木曜日, 5月 11, 2017

20170511_ピリピ3

■ピリピ3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。 3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、 3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
★キリストにある復活の力を知るパウロの生き方は与えられた今日を精一杯生きようとするそれです。いつ神様の前に召されようとも、たとえそれが今日であったとしても、悔いなく立つために。主はすでにあなたのためにも「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」との言葉を用意してくださっています。

水曜日, 5月 10, 2017

20170510_ピリピ2

■ピリピ2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
★もし、高くあげられたいとの願を持つ人があれば、ここで語られた「それゆえ」の意味を理解することが重要です。何故にとの、その答えは「2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(2:6-8)とのキリストの姿勢のゆえでした。
神様は、みこころのままに、あなたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるお方。しかもそれは人との比較は無意味なものとして。 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いましょう。そもそも主はあなたを高く星のように輝かせたいと願っておられるお方です。

火曜日, 5月 09, 2017

20170509_ピリピ1

■ピリピ1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。
★この価値観・確信に生きることが「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」(27)と語るパウロの生き方で、さらにパウロは「どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられること」が自らの願い。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」(21)と告白しました。
贖い主なる神様はあなたの救いを途中で放棄されることはありません。それがどんな理由であっても。「わたしは持ち運び、かつ救う」と。

月曜日, 5月 08, 2017

20170508_エペソ6

■エペソ6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
 6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。
 6:5 奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
 6:9 主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。
★教会について記されたエペソ人への手紙。その結論としてここに記されているのは子どもたちよ、父たちよ、奴隷たちよ、主人たちよ、との呼びかけです。すなわち教会とは人々のことで、決して建物のことではありません。あなた自身。遣わされたところで教会として生きるためです。そこに主は共にいて下さいます。

日曜日, 5月 07, 2017

20170507_エペソ5

■エペソ5:13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
 5:14 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
★神様の恵みを反映する生涯へとあなたは召し出されました。ハレルヤ!

土曜日, 5月 06, 2017

20170506_エペソ4

■エペソ4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
 4:31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
 4:32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
★キリストのみ身体なる教会として、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とを求めるキリスト者の生き方です。人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略にもてあそばれたりすることがないよう、委ねられた賜物を管理しつつ歩ませて頂きましょう。

金曜日, 5月 05, 2017

20170505_エペソ3

■エペソ3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、 3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
 3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。 3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
★主が誰であるかを知り、主から受けた愛のゆえに、教会のために命をささげる覚悟をしたパウロの祈りです。

木曜日, 5月 04, 2017

20170504_エペソ2

■エペソ2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。 2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。 2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、 2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。
★「こういうわけで」とは、キリストの十字架の贖いのゆえにということです。ここにはキリスト者が何のために召し出されたかが明確で、神の御住まいとなるためです。ではそのキリスト者の元々はというなら、罪と罪過に死んでいた私です。ここに神様の恵みとあわれみに富むご計画が明らかにされました。

水曜日, 5月 03, 2017

20170503_エペソ1

■エペソ1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、 1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。 1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。 1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
★ここでいう教会とは、世界に広がるただ一つのキリストの身体なる教会。すなわちキリストを信じる、全世界にひろがる人々のことです。神様は私たちに神ご自身であるキリストを与えてくださいました。

火曜日, 5月 02, 2017

20170502_2列王記25

■2列王記25:27 ユダの王エホヤキンが捕らえ移されて三十七年目の第十二の月の二十七日に、バビロンの王エビル・メロダクは、彼が王となったその年のうちに、ユダの王エホヤキンを牢獄から釈放し、
 25:28 彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。
★列王記は、私たちが神様よりも別のものを優先し、共倒れに終わる提携関係を作り、神様への畏れに対する感覚が鈍り、神様が人生に与えられた目的を見極めることができなくなったときに何が起こるかを描いています。私たちはユダやイスラエルの民のように失敗するかもしれません。しかし、神様のお約束は成就します。神様はいつも、私たちが人生を正し、やり直せるよう助けてくださるお方です。それが、エズラ記に記されます。民が自分の罪を認めたとき、神はイスラエルの帰還と復興とを喜んで助けてくださいました。

日曜日, 4月 30, 2017

20170430_2列王記23

■2列王記23:25 ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、【主】に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。
★ヨシヤとヒゼキヤ(18:5)はどちらも神様を畏れたことでたたえられています。ヒゼキヤは神様への信頼(信仰)が最も深かったと言われ、一方ヨシヤは神の律法に従うこと(従順)において最も優れていたと言われています。私たちも神様への信頼と従順な行動において、2人に倣う者でありましょう。

土曜日, 4月 29, 2017

20170429_2列王記22

■2列王記22:11王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。22:13 「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、【主】のみこころを求めなさい。私たちの先祖が、この書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについてしるされているとおりに行わなかったため、私たちに向かって燃え上がった【主】の憤りは激しいから。」
★ヨシヤが律法を聞いたとき、彼は失意のあまり衣を裂き、すぐに改革を実行します。神の律法を一読しただけで、彼は国の道筋を変えます。お互いは、神様のみことばから見つけた真理にどんな反応を示すでしょうか。当時邪悪な王が続いたために神様の言葉は隠されていましたが、当時26歳であったヨシヤは、国中に宗教改革を行おうとします。国を神のご命令に沿うものとするには劇的な変革が必要であるにもかかわらず。今朝、神様のみことばはお互いの手に委ねられています。人生をみことばに沿わせるために、どんな決断をお互いはするでしょうか。

金曜日, 4月 28, 2017

20170428_ガラテヤ6

■ガラテヤ6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
 6:9 善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
 6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
 6:16 どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。
★自らの行いによる義ではなく、イエス・キリストの恵みによる新創造に生かされ続けましょう。栄光から栄光へと。

御影福音教会森英樹

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木曜日, 4月 27, 2017

20170427_ガラテヤ5

■ガラテヤ5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
 5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
 5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
★人を奴隷にする律法と、キリストにある恵みの両方に足を掛けては、前に進むことができません。大切な事は、キリストが示してくださった愛への感謝の応答としての御霊によるあゆみ。信仰生活です。

水曜日, 4月 26, 2017

20170426_ガラテヤ4

■ガラテヤ4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
★良き行いをもって自らを義としようとする律法主義と、信仰によってイエス・キリストの十字架の贖いと復活を生きることの狭間で、行ったり来たり。なお迷いの中にあるキリスト者に向かいパウロが語ります。二度と律法をもって奴隷の鎖に繋がれてはなりませんと。

火曜日, 4月 25, 2017

20170425_ガラテヤ3

■ガラテヤ3:23 信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
 3:25 しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
 3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
 3:28 ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
 3:29 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
★律法とはあくまで人をキリストにまで導く養育係。「むさぼってはならない」との律法がなければ、私たちはむさぼりが何であるかを知らないものでした。しかし今や、キリストの救いを受けてお互いは赦された者。自由の身とされました。

月曜日, 4月 24, 2017

20170424_ガラテヤ2

■ガラテヤ2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 2:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」
★教会の指導者であったペテロでさえもユダヤ人の評価をおそれて、人の救いにはキリストだけで十分との立場から一歩後退します。それが間違いであることをハッキリと指摘した後、パウロは自分の信仰を告白します。それが上記の告白です。唯一キリストにあって死に、キリストによって蘇らされた者として生きる。お互いもいつの間にか福音に余計なものを付け福音の輝きを消すことがありませんように。

日曜日, 4月 23, 2017

20170423_ガラテヤ1

■ガラテヤ1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。
 1:8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
★「ほかの福音」を宣べ伝える人々は、異邦人信者は、ユダヤ人の律法と慣習、特に割礼の儀式に従わなければならない、キリストへの信仰では十分ではない、と説きます。この教えは、救いは賜物であり、行いへの報酬ではないという真理をひそかに傷つけることになります。イエス・キリストは、ユダヤ人だけではなくすべての人にこの賜物が得られるようにされました。救われるためにはキリストへの純粋な信仰以上のものが必要であると言う人に気を付けなければなりません。救いに追加の条件を掲げることは、十字架上でのキリストの死と復活の力を否定することになります。

金曜日, 4月 21, 2017

月曜日, 4月 10, 2017

20170422_2コリント5

■題名 死んでよみがえったかたのために
金言 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。(15)
★この私のためにも、十字架にまでご自身の命を捨ててくださったイエスの愛に感動し、何とかそのご愛に報いる者であれたならばと、心の内に献身の思いが芽生えはじめていた頃の思い出です。そうはいっても、とても「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」(イザヤ六・8)といえるような者ではありません。そんな青年時代、私は何かの発送奉仕を当時荻窪栄光教会の婦人牧師でいらっしゃった故森山信子先生と一緒にさせていただいた時、「信子先生はどうして献身しようと思われたんですか」とおたずねしました。
その時の先生から返ってきた言葉が、金言の(15)節と、「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」(二テモテ二・8)でした。
「私に与えられている賜物は人と比べるとわずかなものかも知れないわ。そうね。例えるならマタイ二五章のタラントの例えの一タラント託された僕かも知れないわ。でもね、どんなにわずかであっても、託されものがわずかだからと言って、それを隠しておくことは主に愛されている者としてできなかったのよ」。「私のために死んでよみがえってくださった方のためにね」。
信子先生が主の恵みを振り返りながらしてくださった証しは、私にとってどんな大伝道者が語る説教よりも励ましに満ち、私の心を揺り動かすものでした。
主がご自身の復活の証人となることを願っておられるのは、特別な人だけではありません。それはご自身の血潮によって罪の滅びより贖い出された全てのキリスト者への願いであり、遣わされた生活の場で復活のキリストを生きることが求められています。
(祈り)わたしのために死んでよみがえってくださった方の愛と恵みを、生き様を通して等身大で証しする復活の証人とさせてください。
新聖歌 三八六

