金曜日, 4月 17, 2015

20150417_ヨブ5 ルカ6@1-26

■ヨブ5:8 私なら、神に尋ね、私のことを神に訴えよう。
★3人の友はともにサタンと神様との会話は知らない。しかしエリファズは「私なら……」と、確かに「5:17 ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。5:18神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいやしてくださるからだ。」等、主張は正しい、しかしそれ以上に人は神様のご計画の全容を見極めることはできないことを心に留めることが幸いである。

■ルカ6:9イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」6:10そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。6:11すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。
★愛することを見て感動するのではなく分別を失う宗教指導者。彼らをそうさせたのは彼らが内に持つ、彼らの価値観のゆえでした。何のために神を信じるのか。自らの地位の確立のため神様を利用するためか、それとも神様に仕えるためか。その動機を探られることは大事です。

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