月曜日, 4月 10, 2017

20170422_2コリント5

■題名 死んでよみがえったかたのために
金言 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。(15)
★この私のためにも、十字架にまでご自身の命を捨ててくださったイエスの愛に感動し、何とかそのご愛に報いる者であれたならばと、心の内に献身の思いが芽生えはじめていた頃の思い出です。そうはいっても、とても「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」(イザヤ六・8)といえるような者ではありません。そんな青年時代、私は何かの発送奉仕を当時荻窪栄光教会の婦人牧師でいらっしゃった故森山信子先生と一緒にさせていただいた時、「信子先生はどうして献身しようと思われたんですか」とおたずねしました。
その時の先生から返ってきた言葉が、金言の(15)節と、「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」(二テモテ二・8)でした。
「私に与えられている賜物は人と比べるとわずかなものかも知れないわ。そうね。例えるならマタイ二五章のタラントの例えの一タラント託された僕かも知れないわ。でもね、どんなにわずかであっても、託されものがわずかだからと言って、それを隠しておくことは主に愛されている者としてできなかったのよ」。「私のために死んでよみがえってくださった方のためにね」。
信子先生が主の恵みを振り返りながらしてくださった証しは、私にとってどんな大伝道者が語る説教よりも励ましに満ち、私の心を揺り動かすものでした。
主がご自身の復活の証人となることを願っておられるのは、特別な人だけではありません。それはご自身の血潮によって罪の滅びより贖い出された全てのキリスト者への願いであり、遣わされた生活の場で復活のキリストを生きることが求められています。
(祈り)わたしのために死んでよみがえってくださった方の愛と恵みを、生き様を通して等身大で証しする復活の証人とさせてください。
新聖歌 三八六

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

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