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

20170421_ヨハネ21

■題名 あなたは、わたしに従ってきなさい
金言 イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。(22)
★それにしても、あの大祭司の邸宅の中庭で「わたしはその人を知らない」(ルカ二二・57.60)と、三度も否んでしまったペテロの心の重荷はいかばかりだったでしょうか。振り向いた主のまなざしはゆるしに満ちたものであったでしょうから、なおさらです。それはまさに「あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ二二・32)と語られた通りの優しさだったでしょう。
いかにしてペテロは、主を裏切ってしまったゆえに抱え込んでしまった良心の責めをぬぐい去ることができるでしょう。その苦しい思いは、主に知っていただき、理解し、赦していただく以外に、自分のわざや頑張りではどうにもなりません。そのことを誰よりも承知の復活の主は、これで三度目、ペテロを励ますためにといってよいほどに、親しく語りかけてくださいました。
「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」(15)。
「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」(16)。
「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」(17)。
「あなたがご存じです」と応える以外にない、主からの問いかけです。ペテロはその問いの中で自分がどんなものであったかを知らされるばかりでなく、言葉さえ記されていませんが、背後に悔い改めの心を抱きつつの告白の時が与えらました。そんなペテロはもはや「たとい、みんなの者があなたにつまずいても」(マタイ二六・33)と、エンジンの空ぶかしの音ばかりが大きいかつてのペテロではなくなっていました。
復活の主との個人的な出会いは、人を聖徒と造りかえるばかりか、復活の証人とします。そして主は今日も「わたしに従ってきなさい」(22)と語られます。あなたにも私にも。
(祈り)復活の証人として今日も従えますように。
新聖歌 三八四

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

20170420_ヨハネ20

■題名 マリヤよ
金言 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。(16)
★世界で最初のクリスマス。救い主の誕生を告げる最初の御使いたちの知らせは、神様を礼拝することを土台として成り立つユダヤ社会において、安息日を守れないゆえに              人々に忘れ去られたかに見える、羊飼いにもたらされました。主が「私は他の誰があなたたちのことを忘れようとも、決して忘れてはいない」と示さんがごとくに。
では復活の主が最初にご自身を示された人々とはどんな人たちだったのでしょう。この章にはそのことが鮮やかです。マグダラのマリヤ(14)。確かにこのマリヤも、羊飼いたち同様、復活の主がご自身をあらわされたとしても、その証人にはなれない存在でした。
その後に主が姿をあらわしてくださった弟子たち(19)といえば、キリストの側についた者としてキリスト同様捕らえられ、ひどい目に合わされるかも知れないと、恐れに飲み込まれて、そこから一歩もでられなくされていた者たちでした。
そんな彼らではありましたが、ともに主を心から愛したいと願う者たちです。そんな思い以外何も持ち合わせない彼ら、主はそんな彼らを忘れてはおられず最初の復活の証人とされました。その目的は、人の知恵や頑張りに基づくのではなく、御力による復活の証人と彼らをするために。「安かれ」(19)と広げて示された釘跡のある両手は「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」(ヘブル九・22)の通りの律法の成就。更に「聖霊を受けよ」(22)と息を吹きかけつつ語られる主の姿は、「命の息をその鼻に吹きいれ」(創世記二・7)喜びをもって人を人となした主の姿を彷彿とさせます。まさに神様と人との完全な交わりの回復がキリストの十字架でなされ、その証明としてキリストは死人の中よりよみがえってくださいました。
(祈り)復活の主は、深い絶望、恐れの中でも何とか主を愛したいと願うこの私にも現れてくださることを感謝します。力強い復活の証人としてください。
新聖歌 三〇三

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

御影福音教会森英樹

20170419_ヨハネ11@01-44

■題名 あなたの兄弟はよみがえるであろう
金言 イエスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」。(23)
★「あなたの兄弟はよみがえるであろう」(23)とのみことばは、私自身復活の主から直接の語りかけをもって、いただいたみことばです。航空会社に就職するも学歴社会の現実を見せられた18歳の森君が、親元を離れ、コンプレックスに葛藤する中、自分を保ち、自分を守る術とは何だったでしょう。単に表面を装うものでしかなかったかも知れませんが、「誠実」という仮面を被ることでした。「森君は、好青年だね」と、ときに上司や先輩からいただく褒め言葉に悪い気はしませんでした。しかし「本当の私は決してそんな良い人間じゃない。何より強くない」。
そうした中で出会ったキリスト教異端、統一教会伝道ビデオで紹介されたローマ七章の御言葉は私にとって衝撃でした。
「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。……わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」。このみことばに心を刺し通され、そこからの救いがここにあると信じたからこそ、仕事を捨て、家族と友だちとの関係を断ち、私は統一教会に献身しました。にも関わらずそれが間違いだったとは。一年後、その間違いに気づかされた私は生きる気力を失いました。人の前ではとても言葉にできませんでしたが、その時こみ上げた思いは「何と言う愚かな決断を私はしてしまったんだ」との後悔と、「間違っていたかもしれない。けれど私だっていい加減な気持ちでやってたんじゃない。この気持ちを分かって欲しい。」との自己弁護のそれでした。
そんな中で、あわれみの御手を差し伸べつつ、主は「あなたの兄弟はよみがえるであろう」(23)と語りかけてくださいました。私は、この言葉とともに主の御手に掴まれて滅びの泥沼から引き上げられました。
確かに十字架にかかられた主は、今も生きておられ恵みを施してくださいます。
(祈り)復活のイエス様は確かに今も生きておられ、私に触れてくださることを感謝します。
新聖歌 二〇二

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

20170418_ルカ24

■題名 名もない私だけれど
金言 そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。(35-36)
★何という光栄でしょう。私も関西聖書神学校で一コマ授業を担当させていただいていますが、毎年最初の授業ではオリエンテーションも含めて学生ひとりひとりに救いと献身の証しを聞かせていただきます。確かにこの人も、この人も、主が召し出された器、そんな学生と、主の恵みを分かち合わせていただくことに感謝で、授業は毎回心が躍ります。そうした中でのある学生の献身の証しです。
「私のような者が、献身者なんかになれるはずがない。そもそも、やりたいことがあって……、けれどもかくかくしかじか、不思議な導きの中で献身の思いが湧いてきたとき『やっぱりだめ、私なんかだめ』と。しかしそのとき主はルカ二四章エマオ途上の弟子に私の心を向けてくださったんです。主と共にエマオ途上を歩いた弟子のうちのひとりの名は聖書に記されていない。にも関わらず、復活の証人として用いてくださるなんて。私もこの名前の記されていない弟子のわざならできるかも知れない。それを牧師先生に話したら、祈って神学校に行きなさいと言われたんです」。その証しが終わった時にも、確かに復活の主はそこに立ってくださって、そこを喜びで満たしてくださいました。
救われて間もなくただ主の愛に感動し、その愛に何とかお応えできたらと思う魂にとっては、復活の主がともに歩んでくださっているのに、そのお方が誰なのか、まさか「モーセや全ての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、解きあかしてくださる」(27)お方なんて分からない時もあるでしょう。しかし、主は、名のある人だけでなく、あなたが復活の証人として応答することを願ってくださっています。現に名のない彼が主を証ししたとき、そこに主は立ってくださったではありませんか。(36)
(祈り)復活の主は私が証人として立ち上がるとき、この私とも一緒にいてくださることを感謝します。
新聖歌 四二九

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

20170417_マタイ28

■題名 しかし、疑う者もいた
金言 そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。(17)
★復活の主が昇天前に弟子たちに語られた大宣教命令が、この章の中心であることはわかります。完全に成し遂げられた十字架の贖いゆえに、与えられた天上・地上にわたっての主の権威。ゆえに贖いによって、キリストの身体なる教会とされたお互いが、どちらの光がまぶしいか会堂の中で比べるのではく「世」に「出て行って」キリストを生きることの重要性も。光は闇の中で輝いてこそ意味があり、必要とされ、はじめて自己満足から解放されるのですから。またその時にこそ、召されたお互いは、ともにいてくださる主を最も近く感じることができることも。
しかしある方は、「疑う者もいた」(17)の言葉に捕らえられ、「復活の主を目の当たりにしても、私と同様に疑う弟子もいたんだ」と、そこに慰めを受け、そこから復活の意味を掘り下げる力が与えられ、やがて導かれ牧師になったと証しされました。
一体主はなぜよみがえられたのでしょう。あるいはよみがえらされたのでしょう。そもそも父なる神様が御子をさえ十字架につけることをご自身の計画とされたのは、裁きではなく、裁きの向こうにある回復が目的です。レストランの店長が求められるままにメニューを客に出すのは当然です。しかし客が精算抜きで店をあとにしようとするなら、当然店長はその客を帰すわけには行きません。けれど客が支払いを済ませたら、精算済みとして気持ちよくレシートを状差しに差通すのは当然でしょう。「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。」(コロサイ二・14)とはまさにそのことです。キリストの人類の罪に対する精算が完全なゆえに、父なる神様がそれを受け取り、その証明としてキリストを死人の中からよみがえらされたのです。ゆえにキリストを信じるあなたは決して罪に定められることはありません。
(祈り)父なる神様、感情ではなく復活の事実に基づく生き様によって、復活の主を証しできますように。新聖歌 三五九

