水曜日, 11月 30, 2011

★20111130_詩篇112_エレミヤ22_ヨハネ18

■詩112:4主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる。112:5しあわせなことよ。情け深く、人には貸し、自分のことを公正に取り行う人は。112:6彼は決してゆるがされない。正しい者はとこしえに覚えられる。112:7その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。
★情け深く誠実であること。人と接することにおいてどれほどその人は相手に安心感という益をもたらすことでしょう。しかし相手への益だけではありません。むしろ自分自身に帰ってくる益の方が大きいことをここから学びましょう。ゆえに詩37:3では「主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。」と勧めます。

■エレミヤ22:21あなたが繁栄していたときに、わたしはあなたに語りかけたが、あなたは『私は聞かない』と言った。わたしの声に聞き従わないということ、これが、若いころからのあなたの生き方だった。
★生き方への評価であるなら預言者エレミヤに感謝の思いも湧くでしょう。しかし、こんな指摘であるなら聞きたくもありません。しかし本当に私たちに必要なのは心地よい言葉ではなく真実なことばです。「若いころから」と言うなら既に習慣化されています。もう自分では変われないと言うことです。主に叫びましょう。主に触れて頂きましょう。そこに希望があるのです。

■ヨハネ18:39しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」18:40すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ」と言った。このバラバは強盗であった。
★「この人ではない。バラバだ」とは、無実なキリストを「十字架に付けろ」の意です。そこに人の罪性が。罪は人を思わぬ方向につき動かし、その人に後悔と滅びを与えます。やはり私たちには救い主が必要です。ヒデ

火曜日, 11月 29, 2011

20111129_詩篇93_エレミヤ18_ヨハネ17

詩篇93:5あなたのあかしは、まことに確かです。聖なることがあなたの家にはふさわしいのです。主よ、いつまでも。
★「あなたの家」とは新約の教会、すなわちキリストにある共同体を意味します。その交わりはきよいことがふさわしいと言うのです。「聖」とは単一な、混じりけがないと言うことです。たとえ日本人は本音と建前を上手に使い分け「和」を保つことが得意であったとしても、それは神様の御心ではありません。教会が機能不全家族となりませんように。透明な関係を築き、人生を共有できますように。

■エレミヤ18:2「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」18:3私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。18:4陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。18:5それから、私に次のような主のことばがあった。18:6「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。─主の御告げ─見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。
★そうですあなたは主の手の中にあって生かされているのです。恵みです。憐れみです。

■ヨハネ17:15彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。17:16わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。17:17真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
★キリスト者とは世に遣わされる者との視点で主は弟子たちに関わり、この最後の晩餐で上のようにとりなして下さいました。この世に飲まれる者ではなく、この世にキリストにあって影響を与えるものでありますように。ヒデ

月曜日, 11月 28, 2011

20111128_詩篇96_エレミヤ17_ヨハネ15

■詩篇96:13 確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。
★主の再臨の預言です。2000年前十字架で救いを完成するために来られた主は、今度は正しい裁きを行うために再び来られます。さらに神様の経綸は艱難時代、千年王国、新天新地と続くのです。裁きとは正しく酬いを受けることでもあります。主にあるものはゆえに畏れるに及びません。あなたは既にキリストの愛を受け取って神様の者とされましたか。

■エレミヤ17:5主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。17:6そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。17:7主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。17:8その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。
★この真理を悟っていたエレミヤは「私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。」と祈りました。

■ヨハネ16:33わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
★なぜ世では艱難が?人類が犯し続けた罪の蓄積ゆえです。世は闇ですが、あなたはキリストにあって光とされたゆえとも言えるでしょう。闇は光を好みません。しかし勇気をもって主と立ち上がるのです。世を愛しておられる神様の存在を証しするために。ヒデ

