金曜日, 4月 22, 2011

20110422_創世15_ルカ6@27-49

■創世15:5そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」15:6彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
★ここに初めて神様が人を正しいとする原則が示されました。敬虔な生活、良き行い、それとも修業生活ですか。いいえ違います。ただ神様のみ力と、ご真実を信じる信仰です。使徒パウロはこのことをローマ人の手紙で「4:19アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。4:20彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、4:21神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」と記します。あなたは不信のゆえに神様を力なきものとし、不真実なお方としてはなりません。

■ルカ6:49聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」
★イエス様が山上の説教の結論として語られたのが上の御言葉です。「のろう者を祝福しなさい。さばいてはいけません。与えない。まず自分のめの梁を取りのけなさい……」。さて神様の言葉が私たちに与えられている本質は聞くためですか、それとも生きるためでしょうか。冒頭の御言葉の通りです。神様のみ言葉はそれ自体に力があるので、聞くだけでなく生きようとする時、力が現われること、それを生活の中で体験させて頂きましょう。あなたはアブラハムの子孫です。ヒデ

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