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

20170416_マルコ16

■題名 ここにはおられない
金言 「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない」。(6)
★イエス・キリストの復活を思い返すとき決して忘れられない思い出がよみがえってきます。それは人生の迷いのゆえに入信してしまった統一教会から、故森山諭先生の説得によって何とか間違いに気づくことができた間もないときの聖地旅行の思い出です。キリストを救い主として受け入れつつも、なおカルトの後遺症のリハビリのためにもと、家族の愛に押し出され一緒にバプテスマの恵みにあずかった父とともに、森山先生が団長を務めてくださる聖地旅行に参加することがゆるされました。
ひとつひとつ訪れる場所で、先生は主がなしてくださった恵みのわざを紹介してくださいました。と同時にその旅の中で、主が私にも触れてくださり、私は自分の心が癒やされてゆくのを感じました。やがて到着した園の墓での出来事です。「ここと断定できる訳ではないかも知れないが、この様な岩を切り出して作った墓に、十字架から取り下ろされた主の体は納められたのです」と、ここでも先生は短く恵みを紹介してくださいました。
幸いにもその日は訪問者が少なかったようで、墓の中に入る機会が与えられました。順番が来て中に入ったとき、私は何とも言えない感情に捕らわれました。「私の罪が、主を十字架につけたんだ。こんな冷たいところに納められたのか」。気持ちは重くなり、良心が責められる思いでいっぱいです。しかしいつまでもそこに留まっている訳にはいきません。入口には次の人が待っています。重い心のままでしたが、出るために体の向きを変えたその瞬間、扉の内側に記された御言葉が私の目と心に飛び込みました。「He is not here, but is risen!」(ルカ二四・6)。私の心は一瞬に希望と確信へと変わりました。主はよみがえられました。主はよみがえられました。本当に主はよみがえられました。ハレルヤ!
(祈り)主はよみがえられましたから、どんな時にも絶望の淵にとどまる必要のないことを感謝します。
新聖歌 一二七

20170415_マルコ15@01-39

■題名 教会に行くな。教会たれ!
金言 そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。(38)
 昨年度、御影福音教会の役員会では会議の冒頭で分かち合うための学びのテキストに、デイビッド・プラット著「ラディカル」(ツラノ出版)を通してチャレンジを受け取りました。まさに「教会に行くな。教会たれ!」とは何とラディカル(根源的)な表現でしょう。この表現はある韓国の教会の牧師が、礼拝の通訳として立ったときのTシャツにあえてプリントした言葉とのこと。「私たちこそが教会。ゆえに私たちは教会に行くことはできません。むしろキリストの身体なる教会として生きることが求められているのです」と。
なぜそんな大胆なことを言い得るのでしょう。その根拠を「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」(38)にみることができるのではないでしょうか。年に一度大祭司だけが通ることがゆるされた幕。しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはゆるされなかった幕(ヘブル九・7)。それが人手によらず上から裂けたとは、「わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができる」(ヘブル十・19―20)ということ。
それは旧約においては神様の臨在と祝福を求めるとき「来なさい」との招きの言葉に励まされ幕屋(神殿)に近づかざるを得なかった神の民が、今は自分自身が神殿となって、神様の臨在を持ち運ぶもの(クリスチャン)ともされたと言うこと。またそれが「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」(ヨハネ二・19)との主の預言の意味の一つであるとは。「教会たれ!」の言葉に、キリストの身体なる教会に加えられた者として納得です。この世に出て行く者(マタイ二八・19)と、世の終わりまでともにいてくださる主に信頼してお従いしましょう。
(祈り)父なる神様、十字架の完全な贖いのゆえに主の臨在を持ち運ぶものとされたことを感謝します。  
新聖歌 三四一

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

20170414_マタイ27@45-56

■題名 その罪さえ赦される主の十字架
金言 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(46)
★昨日に続いての十字架の七言で、今日は後半部分です。「父よ、彼らをおゆるしください。」(ルカ二三・34)にはじまり「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ二三・46)との祈りで終わる七言ですが後半部の中心はこの四言です。
永遠のはじめからこのかた「神」と呼ぶよりも「父」と語りかけられるのが当然の、父なる神様と御子イエス様の関係です。それが「神」と呼ばざるを得ないとは。
そのことを思う時、統一教会によって迷わされた青年の救出のためにも命を削られた、荻窪栄光教会牧師、故森山諭先生のことが思い出されます。統一教会に入信後まだ間もない時に、先生から間違いを聞く機会が与えられた青年の中には「何だ、間違ってたんだ。これなら堂々とやめられる。」と発言した青年も。しかし、霊感商法の霊能者役として、先祖やパートナーあるいは子どものためにと多額の壺や高麗人参等を売りつけることさえさせられ、その結果いくつかの家庭が崩壊するのを目の当たりした青年はどうだったでしょう。とても「間違いだったんだ。助かった」と言う気にはなれず、そこから苦悩が始まるケースも。たとえ「イエス様を信じたら全ての罪が赦されるから」と言われても「この私が赦されるはずがない。ただで赦されるなんて、そんなことがあってはならない」と。そんな苦悩の中にある青年のために森山先生があえて語られた言葉はこうでした。「○○さん、赦されないんだよ。だからこそイエス様は、そのあなたの罪のためにも十字架の上に命を捨てて下さったんだよ。その罪の代価をご自身の命で支払うために」。その青年の目から涙が溢れ、同時にそこからその青年の新しい歩みが始まりました。
(祈り)父なる神様、自分ではどうにもならないと思っている、その罪さえ赦してくださる主の十字架に感謝します。
新聖歌 一〇八

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。



20170413_ヨハネ19@23-27

■題名 新しい神の家族誕生
金言 それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。(27)
★受難週に主が十字架上で語られた七言からみことばを味わうことは幸いです。
しかし、私は今日の金言、三言をどう受け取ってよいか長らくわからずにいました。そればかりか疑問さえ抱いていました。
一言の「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。(ルカ二三・34)は、愛と赦し以外入っていないキリストの心の表れのみならず、したたりおちる罪のない血潮を父なる神様に示しながらの律法の成就であると、感激をもって受けとめることが出来ました。二言の「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。(ルカ二三・43)は、罪人さえもパラダイスに入ることを可能とする、十字架の勝利ゆえの主の権威ですから、ただひれ伏して主に感謝を申し上げる以外にありません。
しかし続いてのこの三言を、皆さんはどのように受け取っておられるでしょうか。母マリヤをいたわるイエス様の愛の表れとも思えますが、それならなぜ「婦人よ」なのかと、何か胸に突っかかった思いを、私は長らくぬぐえませんでした。
ところが将来のために御影福音教会が、みなで教会とは何かを学び合っている時のこと、主が光を注いで下さいました。「これは血肉を越えて愛し合うようにと、十字架を通して主が生み出してくださる教会のあり方を、あらかじめ主ご自身が表現してくださったのではないか」。「主がご自身の命をかけて生み出してくださる神の家族のあり方ではないか」。私の胸の突っかかりはストンと落ちました。そして教会はプログラムに基づく集会や行事中心から、互いが受け取った御心の実現に向けて、支え合う神の家族御影福音教会としての共同体へと変わってきています。
(祈り)父なる神様、互いに愛し合うようにと命をかけて生み出してくださった神の家族としての共同体に、私も加えてくださったことを感謝します。
新聖歌 一四六

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

20170412_ルカ22

■題名 いつものようにいつもの場所で
金言 イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。(39-40)
★イエス・キリストの生涯にはゴルゴダの十字架のみならず、ゲッセマネの祈りというもうひとつの霊的な十字架があったとはよく聞くことです。ゲッセマネの霊的勝利ゆえの、ゴルゴダの十字架の勝利。ゆえに、信仰生活において「あなたも勝利ある生活をと願うならば、御前における隠れた祈りの生活を大切にしなさい」とお互いはどれほど教えられてきたことでしょう。
それにしても、弟子たちにさえ目を覚まして祈っていて欲しいと、繰り返し要請せざるを得ない主の霊的苦しみとは、どれほどのものだったのでしょうか。
しかしマルコの平行記事(一四・41)には「もうそれでよかろう。」との主の言葉が紹介されます。なぜ主はそう言い得たのでしょうか。
「イエス様は、その時、天のお父様の顔を見たんだよ。だから安心できて『もういいよ』と言うことができたんだよ。」とは、かつてジョージダンカン師がケズイックコンベンションで紹介してくださった教会学校の男の子の答えで、私の中に印象深く残っています。
決して自分のニーズのために神様を引っぱり回そうとするのとは違う、「いつものように、いつもの場所」で父なる神様の前に出て行き、父なる神様を愛そうとするイエス様の姿勢がここにはあります。人からの評価ではなく、父の顔を見ることを喜び、父の心を受け取って、それを行うことを喜びとする主の姿が。
主を愛するゆえの、私たちお互いにとっての「いつもの場所」とはどこでしょう。そこでの霊的勝利あってこその、主から託されたお互いの人生であることを思います。
(祈り)父なる神様、私にとっての「いつもようにいつもの場所で」の祈りを死守できますように。              
新聖歌 二七

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。


20170411_ヨハネ8

■題名 わたしもあなたを罰しない
聖書箇所 ヨハネ八章
金言 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。(11)
★ヨハネ五章で紹介されたベテスダの池での主による癒やしは、安息日の出来事でした。人が幸いを得ることより、自分たちの立場に固執する宗教指導者の憤りと妬みは、この癒やしのとき以来抑圧されたものとなって蓄積され、今やイエスを陥れるためには姦淫の現場で捕らえられたとはいえ、人の尊厳などお構いなし。彼らはどんな策略を練ることも恥じない者になりさがっていました。
「姦淫の場でつかまえた女をどうするのか」との問いに「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」は有名です。その結果婦人を裁く者は誰もいなくなりますが、主ご自身も「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と、これで一件落着のように見えます。しかし律法は「ちょっと待ってくださいイエス様。あなたが赦すと仰るのは勝手でしょう。しかし彼女は石打ちの刑で償わなければならない姦淫の罪を犯したのですよ。赦すとの宣言をなさるなら、その罪の責任はどうやって取るおつもりですか」と訴えます。そうして、前借りのように赦しを宣言した彼女の罪のためにも、主は十字架にかかられました。まさにご自身の死をもって罪人を赦すためにこられたキリストの姿が、この箇所にも鮮やかです。
かつてシナイ山にて、ご自身の指で十戒を記した主は、ここにおいてもひざまづき指で地面に何かを記されます。それはきっと、ご自身の命を捨てることを担保にした、「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネ十三・34)だったことでしょう。私の罪への赦しの宣言の背後にも、払われた主の大きな犠牲があったことを忘れてはなりません。
(祈り)父なる神様、「わたしもあなたを罰しない」との背後に、主の十字架があったことを覚え、その愛に応える生き方を今日も選びとれますよに。              
新聖歌 八九

