金曜日, 9月 10, 2010

20100910_2列王16_エゼキエル6_ルカ2

■2列王16:7アハズは使者たちをアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに遣わして言った。「私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか上って来て、私を攻めているアラムの王とイスラエルの王の手から私を救ってください。」
★主が忌み嫌われる偶像礼拝によって、自分の子供を生け贄として祭壇の上で焼くことまでしたユダの王アハズは、試練の時、結局まことの主に拠り頼むのではなく、人にへつらい、人に頼む者へと堕ちました。ここに偶像礼拝の恐ろしさの本質があるのです。軽い気持ちで始めた偶像礼拝であったとしても、それは人にとって真により頼むべきものを見えなくさせてしまい、まことの救いの道を閉ざします。主より愛するものを持つこと、それが偶像礼拝です。そして、それはあなたを救うことはできません。自分の命を救うため、断じて聖別することが祝福です。

■ルカ2:49するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
★これはイエス様の少年時代が描かれた唯一の記述です。イエス様が宮もうでで迷子になってしまったと思った両親がイエス様を見つけた時、少年イエスは両親にこう語られたのです。そしてこの後イエス様は両親と共にガリラヤに下り、公生涯に立ち上がる時まで両親に仕えるのです。この時点でさえ、宮の中心で、集う教師達を驚かす知恵を持ったイエス様。ではいったいどうして神の御子たるこのお方が、異邦人のガリラヤと呼ばれる所に下ることを甘んじ、両親に仕えることができたのでしょうか。その秘訣がここにはあるのです。自分は「天の父」から遣わされたとの明確な自覚。それがここの答えです。あなたは遣わされた所においてピースメーカーですか。それともトラブルメーカーですか。「天の父」から遣わされた自覚が、あなたの置かれたところで、あなたをなくてはならない器へと形づくるのです。今日もあなたが遣わされた所に一緒に行って下さる主を意識し、さあ一日を始めましょう。ヒデ

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