でしょう。それは罪の赦しであり、人間の罪の現実の現れです。律法主義や道徳教はいつの時代にも興っては消え興っては消えの繰り返しですが、そこには罪の明確な赦しがないのです。この世は十字架を愚かとし、それを退けようとしますが、何をそんなに恐れるのでしょう。主は既に全ての人のために命を捨てて下さったのに。解決のない戦いではありません。ゆえに自らの罪の内面を誤魔化すことなく、向き合うことを選び取り、主にある十字架の勝利を世に証詞しましょう。神の力は信じる者うちに豊かに働くのですから。ヒデ

金曜日, 8月 21, 2009

20090821_1列王16 エレミヤ42 マルコ16

■1列王16:25オムリは主の目の前に悪を行ない、彼以前のだれよりも悪いことをした。16:26彼はネバテの子ヤロブアムのすべての道に歩み、イスラエルに罪を犯させ、彼らのむなしい神々によってイスラエルの神、主の怒りを引き起こした。
★この章は「ヤロブアムのすべての道に歩み、イスラエルに罪を犯させ」と王位を受け継いだ王たちに4回連続で用いています。そして極めつけはオムリの子アハブで「彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであり、それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、それを拝んだ」とさえ記します。真の神様が見えなくなるとき、人は愚かとなり混乱、殺戮、権威争いの歴史を繰り返します。その上で「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」との主の御声を聞くあなたはいかに幸いな人でしょう。知って下さい。永遠の光を得たあなたは既に勝利者です。

■エレミヤ42:11あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな。彼をこわがるな。「主の御告げ」わたしはあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、彼の手からあなたがたを救い出すからだ。

■マルコ16:6青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
★そう主は確かに甦られました。そして主の救いを信じたあなたの中にも確かに生きておられます。そして今朝も「これは私の愛する子、私の心にかなう者である」と主は、あなたに対して語られるのです。ヒデ

木曜日, 8月 20, 2009

20090820_1列王15 エレミヤ41 マルコ15

■1列王15:4しかし、ダビデに免じて、彼の神、主は、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを与え、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。15:5それはダビデが主の目にかなうことを行い、ヘテ人ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられたすべてのことにそむかなかったからである。
★レハベアム王のあと南ユダ王国を治める事となったアビヤム。しかし聖書は彼の事を「彼は父がかつて犯したすべての罪を行い、彼の心は父ダビデの心のようには、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。」と記録します。にも関わらず受けるに相応しくない憐れみを彼は受けたのです。まさにそれが「ダビデに免じて」との恩寵でした。そして私たちは「キリストに免じて」との恩寵の中に迎え入れられたのです。主はあなたの犯した罪の量りに従って、計ることを決してなさらな事実を受け止め生きましょう。

■マルコ15:34そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
★マルコによる福音書のゴールデンテキストとも言うべき言葉がこの御言葉で、ここにはキリストの贖いの根拠が明確です。キリストは確かにここで父なる神様に捨てられました。今まで「父」と呼んでいたお方を「父」と呼び得ず「神」と呼ばざるを得なかったのです。捨てられる根拠のないお方が捨てられたのは、まさに自らの犯した罪のために捨てられて当然の私たちが捨てられなくても済むようになるためでした。キリストは神様の前に「神様、罪のない私がこうして血を流しつつ彼等のために血を流していますから、この私の血に免じて彼等を赦して下さい」と、取りなして下さったのです。聖書には「血をながすことなしには罪の赦しはあり得ない」とありますが、キリストは御自身の命を懸けてこの律法を全うされたのです。信じましょう。そして生きるのです。ヒデ

水曜日, 8月 19, 2009

20090819_1列王14 エレミヤ40 マルコ14

■1列王14:6アヒヤは戸口に入って来る彼女の足音を聞いて言った。「お入りなさい。ヤロブアムの奥さん。なぜ、ほかの女のようなふりをしているのですか。私はあなたにきびしいことを伝えなければなりません。
★サマリヤに自らの為、礼拝所を設けたヤロブアム王は、息子アビヤの病を案じて預言者アヒヤのもとに送ります。変装していたヤロブアム王の妻でしたが、神様は預言者に上の言葉を語らせたのです。主はなんでもお見通しであられる方であるこを覚えましょう。全てをご存知の上で赦される主。だからこそ、そこに救いがあるのです。あなたは自分を隠す必要がないのです。

■エレミヤ40:9そこで、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤは、彼らとその部下たちに誓って言った。「カルデヤ人に仕えることを恐れてはならない。この国に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたはしあわせになる。
★主がエレミヤに語られた言葉。まさにこれは新約の宣教方策以外の何ものでもありません。遣わされたこの世においてあなたは輝くのです。世を恐れてはなりません。むしろ世に生きる一人一人を愛するのです。