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

20170410_詩篇40

題名 みこころを行うことを喜びます
聖書箇所 詩篇四〇章
金言 その時わたしは言った、「見よ、わたしはまいります。書の巻に、わたしのためにしるされています。(7)
★この詩篇四十章が開かれるとき、神学生時代に奉仕教会としてお世話になった御影福音教会牧師、故山田晴枝先生のことが思い出されます。「主が、罪に支配された人間の救いのために神であることをやめることができないとは考えないで、十字架への道を喜んで選んでくださったとするなら、どうしてこの私がそれ以外の道を選ぶことができるでしょう」。『 わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります』」(8)と、心を注ぎだして祈っておられた先生の、生き様と熱河宣教のお証しを忘れることができません。
昨年相模原の障害者施設で19名の命が奪われた事件は私にとって余りに衝撃でした。もしあの青年の心を聞いてあげる誰かがいたなら、あの様な最悪の事態になっていただろうか。そのときからこの御影の町のために私にもできることがあればと、週に一度阪神御影駅前の広場で「聞き屋」を始めました。
湧いて来る多少の恥ずかしさゆえに、躊躇する思いもありました。現に、高校教師を定年まで勤め上げた壮年の方に「何をやってるんですか。あっ、教会の牧師さんですか。牧師さんも大変ですね。こんなことまでしないといけない時代になったとは」と、少々上から目線の冷ややかな言葉を掛けられたこともありました。しかし不思議です。一歩踏み出し、継続していくとき私の心にも、「私は単に御影福音教会の牧師として遣わされているだけではないんだ。この御影の町の牧師として生きるようにと、神様がこの私をも召してくださったのではないか」との熱い思いと、喜びが心の内に湧いてきました。強いられてではなく、自ら進んであのゴルゴダの十字架をめざして進んでくださった主に、改めて感謝の思いが湧きあがります。
(祈り)父なる神様、十字架をめざして進まれたイエス様の御足の跡を歩めますように。              
新聖歌 四三〇

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

土曜日, 4月 08, 2017

20170409_創世記3

題名 律法主義的生き方からの回復
聖書箇所 創世記三章
金言 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。(21)
  「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」とは二章16節の主の言葉です。人が取って食べる(それによって生きようとする)とき、必ず死ぬ以外にないものとは何でしょう。まさにそれこそが、神様から離れ、自らの行いをもって神様の前に立とうする律法主義的生き方でしょう。
すでに「神のかたち」に似せて造られ、それゆえ唯一、畏れ多くも霊において神様と交わることのできるものとして造られた人アダム。にもかかわらず神様との豊かな交わりが失われてしまった理由はなんでしょう。それは試みる者の「それを食べると……神のように善悪を知る者となる」(三・5)とのそそのかしに捕らわれたことが原因です。主は創造のわざをすでに完成され「はなはだ良かった」(一・31)と語られたのにもかかわらず。試みる者の、そのそそのかしはありのままの自分では何か足りず、神様に受け入れてもらうためには、良い行いという自分の努力でなお補わなければならないかの印象を与えます。
さあその結果、誰かに認めてもらうための良い行いという皿回しの生涯のはじまりです。しかもこの皿回しは一度始めたら途中で止めることができないのです。まさにそれは死の道、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。」(ローマ七・24)との叫びをあげざるを得ない生涯の始まりです。そんな呪いの生涯を終わらせるために、父なる神様はアダムの子孫に救いの道を備えてくださいました。それが今日の金言です。罪のない動物がほふられ、血潮が流され、その犠牲によって、自分の身を守る衣がアダムとエバに着せられました。
(祈り)父なる神様、試みる者の誘惑によって、人はあなた以外で生きる道を選び取りました。しかしその直後に救いの道を備えてくださって感謝します。自らの行いに頼る皿回しではなく、あなたに信頼する生き方を全うさせてください。
新聖歌 二四七

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

20170408_2列王記21

■2列王記21:3 彼は、父ヒゼキヤが打ちこわした高き所を築き直し、バアルのために祭壇を立て、イスラエルの王アハブがしたようにアシェラ像を造り、天の万象を拝み、これに仕えた。 21:4 彼は、【主】がかつて、「エルサレムにわたしの名を置く」と言われた【主】の宮に、祭壇を築いたのである。 21:5 こうして、彼は、【主】の宮の二つの庭に、天の万象のために祭壇を築いた。
★一度は罪と示され捨て去ったものを、もう一度築き直そうとする。そこには明確な意志が働いています。こうなる前に人は、神様を畏れ、欲を捨て去って神様のあわれみをもとめなければなりません。そうでなければ滅びを自身の上に招きます。翻って考えれば、あなたとあなたの家族を永遠に祝福しようとしておられる神様がいらっしゃると言うことです。

金曜日, 4月 07, 2017

20170407_2列王記20

■2列王記20:19 ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた【主】のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は、平和で安全ではなかろうか、と思ったからである。
★病のゆえに間もなく死ぬはずのヒゼキヤが、神様への悔い改めによって寿命が15年伸ばされます。それに満足したヒゼキヤは伸ばされた寿命を何に使おうとしたのでしょうか。神様から生かされている人はその恵みに対する応答の動機は問われます。

木曜日, 4月 06, 2017

20170406_2列王記19

■2列王記19:30 ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。
 19:31 エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の【主】の熱心がこれをする。
19:34 わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」
★上のことばはアッシリアの王セナケリブの脅迫を受けた南ユダ王国の王ヒデキヤが「 【主】よ。アッシリヤの王たちが、国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。私たちの神、【主】よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、【主】よ、あなただけが神であることを知りましょう。」と祈った祈りに対する主からの答えです。主はご自身により頼もうとするあなたの祈りにも耳を傾けてくださいます。

御影福音教会森英樹

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水曜日, 4月 05, 2017

20170405_2列王記18

■2列王記18:29 王はこう言われる。ヒゼキヤにごまかされるな。あれはおまえたちを私の手から救い出すことはできない。
 18:30 ヒゼキヤが、【主】は必ずわれわれを救い出してくださる、この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない、と言って、おまえたちに【主】を信頼させようとするが、そうはさせない。
 18:31 ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリヤの王はこう言っておられるからだ。私と和を結び、私に降参せよ。そうすれば、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、また、自分の井戸の水を飲めるのだ。
★サタンが神の民から主への従順を奪おうとする常套手段です。恐怖、高圧、ときに詐りの平安、希望。しかしイエス・キリストはこれらの言葉を「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」と退けました。

火曜日, 4月 04, 2017

20170404_2列王記17

■2列王記 17:15 彼らは主のおきてと、彼らの先祖たちと結ばれた主の契約と、彼らに与えられた主の警告とをさげすみ、むなしいものに従って歩んだので、自分たちもむなしいものとなり、【主】が、ならってはならないと命じられた周囲の異邦人にならって歩んだ。
★イスラエルは偶像の性質を身につけ、周囲の神なき国々を真似ました。イスラエルは神のみことばに従うことの大切さと恩恵を忘れ去ってしまい、王も民も邪悪さに染まります。神様はたびたび、彼らがどれほど神様から離れているか警告し、呼び戻そうと預言者を遣わされました。神様の忍耐とあわれみは、私たちの理解を超えています。神様は選びの民が神様に応えるか、自らの決断と心がかたくななため、手の届かない所へ行ってしまうまで、選びの民を求め続けられます。神の審判は確実になされることを思うとき、いかに神様に信頼する安全な道を選択することの大切さを教えられます。

月曜日, 4月 03, 2017

20170403_2列王記16

■2列王記16:17 アハズ王は、車輪つきの台の鏡板を切り離し、その台の上から洗盤をはずし、またその下にある青銅の牛の上から海も降ろして、それを敷石の上に置いた。
 16:18 彼は宮の中に造られていた安息日用のおおいのある道も、外側の王の出入口も、アッシリヤの王のために【主】の宮から取り除いた。
★アハズ王は誰に気に入られようとしているのでしょう。誰に守ってもらおうとしているのでしょう。全焼のいけにえの祭壇をダマスコで見た異教の祭壇の複製と取り替え、青銅の祭壇は占いの用途に変え、祭司が自らをきよめるために使われた洗盤でいけにえを洗うとは。アッシリヤの属国であったため、南ユダ王国のアハズ王はアッシリヤの王を喜ばせることに熱心でした。どんなに魅力的な指導者であっても神様にその人物をとって変えることはできません。人を恐れると罠に陥ります。

日曜日, 4月 02, 2017

20170402_2列王記15

■2列王記15:34 彼は、すべて父ウジヤが行ったとおり、【主】の目にかなうことを行った。 15:35 ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。彼は【主】の宮の上の門を建てた。 15:36 ヨタムの行ったその他の業績、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。
★ユダ王としてのヨタムの治世については、おおむね良かったと言えます。他の王たちの荒廃ぶりを見るならすごいことです。しかし彼は最も重要な領域で失敗します。異教の神への妥協です。基本的に良い生き方ができても、心を尽くして神に従うことをしないなら、単なる自己実現の人生に。神様はそれ以上の人生を、選びの民に歩ませようとなさりたいお方です。