日曜日, 11月 27, 2011

20111127_エレミヤ15_ヨハネ15

■エレミヤ15:16私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。15:17私は、戯れる者たちの集まりにすわったことも、こおどりして喜んだこともありません。私はあなたの御手によって、ひとりすわっていました。あなたが憤りで私を満たされたからです。
★預言者エレミヤが神様の言葉に対していかに関わろうとしていたかが明確にあらわされた箇所です。エレミヤは御言葉が自分の血となり肉となるようにと深く黙想したのです。味わいましょう。あなたの内に御言葉によって信仰が芽生えるまで。

■ヨハネ15:4わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。15:5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
★キリスト者にとって「キリストにつながる。キリストにとどまる。」とは成熟の生涯のために非常に大切なメッセージです。なぜならキリスト者は自分の力で御霊の実である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、忠実、柔和、自制」を結ぶことができないからです。私ではなく、キリストです。そうは言いつつも自分がときどき見え隠れする人がいます。そうではなく、自分を十字架につけ、キリストの栄光を慕い求めつつ父なる神様に栄光をお返しする生涯を全うしましょう。ヒデ

土曜日, 11月 26, 2011

20111126_エレミヤ10_ヨハネ14

■エレミヤ10:23主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。10:24主よ。御怒りによらず、ただ公義によって、私を懲らしてください。そうでないと、私は無に帰してしまうでしょう。10:25あなたを知らない諸国の民の上に、あなたの御名を呼ばない諸氏族の上に、あなたの憤りを注いでください。彼らはヤコブを食らい、これを食らって、これを絶滅させ、その住まいを荒らしたからです。
★自分の弱さを認め、神様の憐れみを求め、裁きは主に訴え、ゆだねる。これが人のあるべき姿です。この生き方をするなら誰に知られなくても神様が尊んで下さいます。反対に自分を過信し、神様を侮り、自ら裁き主としておごり振る舞うなら、もうし滅びしかありません。当然です。しかし罪に霊が支配されると、この当然のことが分からなくなるのです。

■ヨハネ14:1「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。14:2わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。14:3わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
★感謝ですね。主によってあなたのための永遠の住まいが備えられるとは。でも考えてみるとそもそもそれが神様の全ての面における人への配慮だったのですよ。人を造られ主はただ身勝手に人を創造し、どうにもこうにも住めない場所に人を置いたわけではありませんでした。ただ人の罪が人を住み難くさせたのです。キリストにあっては将来に対して思い煩う必要はありません。委ねましょう。神様が最善をなして下さいます。ヒデ

金曜日, 11月 25, 2011

20111125_エレミヤ7_ヨハネ13

■エレミヤ7:3イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。あなたがたの行いと、わざとを改めよ。そうすれば、わたしは、あなたがたをこの所に住ませよう。7:4あなたがたは、『これは主の宮、主の宮、主の宮だ』と言っている偽りのことばを信頼してはならない。7:5もし、ほんとうに、あなたがたが行いとわざとを改め、あなたがたの間で公義を行い、7:6在留異国人、みなしご、やもめをしいたげず、罪のない者の血をこの所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、7:7わたしはこの所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住ませよう。
★主が私たちに願っておられることは行いと生き方です。しかしこれが変えられることほど難しい事はありません。ではどうすれば変わることができるのでしょう。答えは一つです。イエス様に出会うことです。その時人は変わります。あなたはザアカイのことをご存じですか。ルカ19:1-10。人は真にイエス様に出会えれば変われるのです。

■ヨハネ13:6こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」13:7イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」13:8ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
★自分の汚れは自分できれいにしてから神様と交わる、そうではありません。自分でできないから神様に関わって頂く。救いとは神様がイエス・キリストを通して差し出して下さった愛を受け取ることです。その時あなたは変われます。ヒデ

