土曜日, 10月 03, 2015

20151003_エレミヤ50 ヨハネ9@1-23

■エレミヤ50:18 それゆえ、イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。「見よ。わたしはアッシリヤの王を罰したように、バビロンの王とその国を罰する。50:19わたしはイスラエルをその牧場に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食べ、エフライムの山とギルアデで、その願いは満たされる。50:20その日、その時、──【主】の御告げ──イスラエルの咎は見つけようとしても、それはなく、ユダの罪も見つけることはできない。わたしが残す者の罪を、わたしが赦すからだ。」
★その力の絶頂にあるときバビロンは無敵のように思われました。ユダへの罪の裁きのために神様から用いられたからです。役割を終えてもそのことに気づかずおごるバビロン。しかし砕かれた霊をもって主を待ち望むユダには神様の憐れみが注がれます。

■ヨハネ9:3イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。9:4わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。9:5わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
★今、負と思えることは救い主イエス様にあっては神様のわざがそこにあらわされる機会となります。ひとつの角度からの見方に縛られることなく、主とともに様々な違う角度からその負を見、主に聞く心を持つことは大切です。

0 件のコメント:

コメントを投稿