土曜日, 4月 01, 2017

20170401_2列王記14

■2列王記14:28 ヤロブアムのその他の業績、彼の行ったすべての事、および彼が戦いにあげた功績、すなわち、かつてユダのものであったダマスコとハマテをイスラエルに取り戻したこと、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。
14:28ヤロブアム2世は全く神様に献身しませんでしたが、その好戦的な政策と巧みな政権運営によって、イスラエルはソロモン王以降の時代で最も国力、物質的繁栄を誇ります。しかし、ヤロブアムの政権は、正義と公正という政策を無視するものでした。その結果、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなり、民は自己中心となり、神様よりも自分の力・安全・所有物に依り頼むようになりました。貧困者はあまりにもひどく抑圧されたので、自分たちの窮状に神様が気づいてくださったと信じることも難しい状態となりました。物質的な繁栄は、必ずしも神様の祝福を表すわけではありません。自己中心の結果、ということもあり得ます。人が繁栄を享受するとき、どのようにして成功を収め、富をどのように使うか、神様に説明する責任があることを忘れてはなりません。私たちが持っているものは、実はすべて神様から与えられたものであることを心に留める人は幸いです。

金曜日, 3月 31, 2017

20170331_2列王記13

■2列王記13:19 神の人は彼に向かい怒って言った。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」13:20 こうして、エリシャは死んで葬られた。モアブの略奪隊は、年が改まるたびにこの国に侵入していた。 13:21 人々が、ひとりの人を葬ろうとしていたちょうどその時、略奪隊を見たので、その人をエリシャの墓に投げ入れて去って行った。その人がエリシャの骨に触れるや、その人は生き返り、自分の足で立ち上がった。
★エリシャは死にましたが、彼のよい影響は残り、奇蹟さえ起こりました。これは、エリシャがまことに神の預言者であったことを示しています。また、死者のよみがえりは、後にご自身復活し、人々を死の縄目から解き放つキリストのみ力と救いへの序章として役割を果たします。主の恵みゆえに与えられた今日を「三度だけ」でない精一杯生きようとするその姿勢が、地上の生涯を終えた後にも残るよい影響へとつながります。

木曜日, 3月 30, 2017

20170330_2列王記12

■2列王記12:2 ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間はいつも、【主】の目にかなうことを行った。
 12:3 ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。
★イスラエル人は、祭司の管理のもと、決められた場所でのみ、神様にいけにえをささげることになっており、どこででもささげて良いわけではありませんでした。(申命12:1314)。高き所でいけにえをささげるのは、異教の風習を真似たもので、異教的な習慣が礼拝に入り込むのを助長しました。人々は自分たちの都合に合わせて宗教を作り出し、それによって神様から遠く離れてしまいます。人の心の深いところにある自己実現の願望が主なる神様に仕えることを押しのけるとき、人は高きところでのいけにえをやめることができません。主の恵み深さへの感謝を心の中でささげ続けましょう。

水曜日, 3月 29, 2017

20170329_2列王記11

■2列王記11:1 アハズヤの母アタルヤは、自分の子が死んだと知ると、ただちに王の一族をことごとく滅ぼした。
 11:2 しかし、ヨラム王の娘で、アハズヤの姉妹のエホシェバが、殺される王の子たちの中から、アハズヤの子ヨアシュを盗み出し、彼とそのうばとを寝具をしまう小部屋に入れて、彼をアタルヤから隠した。それで、彼は殺されなかった。
11:1この物語は9:27からの続きで、アタルヤの息子アハズヤがエフーに殺害されたところから始まります。アハズヤの息子たちを皆殺しにしようとするアタルヤの試みは失敗します。それは、神様がメシヤはダビデの子孫を通して生まれると約束しておられたためで、そこには神様の御手があったのです。(2サムエル7)。キリストにあって神様に守られる生涯に招き入れられたことを感謝しましょう。

火曜日, 3月 28, 2017

20170328_2列王記10

■2列王記10:30 【主】はエフーに仰せられた。「あなたはわたしの見る目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行ったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に着こう。」
 10:31 しかし、エフーは、心を尽くしてイスラエルの神、【主】の律法に歩もうと心がけず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。
★ヤロブアムの罪とはベテルとダンにあった金の子牛に仕えることです。それは真っ正面から主に反対する訳ではありません。主を告白しつつも、密かに主に仕えるに勝る、自分の為の宝を持つことです。それは主の名を借りての自己実現の道でもあり、誘惑は巧妙に私たちの霊を侵食します。私たちの主イエス・キリストは「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」と語られました。

月曜日, 3月 27, 2017

20170327_2列王記9

■2列王記9:32 彼は窓を見上げて、「だれか私にくみする者はいないか。だれかいないか」と言った。二、三人の宦官が彼を見おろしていたので、
 9:33 彼が、「その女を突き落とせ」と言うと、彼らは彼女を突き落とした。それで彼女の血は壁や馬にはねかかった。エフーは彼女を踏みつけた。
★エフー家は他のどの一族よりも長く北王国を治めます。神様は、悪の道へと進んだアハブ王朝を罰するための手段としてエフーを用い、エフーはバアル礼拝を激しく攻撃します。それにしてもバアル礼拝を推し進めたイゼベルの生涯の終わりはあわれで、主にある者のためには恵みが追って来るのとは違います。主への告白ができること感謝しましょう。

日曜日, 3月 26, 2017

20170326_2列王記8

■2列王記8:4 そのころ、王は神の人に仕える若い者ゲハジに、「エリシャが行ったすばらしいことを、残らず私に聞かしてくれ」と言って、話していた。
 8:5 彼が王に、死人を生き返らせたあのことを話していると、ちょうどそこに、子どもを生き返らせてもらった女が、自分の家と畑のことについて王に訴えに来た。そこで、ゲハジは言った。「王さま。これがその女です。これが、エリシャが生き返らせたその子どもです。」
★人生に出会いとチャンスをくださるのは神様です。そのタイミングを自分の力で合わせようとすることは至難の業。神様を信頼しましょう。神様を愛する者のためには神様はその人が寝ている間にもチャンスのタイミングを用意してくださるお方です。

御影福音教会森英樹

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土曜日, 3月 25, 2017

20170325_2列王記7

2列王記7:1 エリシャは言った。「【主】のことばを聞きなさい。【主】はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」
 7:2 しかし、侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が、神の人に答えて言った。「たとい、【主】が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、彼は言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」
★アラムに包囲される中、飢饉に見舞われ、子供さえ煮て食べる者が出たイスラエルにとって、物資が有り余るゆえの急激な値崩れのような状況が起こるとは、にわかには信じがたいことでした。しかし預言者エリシャの言葉通り起こりました。全く予想だにしない展開です。神様がアラムの軍勢を神様の方法で蹴散らされたのです。神様は為すべきとき、為されるお方です。あなたのために。

金曜日, 3月 24, 2017

20170324_2列王記6

2列王記6:22 エリシャは言った。「打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」
 6:23 そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。★イスラエルを配下に置こうとするアラムの王の計画のすべてを、神様は預言者エリシャに明らかにされ、イスラエルを守られます。自分たちの手の内が預言者エリシャのゆえに筒抜けであることを知ったアラムの王は怒りをもってエリシャを捕らえようと軍隊を送ります。しかし神様はアラムの軍隊の目を盲目にし、イスラエルの都サマリヤへ。その時のエリシャの対応が上の御言葉です。敵に対する神様にある赦しは攻撃以上の力があります。愛によって罪に打ち勝つ人生へと、神の人とされたお互いの人生が導かれますように。

木曜日, 3月 23, 2017

20170323_2列王記5

2列王記5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
★重い皮膚病ツァラアトに苦悩する将軍ナアマンのためにエリシャが取った行動は面会なしでのヨルダン川に7度身を浸しなさいとの指示でした。どれほどの屈辱を感じたことでしょう。翻って国に帰ろうとするナアマンの気持ちをおさめ、完全な癒やしへと導いたのが上の僕の言葉です。人間とは感情の嵐によって人生に訪れたチャンスをも時に台無しにしてしまう可能性のあるもの。それを救うのは神様を畏れる者の一言でした。あなたにもその知恵が与えられています。

水曜日, 3月 22, 2017

20170322_2列王記4

4:7 彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」
4:33 エリシャは中に入り、戸をしめて、ふたりだけになって、【主】に祈った。
 4:34 それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口を子どもの口の上に、自分の目を子どもの目の上に、自分の両手を子どもの両手の上に重ねて、子どもの上に身をかがめると、子どものからだが暖かくなってきた。
 4:35 それから彼は降りて、部屋の中をあちら、こちらと歩き回り、また、寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開いた。
4:41 エリシャは言った。「では、麦粉を持って来なさい。」彼はそれをかまに投げ入れて言った。「これをよそって、この人たちに食べさせなさい。」その時にはもう、かまの中には悪い物はなくなっていた。
★確かにエリシャは願った通り、預言者エリヤの継承者としての霊を受け取り神と人に仕えます。ところであなたは信仰によってキリストの霊を受けとりました。

火曜日, 3月 21, 2017

20170321_2列王記3

■2列王記3:10 それで、イスラエルの王は、「ああ、【主】が、この三人の王を召されたのは、モアブの手に渡すためだったのだ」と言った。
 3:11 ヨシャパテは言った。「ここには【主】のみこころを求めることのできる【主】の預言者はいないのですか。」すると、イスラエルの王の家来のひとりが答えて言った。「ここには、シャファテの子エリシャがいます。エリヤの手に水を注いだ者です。」
★イスラエルに背いたモアブ討伐のためにイスラエル王、ユダの王とエドムの王が一緒に出かけますが、思わぬ回り道のため、陣営に水がなくなります。そのときの王たちの反応が上の御言葉です。信仰とは普段の信仰がいざと言うときにでるものです。普段から親しい主との交わりの中に歩みましょう。主との親しい信仰があなたをいざと言うとき救います。