木曜日, 11月 24, 2011

20111124_エレミヤ5_ヨハネ12

■エレミヤ5:28彼らは、肥えて、つややかになり、悪事に進み、さばきについては、みなしごのためにさばいて幸いを見させず、貧しい者たちの権利を弁護しない。5:29これらに対して、わたしが罰しないだろうか。─主の御告げ─このような国に、わたしが復讐しないだろうか。5:30恐怖と、戦慄が、この国のうちにある。5:31預言者は偽りの預言をし、祭司は自分かってに治め、わたしの民はそれを愛している。その末には、あなたがたは、どうするつもりだ。」
★あわれみを忘れ、偶像礼拝に走るイスラエルの民に対する叱責を神様は預言者エレミヤを通して語られました。ガラテヤ5:14では、「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。」とも語られます。憐れみの心、隣人愛は人生のオプションではありません。この天において偶像礼拝者にならない人は幸いです。

■ヨハネ12:35イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。12:36あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。
★十字架を前にした群衆とのやり取りの主の言葉です。この少し前主は「父よ。御名の栄光を現してください。」と祈られましたが、そのとき、天から「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」との声がありました。そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言いますが、イエス様は「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。」と父なる神様の御声を紹介されました。闇の支配の前にキリストを信じましょう。ヒデ

水曜日, 11月 23, 2011

20111123_エレミヤ4_ヨハネ11

■エレミヤ4:1「イスラエルよ。もし帰るのなら、主の御告げ─わたしのところに帰って来い。もし、あなたが忌むべき物をわたしの前から除くなら、あなたは迷うことはない。4:2あなたが真実と公義と正義とによって『主は生きておられる』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、主によって誇り合う。」
★エレミヤはイスラエルが神様に真に立ち返るなら、周りの国々も主にある祝福と誇りを回復すると預言します。そう立つべき人が立つべきところに立つとき、秩序が回復し、神様の祝福はその人を通して流れ始めると言うのです。あなたはそのカギを握る神の皇太子イスラエルとして召し出されています。

■ヨハネ11:39イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」11:40イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
★「その石を取りのけなさい」とは、主がマルタとマリヤの兄弟ラザロを甦らせる時に語られた言葉です。そこに集った人々は主が語られたとおりに、既に蓋をしたその墓石を取りのけます。するとどうでしょう。「ラザロよ出て来なさい」との主の言葉の通り、ラザロはよみがえり、人々の前に姿を現したのです。しかし人々の当初の反応はどうでしたか。「無理です。不可能です。死んで四日も経っているのですから」でした。「石を取りのける」とは、その思いを、不信仰を取り除くと言うことです。主が命じられるなら無から有が創造され、嵐は静まり、死人は甦るのですから。あなたも「子よしっかりしなさい。あなたの罪は赦されたのだ」との御声によって、罪赦され、永遠のいのちを生きるものとされたのではありませんか。主が語られる不信仰を取り除きましょう。ヒデ

火曜日, 11月 22, 2011

20111122_エレミヤ1_ヨハネ10

■エレミヤ1:11次のような主のことばが私にあった。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」1:12すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」
★「私はあなたを万国の預言者とした」と、主が召し出された、若き預言者エレミヤに語られた言葉です。「あなたは何を見ているのか」と問われますが、それで人の関心がどこにあるかが分かります。ある人は貯蓄・金融関係に。またある人は芸能関係、さらに健康、趣味・娯楽、政治・世界情勢と。その中でエレミヤは「見張り」の象徴的意味を持つアーモンド「神様の経綸・計画」に目を留め関心を払っていました。昨日も「夜が来る。すると誰も働けなくなる」との主の御声を聞きました。いま生かされている命は恵みによって頂いている命です。チャンスを生かし天に宝を積む業に生きるものでありましょう。

■ヨハネ10:37もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じないでいなさい。10:38しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」
★主を信じず、殺そうする宗教指導者たちに主が語られた言葉です。彼らはイエス・キリストが主張する「私と父とは一つである」が受け入れられないのです。すなわちそれはイエス様の神性・イエス様が神様であることが受け入れられないと言うことです。常識で考えても、たとえ非常識に立って考えたとしても、確かにあり得ないことです。しかしそれが、おこったのです。ただ神様が愛、一人も滅びることを願わないお方ゆえです。キリストの言葉と行いがもう一度神様から出たものかどうか目を閉じ黙想してみましょう。ヒデ