■マルコ14:36またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
★有名なゲッセマネの祈りです。確かにこの時、父なる神様に向かってささげるキリストの祈りは叶えられました。祈りの叶えられかたとは、そのまま願いが聞かれることもあるでしょう。しかし祈りを祈る側の存在が変えられることもあるのです。あなたは祈りを通して自分自身が変えられて行く恵みの世界を知っていますか。まさに真の神様のみがなし得る奇蹟です。主はあなたの生涯に介入し、力を注いて下さるお方であることを感謝しましょう。ヒデ

火曜日, 8月 18, 2009

20090818_1列王13 エレミヤ39 マルコ13

■1列王13:33このことがあって後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることもせず、引き続いて、一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした。13:34このことによって、ヤロブアムの家が罪を犯すこととなり、ついには、地の面から根絶やしにされるようになった。
★真の神様に礼拝をささげたいとの民の思いを偶像礼拝へと向かわせたヤロブアムの罪は重すぎます。なにゆえそんなことにと、その動機を探るときに、自らが王で居続けたいとの願望の為でした。偶像礼拝者のスピリットは見える形は違っても自ずと大切な人々を偶像礼拝へと導きます。神様以外のものを断固神としてはならないのです。

■エレミヤ39:17しかしその日、わたしはあなたを救い出す。主の御告げ あなたはあなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。39:18わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちはあなたの分捕り物としてあなたのものになる。それは、あなたがわたしに信頼したからだ。」
★リンカーンは神を信頼し、神の側に立ち続けることによって勝利を獲得しました。目に見える状況ではなく、御言葉と内なる聖霊様の声に従いましょう。

■マルコ13:30まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。13:31この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
★永遠に変わることのない主の言葉だからこそ、この言葉に信頼する私たちの人生は滅びることの無いものとして建て上げられることができるのです。知って下さい。神の言葉を心と霊で受け止めるあなたは、すでに永遠の存在とされているのです。今日も目先のことに右往左往するものではなく、神の言葉に基づいて判断する一日となりますように。ヒデ

月曜日, 8月 17, 2009

20090817_1列王12 エレミヤ38 マルコ12

■1列王12:26ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はダビデの家に戻るだろう。12:27この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」12:28そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」12:29それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。
★なんと言うイスラエルの悲しい歴史。このヤロブアム王の決断ゆえにイスラエルの礼拝に関する混迷の歴史が始まってしまいました。エルサレムかサマリヤか。しかし、そもそもの原因はこのヤラベアム王ではなくソロモンの息子レハベアム王の民への荒々しい言葉です。「私の父はおまえたちのくびきを重くしたが、私はおまえたちのくびきをもっと重くしよう。父はおまえたちをむちで懲らしめたが、私はさそりでおまえたちを懲らしめよう。」と。それに伴いイスラエル12部族は分裂したのです。しかし民を偶像礼拝へと導いたヤラベアムの罪が帳消しにされる訳ではありません。将来に向けて悔いの無い決断の大切さを覚えましょう。

■エレミヤ38:20エレミヤは言った。「彼らはあなたを渡しません。どうぞ、主の声、私があなたに語っていることに聞き従ってください。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたのいのちは助かるのです
★主に降伏するのはよいことです。奴隷ではなく罪から解放するために命を懸けて救いを成し遂げて下さったお方ですから。

■マルコ12:17するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。
★あなたの中には「神のかたち」が刻まれています。神様に向かって生きるためです。ささげましょう。輝くために。ヒデ

日曜日, 8月 16, 2009

20090816 1列王11 エレミヤ37 マルコ11

■1列王11:2この女たちは、主がかつてイスラエル人に、「あなたがたは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる」と言われたその国々の者であった。それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。
★なんと言う残念。ついに国が北と南の二つに分かれ、互いに争い合うその時が。聖書はその原因を、ここで「それなのに」と記します。あれほどのソロモンなのに。しかしソロモンとて例外ではありません。神の恵みを軽んじ、神様の戒めを脇に置き、私は大丈夫とおごる時、人は滅びる以外にないのです。馬鹿のようになって神の言葉に従うこと、これ以上に人に祝福をもたらし、勇気ある決断のないことを心に刻みましょう。ソロモンは神様からの警告を聞きつつも離れる決断をしなかったのです。

■エレミヤ37:18エレミヤはゼデキヤ王に言った。「あなたや、あなたの家来たちや、この民に、私が何の罪を犯したというので、私を獄屋に入れたのですか。
★エレミヤによる王への直言です。かつての「ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいか分かりません」とおじ惑うエレミヤの姿はありません。信じましょう。主は従う者を造り上げて下さるのです。

■マルコ11:5すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」11:6弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。
★主がエルサレム入場に用いられたのは戦車でも馬でもなく、弱々しげなろばの子でした。持ち主は、主のことばを語ると許してくれたとここは証しします。自らの生涯に「主の用なり」と御声が掛かった時あなたはどうでしょう。それを許しますか。許すとき、あなたが主を運ぶのではなく、主があなたを運んで下さることを信じて従う者でありましょう。ヒデ