月曜日, 3月 20, 2017

20170320_2列王記2

■2列王記2:9 渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように」と言った。
 2:10 エリヤは言った。「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」
★預言者エリヤの後継者としての霊を求めるエリシャ。それは共に生活し、生き様から学び、まね、生きることによって身につきます。キリストから学び、まね、主がわたしたちのうちで生きていただけるように、自分の思いをキリストに明け渡しましょう。主はあなたを通して、ご自身のみわざを始められます。

日曜日, 3月 19, 2017

20170319_2列王記1

■2列王記1:2 さて、アハズヤはサマリヤにある彼の屋上の部屋の欄干から落ちて病気になった。彼は使者たちを遣わし、「行って、エクロンの神、バアル・ゼブブに、私のこの病気が直るかどうか、伺いを立てなさい」と命じた。
★アハブ王のあと北イスラエル王国の王となったアハズヤ。試練のときどこに、誰に助けを求めるのかは大切です。そのときその人が持つ価値観が明らかにされます。と同時に罪は命の源なる神様との関係を壊します。普段から隔たりのない神様との関係、親しい交わりの中に歩みましょう。それこそが試練を祝福に変える秘訣です。

土曜日, 3月 18, 2017

20170318_1列王記22

■1列王記22:34 ところが、ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。そこで、王は自分の戦車の御者に言った。「手綱を返して、私を敵陣から抜け出させてくれ。傷を負ってしまった。」
★アラムの王の手からラモテ・ギルアデを取り返すべく北イスラエル王国のアハブ王は南ユダ王国の王ヨシャパテに呼びかけ、いざ出陣します。アハブ王は自らの身を守るため変装し、王であることを隠して戦いに臨みますが、何と預言者ミカヤの預言どおり、この戦いで命を落とします。しかもそれはひとりの兵士が何気なく放った弓矢によるものでした。何気ない出来事や会話が胸に響いたり、刺さることがあります。その背後に神様の御手を感じ、柔らかく砕かれた心で応答する人は幸いです。なぜならそこには救い出し、回復させ、祝福を与えようと働いてくださる主がおられますから。

金曜日, 3月 17, 2017

20170317_1列王記21

■1列王記21:5 彼の妻イゼベルは彼のもとに入って来て言った。「あなたはどうしてそんなに不きげんで、食事もなさらないのですか。」
 21:6 そこで、アハブは彼女に言った。「私がイズレエル人ナボテに『金を払うからあなたのぶどう畑を譲ってほしい。それとも、あなたが望むなら、その代わりのぶどう畑をやってもよい』と言ったのに、彼は『私のぶどう畑はあなたに譲れません』と答えたからだ。」
★何とわがままな子供のような態度を見せるアハブ王。そのわがままをナボデの命を取ることによってかなえる悪妻イゼベル。決して二人の関係は自立した者同士の相互依存によるパートナーとしての関係ではありません。自立していない子供がどうして一国を治めることが出来るでしょう。人を自立ではなく依存・奴隷状態へと誘う偶像礼拝者イゼベルにひかれるアハブの要因がこの章に見え隠れします。アハブが求めるべきは人を健全な自立へと導く主ご自身でした。

木曜日, 3月 16, 2017

20170316_1列王記20

■1列王記20:13 ちょうどそのころ、ひとりの預言者がイスラエルの王アハブに近づいて言った。「【主】はこう仰せられる。『あなたはこのおびただしい大軍をみな見たか。見よ。わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ【主】であることを知ろう。』」
20:28 ときに、ひとりの神の人が近づいて来て、イスラエルの王に言った。「【主】はこう仰せられる。『アラムが、主は山の神であって、低地の神でない、と言っているので、わたしはこのおびただしい大軍を全部あなたの手に渡す。それによって、あなたがたは、わたしこそ【主】であることを知るであろう。』」
★アラムの王ベン・ハダデの勢いにどうしてイスラエルが立ち向かうことができるでしょうか。しかし、神様はイスラエルの王アハブが「主こそ神です」と心を翻して悔い改めれるように働かれます。にもかかわらず。物事の背後に神様の恵みを覚えることはいかに尊いことでしょう。

水曜日, 3月 15, 2017

20170315_1列王記19

■1列王記19:18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」
★イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者との戦いで大勝利をおさめたエリヤ。しかしイゼベルの殺意に満ちた「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」の決心を知らさたとき、エリヤは恐れ、自分の死を願って「【主】よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから」と。しかしそのとき神様は一言も責められることなく彼を養われます。人間を理解してくださっておられるからです。どれほどの精神的緊張状態、その後の安堵感と共に襲う疲れ、その上のイゼベルの言葉です。しかし神様は、いえいつも神様は助けをおいてくださっています。このときはバアルに膝をかがめない七千人の預言者でした。あなたはひとりではありません。主と主が備えてくださる仲間がいます。

火曜日, 3月 14, 2017

20170314_1列王記18

■1列王記18:37 私に答えてください。【主】よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、【主】よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
★エリヤのイゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者との戦いは有名です。そして、唯一この戦いの理由は「主こそ神である」ことを明らかにすることでした。人を飢饉から、永遠の滅びから救うことのできるお方は唯一、御子をさえおしみなく与えて下さる主なる神・イエス・キリストの父なる神様以外におられません。

月曜日, 3月 13, 2017

20170313_1列王記17

■1列王記117:14 イスラエルの神、【主】が、こう仰せられるからです。『【主】が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
 17:15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。
★絶望の状況の中での信仰の一歩がいかに大切かを教えられます。信仰の一歩によって状況は変えられます。神様が働いてくださいます。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とは1ヘブル1:6の約束です。

日曜日, 3月 12, 2017

20170312_1列王記16

■1列王記16:30 オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも【主】の目の前に悪を行った。
 16:31 彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。
 16:32 さらに彼は、サマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。
★真の神様を捨てたイスラエルは王自身、恐れと欲に駆り立てられヤロブアム、ナダブ、バシャ、エラ、ジムリ、ティブニ、オムリ、アハブと短い期間で何度も王が入れ替わる殺りくの歴史が繰り返されます。これこそが、真の神様を人が捨てるときに必然的に負ってしまう刈り取りです。心を真の神様・イエス・キリストの父なる神様に治めていただくことの尊さを覚えます。

土曜日, 3月 11, 2017

20170311_1列王記15

■1列王記15:11 アサは父ダビデのように、【主】の目にかなうことを行った。 15:14 高き所は取り除かれなかったが、アサの心は一生涯、【主】と全く一つになっていた。
★アサとはソロモン王の後ユダの王となったレハブアムの息子アビヤム王の子です。アサは父アビヤムが偶像礼拝に走り、神様の前に罪を犯すも、神様が「ビデのゆえに」とあわれんでくださっているあわれみに目を留め、それに応答しようとしました。神様のあわれみに感謝し、人の親切に恩を感じて生きることは祝福された生涯の秘訣です。

金曜日, 3月 10, 2017

20170310_1列王記14

■1列王記14:10 だから、見よ、わたしはヤロブアムの家にわざわいをもたらす。ヤロブアムに属する小わっぱから奴隷や自由の者に至るまで、イスラエルにおいて断ち滅ぼし、糞を残らず焼き去るように、ヤロブアムの家のあとを除き去る。
★ソロモン王の後を継いだレハブアムからひどい仕打ちを受けたヤロブアムが、なにゆえこんなにひどい仕打ちを受けなければならないのでしょう。むしろヤロブアムとイスラエルは被害者ではないでしょうか。確かにそうかも知れません。しかしヤロブアムは、だからと言ってサマリヤに偶像を作り、イスラエルが自分から離れないようにと策略を練る必要はありません。受けた屈辱を晴らすために怒りに基づいて反応してはなりません。自らを滅ぼすことになるのですから。

木曜日, 3月 09, 2017

20170309_1列王記13

■1列王記13:33 このことがあって後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることもせず、引き続いて、一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした。
 13:34 このことによって、ヤロブアムの家が罪を犯すこととなり、ついには、地の面から根絶やしにされるようになった。
★神の言葉に最後まで従い通さなかった神の人がどうなったか。獅子によってかみ殺されたことを知ってもヤロブアムは偶像礼拝の悪の道から離れませんでした。神様がヤロブアムに神様を畏れることがどれほと大切か、そのきっかけを与えてくださったにもかかわらず。残念です。間違いに気づいたら即座に主の十字架を仰ぎましょう。

水曜日, 3月 08, 2017

20170308_1列王記12

■1列王記12:27 この民が、エルサレムにある【主】の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」
 12:28 そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」
★上記はヤロブアムがイスラエルに犯させた罪についての記述ですが、元々の原因はソロモンのあとを継いだレハブアムが長老たちの助言ではなく、自分と同世代の者たちの助言に耳を傾け、イスラエル部族をひどく扱おうとしたためでした。ひとつの罪は人に恐れと怒り憎しみを増幅させます。その結果、今に至るまでサマリヤと、エルサレムはひとつになれません。誰の話に耳を傾けるかは大切です。

火曜日, 3月 07, 2017

20170307_1列王記11

■1列王記11:4 ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、【主】と全く一つにはなっていなかった。
★ソロモンには神様の約束、導き、祈りへの答えが与えられていたのに、罪が周囲にはびこるままにしました。その結果彼は堕落し、もはや神様への興味を失います。ソロモンが書いた詩篇127:1には、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」とあります。ソロモンは最初神様とともに基礎を築きますが、晩年神様に従い通すことをしませんでした。「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」(黙示録2:11)