月曜日, 11月 21, 2011

20111121_ゼパニヤ3_ヨハネ9

■ゼパニヤ3:14シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。3:15主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。3:16その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。3:17あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。
★あなたのことを愛し、あなたを喜びとしておられる主がいます。あなたは自分のことが好きではないですか。もしそうなら、好きでないところ、自分でも自分が受け入れられないところを正直に主の前に心を注ぎだしてみて下さい。主はそれでもあなたのことをありのまま、わたしの楽しみと語られます。

ヨハネ9:2弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」9:3イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。9:4わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
★神様のわざが現されるために、神様はあなたをそのまま生かされました。人生の意味はまず神様に問わなければなりません。自分だけでいくら考えても答えは出て来ません。十字架を見上げましょう。父なる神様の愛を受け取りましょう。夜がきます。それでも、あなたはその時も働くことができる存在。人々に希望と慰めを与えることのできる存在とされています。ヒデ

日曜日, 11月 20, 2011

20111120_ヨハネ8

■ヨハネ8:57そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」8:58イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
★イエス様と律法学者が激突した結論部分です。律法学者たちは主が悪霊につかれていると主張します。主は、私は天の父を重んじているんだと、そして私の言葉を守る者はいつまでも死なないと。この時律法学者たちは主が語られた「私の言葉を守る者はいつまで死なない」にかみついたのです。その上主は「アブラハムは私がやがて受肉し、人々の前に立つこの日を楽しんだ」とまで語ったのです。宗教家たちが語る「イエスよお前は50にもならなのにアブラハムを見たのか」とは最もです。しかし主は「そうではない。私がアブラハムを見たのではなく、アブラハムが2000年前この私を見たのだ」「アブラハムの生まれる前から私は『有ってあるもの』だ」と。すなわちモーセに自身の名を明らかにした神なのだと語られたのです。イエス・キリストとは単なる宗教家指導者ではありません。こうした主張をした上で本当のところイエス・キリストがもし神様でなく人であったとしたら、まさに地上最強のペテン師です。地上最強のペテン師か神様か、そのどちらかです。そしてイエス様は神様なのです。「私はアブラムのうまれる前からいる」と語られる言葉と存在の中に救いがあることをかみしめる人は幸いです。ヒデ

土曜日, 11月 19, 2011

20111119_2列王23_ヨハネ7

■2列王23:24さらにヨシヤは、霊媒、口寄せ、テラフィム、偶像、それに、ユダの地とエルサレムに見られるすべての忌むべき物も除き去った。これは、祭司ヒルキヤが主の宮で見つけた書物にしるされている律法のことばを実行するためであった。23:25ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。
★イスラエルの歴史の中で偶像礼拝に対してこれほど徹底的な姿勢をとったのはヨシュア王以外にありません。それにしても人は何故偶像を造るのでしょうか。その人の心の深いところを掘り下げるなら隠された恐れと高慢に行き着くのです。しかし、本当の意味で恐れを取り除き、高慢を砕いて下さるお方は「恐れるな」と近づいて下さる、真の神「イエス・キリスト」以外にありません。心に造る偶像を捨て、キリストのもとに行きましょう。

■ヨハネ7:37さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。7:38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」7:39これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
★恐れやあきらめの心を取り除きあなたの心にいのちと喜びを注がれるお方は偶像ではありません。知って下さい。そのお方は聖霊様です。このお方は父なる神様、子なる神様と共に天地を造られたお方で、人々の心にキリストが神たることを証しする霊です。飢え乾き求むべきはこのお方聖霊様です。このお方を認めましょう。心の内に歓迎しまょう。あなの人生が変わります。ヒデ

