水曜日, 1月 19, 2011

20110119_創世32-33_詩篇36_マタイ21

■創世記33:1 ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが四百人の者を引き連れてやって来ていた。ヤコブは子どもたちをそれぞれレアとラケルとふたりの女奴隷とに分け、33:2女奴隷たちとその子どもたちを先頭に、レアとその子どもたちをそのあとに、ラケルとヨセフを最後に置いた。33:3ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。33:4エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。
★兄をだまし、長子の特権と祝福を奪ったヤコブが21年ぶりに生まれ故郷に帰り、兄に対面しようとするとき最初に取った態度とは。400人の勇者を前に使わし、力で兄をねじ伏せようとするそれでした。それによって激怒する兄。そんな不遜な態度ででるならば、こちらも400人の勇士をもって迎えてやろうじゃないか。ヤコブはその兄の反応を恐れ、一行全員が皆殺しにされても自分は助かれるように、一番後にわが身を置きます。しかし、その夜あらわれた神様の使いとの霊的格闘で、霊的もものつがい「力の源」に触れられ、砕かれたヤコブは、自分の非を認め一番後ろからではなく、先頭にたって、謝罪の気持ちで兄に向かいます。なんとその結果、生まれたのが上の麗しい兄弟の再会の場面です。
人は問題の原因を外に見出し、それを指摘し叩き、他者を変えようとしますが、多くの場合うまく行きません。しかし、まず自分自身を掘り下げ、誤魔化さないで自分の非と向き合い、それを認め、主の前にひざまずき、あわれみを求めるなら、主は思わぬ恵みと祝福を与えてくださるのです。ヤコブはこの時、神様の使いにあなたの名はと尋ねられ時、はじめて自ら「私は押しのける者。ヤコブです」と応えます。祝福の鍵を握るのは人ではなく自分。変わることの出来るのも人ではなく自分。結果、主からヤコブではなくこれらイスラエル「神の皇太子」と呼びなさいと語られました。ヤコブとその信仰に生きる彼の霊的子孫の上に、今も後も代々限りなく神様の祝福がありますように。ヒデ

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