月曜日, 3月 06, 2017

20170306_1列王記10

■1列王記10:8 なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできる家来たちは。
 10:9 あなたを喜ばれ、イスラエルの王座にあなたを着かせられたあなたの神、【主】はほむべきかな。【主】はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義とを行わせられるのです。」
★ソロモンの知恵にふれたシェバの女王の言葉です。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と語られたキリストの言葉が思い浮かびます。

日曜日, 3月 05, 2017

20170305_1列王記9

■1列王記9:3 【主】は彼に仰せられた。「あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いた。わたしは、あなたがわたしの名をとこしえまでもここに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。
9:5 わたしが、あなたの父ダビデに、『あなたには、イスラエルの王座から人が断たれない』と言って約束したとおり、あなたの王国の王座をイスラエルの上に永遠に確立しよう。
★よき志を与えそれを実現にまで導いてくださる主に感謝。その栄光を神様にお返しし、決してその栄光を自分が取ることのありませんように。

土曜日, 3月 04, 2017

20170304_1列王記8

■1列王記8:52 どうか、あなたのしもべの願いと、あなたの民イスラエルの願いとに、御目を開き、彼らがあなたに叫び求めるとき、いつも彼らの願いを聞き入れてください。
 8:53 あなたが彼らを地上のすべての国々の民から区別してご自身のものとされたのです。神、主よ。あなたが私たちの先祖をエジプトから連れ出されたとき、あなたのしもべモーセを通して告げられたとおりです。
★ソロモンが神殿奉納で神様にささげた祈りです。8章に記された、ひとつひとつの執り成しの内容を通して、ソロモンがいかに知恵に満ちているか、民に心を配っているかがわかります。全ては「地上のすべての国々の民が、【主】こそ神であり、ほかに神はないことを知るようになるため」でした。

金曜日, 3月 03, 2017

20170303_1列王記7

■1列王記7:51 こうして、ソロモン王が【主】の宮のためにしたすべての工事が完成した。そこで、ソロモンは父ダビデが聖別した物、すなわち、銀、金、各種の器具類を運び入れ、【主】の宮の宝物倉に納めた。
7:1では「ソロモンは自分の宮殿を建て、十三年かかって宮殿全部を完成した。」と神殿より宮殿に多くの時間をかけたことを記していますが、これは優先順をあらわしているわけではありません。巨大な都市計画のゆえでした。委ねられた責任を精一杯果たすソロモンの姿がここにあります。

木曜日, 3月 02, 2017

20170302_1列王記6

■1列王記6:12 「あなたが建てているこの神殿については、もし、あなたがわたしのおきてに歩み、わたしの定めを行い、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしがあなたの父ダビデにあなたについて約束したことを成就しよう。
 6:13 わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」
★ソロモンが神殿建設に取りかかったときに主がソロモンに語られた言葉が上の言葉です。神ご自身が民の中に住まわれる。これこそがイスラエルの祝福です。この約束はイエス・キリストによって異邦人である私たちの内にも成就しました。

水曜日, 3月 01, 2017

20170301_1列王記5

■1列王記5:5 今、私は、私の神、【主】の名のために宮を建てようと思っています。【主】が私の父ダビデに『わたしが、あなたの代わりに、あなたの王座に着かせるあなたの子、彼がわたしの名のために宮を建てる』と言われたとおりです。
★ダビデが神殿建築を申し出たとき、神様は預言者ナタンを通じてこれにノーと答えられました。神様は、戦士でなく平和を築く者が祈りの家を建てることを望まれます。キリストにある愛と一致のために祈り仕えましょう。

火曜日, 2月 28, 2017

20170228_1列王記4

■1列王記4:25 ユダとイスラエルは、ソロモンの治世中、ダンからベエル・シェバまで、みな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下で安心して住むことができた。
 4:34 ソロモンの知恵を聞くために、すべての国の人々や、彼の知恵のうわさを聞いた国のすべての王たちがやって来た。
★国を治めるための知恵を求めたソロモンを主は喜ばれ、まさにイスラエルは平和と繁栄を目に見える形で表す国となりました。主を畏れることの豊かさがここにあります。

月曜日, 2月 27, 2017

20170227_1列王記3

■1列王記3:5 その夜、ギブオンで【主】は夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」
 3:9 善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
 3:11 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、
 3:12……見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。
 3:13 そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。
★何を求めるかによって人の値打ちははかられます。

日曜日, 2月 26, 2017

20170226_1列王記2

■1列王記2:17 彼は言った。「どうかソロモン王に頼んでください。あなたからなら断らないでしょうから。シュネム人の女アビシャグを私に与えて私の妻にしてください。」
★アビシャグとはダビデ王が年老い身体が温まらなくなったとき、ダビデ王に仕えるようにと命じられた者でした。そのアビシャグを求めるとは、かつて王位を狙って人々を集めたアドニヤがもう一度王座を模索する試みでした。人を物とし、自分の為に利用しようとするソロモン王の異母兄弟アドニヤ。その結果彼は自らの人生に死を招きます。願ったその日がそれでした。

土曜日, 2月 25, 2017

20170225_1列王記1

■1列王記1:52 すると、ソロモンは言った。「彼がりっぱな人物であれば、彼の髪の毛一本でも地に落ちることはない。しかし、彼のうちに悪があれば、彼は死ななければならない。」
 1:53 それから、ソロモン王は人をやってアドニヤを祭壇から降ろさせた。彼がソロモン王の前に来て礼をすると、ソロモンは彼に言った。「家へ帰りなさい。」
★アドニヤは命の危険と厳罰におびえますが、ソロモンは兄を追放するだけで、家に帰らせます。新王ソロモンには競合者を殺す力があり、それは陰謀が成功した時アドニヤ自身がやりそうなことでした。しかし、ソロモンは示すべきことが何もないかのように振舞い、それによって自分の権威と権力を示します。個人的な攻撃をした人を赦すのは、時に激しく復讐するよりも強さを示します。権力や権威を証明しようとすると、かえって恐れと自信のなさをあらわにすることになる場合もあります。ソロモンがアドニヤを処刑したのは、アドニヤが再び王権奪取を試みた後でした。(2:13-25)

金曜日, 2月 24, 2017

20170224_2コリント13

■2コリント13:8 私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。 13:11 終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。
★パウロがコリントの教会に手紙を書き送った理由がここで改めて記されます。ひとつになること。これがパウロの結論で、そのために第一、第二の手紙を記しました。主もまた最後の晩餐において「17:11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです」と執り成してくださいました。人の関係においては待っていてもひとつになることはありません。主の愛にあって理解し合う努力が求められます。我が思いではなく、主の思いを優先しひとつとなるために祈り行動しましょう。

木曜日, 2月 23, 2017

20170223_2コリント12

■2コリント12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
 12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
★主ご自身が私に託してくださった使命、人生を生きるためには必要十分なものは既に与えられています。見るべきは人ではなく、主ご自身。主を見上げる者のために、主はさらに必要なものも備えてくださいます。主ご自身と一緒に。

水曜日, 2月 22, 2017

20170222_2コリント11

■2コリント11:29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。11:30 もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
★主への愛がパウロを突き動かし、教会を愛する働きへと導きました。愛が人をへりくだることを可能にし、勇気ある者とし、人を大胆にします。
主に愛され、遣わしてくださる光栄だけであなたの心が満たされ、おしみなく主の恵みを分かち合う者でありますように。

火曜日, 2月 21, 2017

20170221_2コリント10

■2コリント10:12 私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。10:17 誇る者は、主を誇りなさい。10:18 自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。
★にせ教師たちは、自分を神様の基準に照らして見ることをせず、他の人と比較することによって、自分の善良さを証明しようとしていました。
人と比較して、自分のほうがすぐれていると考え思い上がるにせ教師。しかし神様の基準に照らして自分の力量を計るとき、人は思い上がる根拠のないことが明らかになります。他の人の功績を気にしないようにしましょう。むしろ私の人生に神様が望んでおられることを心に思い巡らしましょう。

月曜日, 2月 20, 2017

20170220_2コリント9

■2コリント9:6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
 9:7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
 9:8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
★神様から託されたものをおしみなく神の事業のために投資しましょう。神様はあふれる恵みをもって報いかえされます。

日曜日, 2月 19, 2017

20170219_2コリント8

■2コリント8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
★イエス様が1世紀のパレスチナの水準に照らして貧しかったという証拠はありません。しかしイエス様は、神としてのご自分の権利を捨て、人となることによって貧しくなられました。イエス様は人となったとき、ご自身の永遠の御力は捨てられませんでしたが、ご自分の栄光と権利を捨てられました(ピリピ2:5-7)。またイエス様は御父の御心に従って、ご自分の力と知識を制限されました。しかしそれによって、私たちは救いと永遠のいのちを受け、「富む者」とされたのです。

土曜日, 2月 18, 2017

20170218_2コリント7

■2コリント7:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
★上の状況はパウロがコリントの教会の人々に書き送った手紙によってもたらされました。手紙を記すためには、問題解決のために思い巡らすことがなければ、愛がなければ、勇気がなければできません。しかも、問題から目をそらす内容ではなく、問題を指摘せざるを得ない内容でした。また、書き送られたその手紙が明らかにされていないことにも教えられます。パウロは公の場でコリントの人々を恥にさらすようなことはせず、まさに動機は愛のゆえのそれでした。「愛がなければ一切は無益」を胸に刻みつけられます。

金曜日, 2月 17, 2017

20170217_2コリント6

■2コリント6:16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
★分裂の危機に直面するコリント教会の問題の解決のために、パウロはコリントの人々が何でないかよりも、何であるのかを強調します。目を向けるべきところは恵みです。人間の肉の努力による解決ではなく、神様の恵みによる解決。これが教会が目指すべき方向性です。