金曜日, 11月 18, 2011

20111118_ヨハネ6

■ヨハネ6:37父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。6:38わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。6:39わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
★飼う者のない羊のような人々の姿を見た主は、ガリラヤ湖畔で御言葉を語られ、彼らを慰められましたが、そののち少年が差し出した5つのパンと2匹の魚を用いて、2万人近い人々を養われました。その恵みに与った人々の反応はというと主の追っかけです。「このお方に従ったら食いっぱぐれがないに違いない」そう思ったかどうかは別として、民は「モーセは荒野でマナを降らせて下さいましたが、従う者にあなたは何を下さるのですか」と主に迫ります。その時の答えが冒頭の御言葉で「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」でした。そう、決して主はあなたを捨てられることはありません。またあなたが罪を犯したから息苦しくなり、主の元を離れようと、どんなにあなたが身を隠しもがいても、あなたは主の遠くへ行くことはできません。あなたは赦されているのです。愛されているのです。決して主はあなたを捨てられることはありません。主はその証明としてご自身のいのちを十字架に捨てられたのです。ヒデ

木曜日, 11月 17, 2011

20111117_ナホム1_ヨハネ5

■ナホム1:14主はあなたについて命じられた。「あなたの子孫はもう散らされない。あなたの神々の宮から、わたしは彫像や鋳像を断ち滅ぼす。あなたはつまらない者であったが、わたしはあなたの墓を設けよう。」
★神様から離れた人間。どれほどの価値があるのでしょう。主はつまらないもの、いのちの失われた存在であることを曖昧にはなさいません。しかし同時に、いのちの関係を断ち切る偶像、すなわち罪を取り除き回復の恵みを与えて下さるお方です。墓を設けるとは、死に場所を設けると言うこと。いったいどれ程の人がその生涯において、自分のいのちを懸けても惜しくないほどに悔い無き、価値あるものに出会うことでしょう。主はあなたにそのいのちの捨て場所を与えて下さるお方です。日野原重明先生は「いのちは時間、与えられたミッションに生きる為に与えられた恵み」と語られます。

■ヨハネ5:39あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。5:40それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。
★イエス様が人々に向かって語られたメッセージの結論部分です。主は旧約聖書は私のことが書かれてあると宣言なさいました。すなわちアブラハムに現れ、イサクに現れ、ヤコブに現れモーセに現れた神は私だと。そうです。主は父なる神様と共に、ことばなる神として「光あれ」と、その宣言によって光を創造され、約束の民にご自身を現して来られたお方、そのお方がクリスマスに受肉なさったのです。聖書の中に命があるのではありません。聖書の中に証しされたこのお方、イエス・キリストの中にいのちがあるのです。キリストに近づきましょう。いのちの関係を信仰によって開いて頂きましょう。神様の愛はその信仰のパイプを通してあなたの内に豊かに注がれます。ヒデ

水曜日, 11月 16, 2011

20111116_2歴代33_ヨハネ4

■2歴代33:1マナセは十二歳で王となり、エルサレムで五十五年間、王であった。33:2彼は、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行った。33:3彼は、父ヒゼキヤが取りこわした高き所を築き直し、バアルのために祭壇を立て、アシェラ像を造り、天の万象を拝み、これに仕えた。……33:21アモンは二十二歳で王となり、エルサレムで二年間、王であった。33:22彼は、その父マナセが行ったように、主の目の前に悪を行った。彼は、その父マナセが造ったすべての刻んだ像にいけにえをささげ、これに仕えた。
★神様の選びの民の行いが聖書に覚えられているのと同様、私たちの行いも天に覚えられています。その上で罪を消し去って下さるのがイエス・キリストの血潮です。「御子イエスの血が全ての罪からきよめるのである」の通りです。ハレルヤ。

■ヨハネ4:3主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。4:4しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
★イエス様は目的地としたガリラヤに行くため、わざわざ遠回りまでして、なぜサマリヤに行かなければならなかったのでしょう。人生を踏み外し人目を避け、自分でも自分自身を受け入れられなくなっていた一人の婦人に神様の愛を注ぐためでした。主は井戸の傍らで「私に水を飲ませてくれませんか」と語りかけられましたが、最終的に5回の結婚と今なお6人目の男性と共に過ごしていても満たされなかった婦人の心は変えられ、あふれる喜びを自分の中に留められない程になったのです。アダムの子孫である人はみな罪と傷を負っています。主はそれを赦し癒すために尋ねて下さるお方です。遠回りではありません。あなたに赦しと命を注ぐこと、それが主の願いであり、そのために主は来て下さったのです。ヒデ

火曜日, 11月 15, 2011

20111115_イザヤ65_ヨハネ3

■イザヤ65:17見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。65:18だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。65:19わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
★神様からの言葉をたまわった預言者イザヤはキリスト誕生の750年前にすでに新天新地の約束を語っています。ここに記されている通りです。陸上競技者はどんなに速く走ることができたとしても、自分が入るべきゴールを知らなければ勝利することは出来ません。主はあなたのためにゴールを明確にしておられます。やがてこの世には終わりが来ます。この世の何かをあなたの人生のゴールにしてはなりません。永遠に存在される神様に望みを置きましょう。

■ヨハネ3:17神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。3:18御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。3:19そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。……3:21しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
★神様との交わりを慕い求めて一人静まりたいと願うのは別です。しかし人がそれ以外の理由で交わりを避けようとするとき要注意です。その背後に罪や癒されるべき傷が今なお痛んだまま存在している場合があります。御子イエス様はあなたを救うために来られました。主に向かって心を開き、近づき続けましょう。ヒデ

月曜日, 11月 14, 2011

20111114_イザヤ64_ヨハネ2

■イザヤ64:1ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。……64:3私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行われるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。64:4神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。64:5あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行う者、あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。
★2000前に主が来られたことを初臨、これからやがて来られることを再臨と表現します。そして主の再臨の預言は初臨の預言よりもまさって多く300以上あります。そのお方はあなたを迎えるため、歴史を完成へと進ませるために来られます。そして「でも私たちは救われるでしょうか」との問いにあなたは言わなければなりません。「主が代価を払われたので大丈夫です」と。

■ヨハネ2:9宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、──しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた──彼は、花婿を呼んで、2:10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
★結婚披露宴でもてなすぶどう酒がなくなるとは花婿花嫁にとって悲劇でした。その悲劇を主は救われますが、用いた材料は水と二人を愛する者たちの従順でした。主の奇跡に与る人がいます。主の奇跡の現れのために隠れたところで直向きに労する人がいます。どちらも幸いです。あなたはこの両方の味を知っていますか。両方知ることが大切です。ヒデ

日曜日, 11月 13, 2011

20111113_イザヤ60_ヨハネ1

■イザヤ60:19太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。60:20あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。
★主の預言はやがてそのことが起こった時すたれます。預言よりも、起こり現れたそのことの方があまりにも尊く栄光に満ちているからです。同様に主ご自身が信じる者の光となる時が来ます。確かに信じるお互いは既に心の中にその光を頂いています。けれど本当にやがての日、主が新天新地の光となる時がくるのです。あなたの涙をぬぐわれるお方がいます。その方は来られます。見あげましょう。主にあったお互いの霊を奮い立たせて頂きましょう。

■ヨハネ1:29その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
★キリストを「言」と表現し、永遠のはじめからおられたお方として紹介するヨハネの福音書の書き出しです。その「言なるお方が人となって私たちの間に住まわれた」とマリヤの処女降誕を展開するヨハネですが、では何のためにキリストは来られたのか。その答えを一言であらわした言葉が上の御言葉です。私たちの罪の自ら担い、神への贖いの献げ物として死ぬために来られたキリスト。彼はあなたの罪のために刺し通され、あなたの咎のために砕かれたのです。あなたはその打たれた傷によって癒されます。疑うナタナエルに主の弟子ピリポは来てみなさいと語ります。あなたはことばなるキリストの前にもう既に行かれましたか。キリストの言葉に触れることを通して心に感動を覚えるなら、それはもはや聖霊様があなたの心に触れておられるのです。ヒデ