木曜日, 2月 16, 2017

20170216_2コリント5

■2コリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
★今日の御言葉5:17はどういう意味でしょう。内にいただいた御霊の働きにより「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」を実現可能なものとされ、与えられた新しいいのちにより、新しい使命を生きれるものとなったと言う意味です。その目的は「5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」に裏打ちされた和解の勤めです。神様は和解を求める者のみに将来の扉を開くカギを託されます。和解のために祈り労する者でありましょう。

水曜日, 2月 15, 2017

20170215_2コリント4

■2コリント4:5 私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。
 4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
 4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
 4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
 4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

火曜日, 2月 14, 2017

20170214_2コリント3

■2コリント3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
 3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
 3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

月曜日, 2月 13, 2017

20170213_2コリント2

■2コリント2:14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。 2:15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
★かおりの中には人工的に作り出せるものもあるでしょうが、ここに記されたかおりとはいのちの営みを通して自ずとにじみ出るものです。キリスト者生涯において前者は偽善であり、後者は主を愛する者に上より与えられるものです。自分の香りがどんなものか気をもむ必要はありません。ただ主を愛すればよいのです。それでも人があなたから遠ざかり、それが気になるときは、やはりあなたの主への愛を問い直しましょう。欲と偽善に陥ってはなりません。

日曜日, 2月 12, 2017

20170212_2コリント1

■2コリント1:6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。
 1:7 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。
★共に痛みを分かち合うことができる。そして試練を乗り越えることができる。これが教会の強みです。あなたは教会に属していますか。キリストの身体なる教会の一部として生きていますか。バプテスマを受けましょう。教会として生きる者に対して、主は火の中、水の中をくぐるときにも私は常にあなたと共におる。(イザヤ43:1-4)と約束くださいました。

土曜日, 2月 11, 2017

20170211_1コリント16

■1コリント16:13 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。16:14 いっさいのことを愛をもって行いなさい。
★パウロによってコリントの人たちは、次のように指導されました。(1)目を覚ましていなさい。滅ぼそうとする霊的な敵に絶えず用心深くする。(2)堅く立つ。初めに教えられた福音に堅く立つ。(3)男らしくありなさい。にせ教師たちに反対し、信者たちの中にある罪に対処する。(4)聖霊によって与えられた力によって強くある。(5)いっさいのことを愛をもって行いなさい。愛がなければ、高慢になり、問題を引き起こす人になる。今の時代、キリストの再来を待ち望む私たちも同じ指示に従うことが神様からの祝福を受け取る道です。

金曜日, 2月 10, 2017

20170210_1コリント15

■1コリント15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
 15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
★分裂の危機に瀕したコリント教会の再生のために心を砕くパウロは、手紙の最終節に差し掛かったところで、復活と天国の希望を語ります。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。 15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」と。
よみがえりの主を仰ぎましょう。そして生かされている今を大切にしましょう。生き方を通して天国の希望を証しするあなたの証しはひとつも地に落ちることはありません。

木曜日, 2月 09, 2017

20170209_1コリント14

■1コリント14:1 愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。14:2 異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。
14:2教会を分裂させようとする様々な力が働いているコリントの教会の問題点と解決策をひとつひとつ提示するパウロは、ここに来て異言について取り上げます。異言(知られていないことば)を話す賜物がなぜコリント教会では問題となったのでしょうか。それは、コリントの信者たちが、異言の賜物を霊的な一致のための手段としてではなく、霊的な優越のしるしとして用いたためでした。御霊の賜物は、それらが教会のすべての人を助けるために適切に用いられるときにのみ有益で、自分を気持ちよくするためを優先すると、その賜物の使用で礼拝に混乱を引き起こします。異言を話すことは聖霊の正当な賜物ではありますが、やはり愛が土台となっていなければ一切は無益です。

水曜日, 2月 08, 2017

20170208_1コリント13

■1コリント13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
★愛はいつまでも残ります。道徳的に堕落したコリントでは、愛は、さまざまな概念を含む、意味のないことばになっていました。賜物はそれぞれ違いますが、愛は神様がすべての人に与えようとされたものです。愛は、すべての人の特性のうち最も重要なものであり、神様ご自身のご性質であり(1ヨハネ4:8)、他者への無私の奉仕を含んでいます。信仰は、神の教えの基礎であり、要旨です。希望は、態度であり、焦点、そして愛は行動です。信仰と希望が調和するなら、私たちは愛を全うすることが可能になります。どれほどの愛をもって主が愛してくださったかを知るお互い。願わくはお互いの信仰が、他の人たちを愛することによって完全に表れるものとなりますように。

火曜日, 2月 07, 2017

20170207_1コリント12

■1コリント12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
★偶像礼拝にささげた肉、父の妻を辱める性、同性愛、結婚における権威と従順、平等と役割、愛餐で弱い立場の人が辱められる問題等、パウロはここに至るまで、それらひとつひとつに目を向け、教会が分裂することによって主の御名を汚すことのないように助言します。そしてここに来て、教会を分裂に至らせる、もう一つの問題について光を当てます。ひとりひとりに与えられた賜物理解です。何のために与えられた賜物か。自分の為か、他者を生かし教会の徳を高めるためのそれか。弱い者は寄り添い合おうとしますが、力を持つ者は自分の豊かさ、力に溺れ、自分をコントロールしきれず、教会を分裂の危機に追いやろうとしす。要注意です。

月曜日, 2月 06, 2017

20170206_1コリント11

■1コリント11:3 しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。
★神様はすべての人をご自身のかたちとして創造されたので、すべての人には平等な価値があり、婚姻関係での服従は、相互のかかわり合いと協力を意味します。神様は対等の人々の間での服従を求めておられます。神様は男をよりすぐれているとはされません。神様は夫と妻に、共に働く道を備えられます。イエス・キリストは、父なる神と等しくあられましたが、救いの計画を実行するために父なる神様に服従されました。同様に、妻は神様の前には男と平等ですが、結婚生活や家族のために夫に従うことは大切です。対等の関係での服従は、進んで服従することであり、力ずくなら間違いで、男は責任が問われます。教会の人たちや配偶者に快く服従することを通して私たちは神に仕えることができます。私たちは創造の秩序を理解し、権威と服従の問題によって、結婚生活における一致が破壊されないようにしなければなりません。結婚生活を強くし、神の栄光をたたえるために、与えられた賜物を用いましょう。

日曜日, 2月 05, 2017

20170205_1コリント10

■1コリント10:25 市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。10:26 地とそれに満ちているものは、主のものだからです。10:27 もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。
★市場に売っている肉は、それが偶像にささげられたかどうか尋ねることはしないで、どれでも買いなさいということ。それはどうでもよい問題であり、誰の良心も悩まされる必要はありません。自分の行動について、あまりに心配するようになると律法主義的になり、人生を楽しむことができなくなります。神様は私たちに、すべてのものを楽しむために与えられました。問題には対処すべきですが、問題を探しに行く必要はありません。

土曜日, 2月 04, 2017

20170204_1コリント9

■1コリント9:22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
 9:23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。
★幾人かを救うために、人の救いに仕えことの困難さを覚えます。と同時にパウロの人生の目的が明確なことを思います。託された使命が何であるかを明確に掴んでいる者こそが、命を使う生き方が出来、悔いの無いない人生を送れることを教えられます。

金曜日, 2月 03, 2017

20170203_1コリント8

■1コリント8:1 次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。 8:2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。 8:3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。
★市場で売られている肉の多くは、偶像にささげたあと回収したいけにえの肉でした。そのような肉を食べることによって、自分は偶像崇拝に参加することになるのではと不安になる信者もいました。しかし実際は世に偶像と呼ばれる神々があっても本当に存在する神は唯一なので偶像にささげられた肉を食べたとしても問題にはなりません。しかし愛は知識よりも重要です。知識を持つ人の多くは、神様や他の人に耳を傾けたり学んだりすることにより謙虚な姿勢が求められます。私たちは神様を愛することによってのみ神様の知識を手に入れることができますし(ヤコブ3:1718)、また愛を示すことによって神様を表すときにのみ、私たちは神様を知り、神様に知られることができます(1ヨハネ4:78)。知識を誇りたくなる高ぶりの心は十字架に付けましょう。

木曜日, 2月 02, 2017

20170202_1コリント7

■1コリント7:23 あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。
★コリント教会は、彼らの文化の不品行のゆえに混乱していました。ギリシヤ人の中には不品行を拒絶する者もいましたが、彼らは同時に性行為と結婚生活自体も否定するあやまちに。そうした状況でコリントのクリスチャンたちは、パウロにいくつかの質問をします。「性行為は人を堕落させるものだから、結婚していても慎むべきではないか」「配偶者が救われていないなら、離婚するべきか」「結婚していない人々ややもめは、結婚しないままでいるべきか」。
パウロは「さしあたりは、そのままでいなさい。神があなたを置いたその状況において満足しなさい。あなたが結婚しているなら、独身になろうと努めないようにしなさい。あなたが独身なら、結婚しようと努めないようにしなさい。神の道を続けて生きなさい。そうすれば神はどうしたらよいか、あなたに示されるだろう」と。
パウロは自分の考えと神様の命令を混同することなくコリントの教会に原則をもって助言を与え、やがてコリントの教会が自立できるように導きました。

水曜日, 2月 01, 2017

20170201_1コリント6

■1コリント6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
 6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。
★多くの人々は、自分のからだをもって何でもしたいことをする権利が自分たちにはあると考えます。それを自由と理解しているからです。しかし本当のところその考えは自分自身の欲望のとりこにされます。人はクリスチャンになるとき、内に聖霊を頂きます。神様が私たちを「代価を払って」買い取られたとは、競売で買われた奴隷に当てはまる言葉で、キリストの死は確かに私たちを罪から解放しましたが、同時に私たちはキリストに仕える義務を負う者とされたと言うことです。神様のものであるので、あなたは神の規範に違反してはなりません。「もはや自分自身のものでない」を正しく理解する人は幸いです。