土曜日, 11月 12, 2011

20111112_詩篇103_イザヤ58_2ペテロ3

■詩篇103:8主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。103:9主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。103:10私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。103:11天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
★主のいのちの代価によって贖われた者として主に似る者として頂けるなら何と感謝でしょう。主はいつまでも怒ってはおられないお方です。あなたはどうですか。いつまでも一つのことを根に持ち怒り、憤り、争ってはいませんか。赦しのために取りなす。それが主の霊を受けた者に最もふさわしい姿です。

■イザヤ58:6わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。58:7飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。58:8そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。
★イザヤは真の宗教とは単なる儀式ではなくライフスタイルであることを諭します。そう私たちは生き方が問われているのです。

■2ペテロ3:9主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
★一人も滅びることを願わない父の心に生きる人は幸いです。ヒデ

金曜日, 11月 11, 2011

20111111_イザヤ53_2ペテロ2

■イザヤ53:4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。53:5しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
★イザヤに与えられた主の預言です。キリストが十字架にかけられる750年前の出来事です。しかし、まるで十字架を目の前で見ているような預言です。主は十字架によって私たちの病を引き受け、当然支払うべき罪の代価を払い終わって下さいました。ゆえに癒された、赦され解放されたのです。あなたはこれを自分のこととして受け取る必要があるのです。その時この預言が成就します。

■2ペテロ2:20主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。2:21義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。
★ペテロは主の十字架と復活の福音を受け入れつつも罪を犯し、恵みからそれて行く教会に上の言葉を贈ります。福音とはそもそも恵みです。本来受ける資格のないものにも与えられる恵みです。与えられる福音に価値がないわけではありません。御子の命がかかった福音で、あまりの価値にお金で換算できないので、ただで受けたのです。それを軽んじる魂とは、まさに霊の目が閉ざされているとしか言いようがありません。その当然の結果として彼は滅びを刈り取ることになるのです。知らずに犯す罪よりも、知って犯すあなどりの方が遙かに求められる代償は大きいのです。間違ってはいけません。ヒデ

木曜日, 11月 10, 2011

20111110_詩篇92_イザヤ52_2ペテロ1

■詩篇92:13彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。92:14彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。92:15こうして彼らは、主の正しいことを告げましょう。主は、わが岩。主には不正がありません。
★今朝は熟年の皆さんへのチャレンジです。あなたのくちびるに溢れる言葉はどんな言葉が多でしょう。愚痴ですか。つぶやきですか。それとも主への感謝ですか。背中を伸ばし、胸をはりましょう。あなたは主の誇りです。

■イザヤ52:11去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。主の器をになう者たち。52:12あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。
★「主の器をになう者として自分をきよく保て」と語られる時、あなたは何を連想しますか。その人の持つセルフイメージによって答えは大きく異なるかも知れません。責めを感じる必要はありません。受け入れられるためにではありません。すでに愛され受け入れられいるからこそです。既に主はあなたを守っておられます。

■2ペテロ1:16私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。1:17キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」
★ペテロの変貌山での体験です。彼はモーセとエリヤとともにいる主を見たのです。同様に主は栄光の体をもって再び来られます。ヒデ

水曜日, 11月 09, 2011

20111109_イザヤ46_1ペテロ5

■イザヤ46:3わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。46:4あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。
★「なお」とは、今までもそうで、これからもそうするということです。何をそうするのでしょう。主があなたを背負われることです。押しのける者ヤコブは決して彼を諦めない神様の恵みと御手によってイスラエル(神の皇太子)とされました。あなたと、その人生に対しても主はヤコブ同様夢見て下さり、担って下さり、そして完成して下さいます。あなたもそんな主に同意して、自分自身とその生涯を生きた備えものとして主の前に差し出すのです。

■1ペテロ5:6ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。5:7あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。5:8身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
★ペテロはこの勧めを、「若い人たちよ」と語ったあとに記します。若い時は横にいるライバルや同年代の人のことが格別気になりやすいからでしょうか。友として励まし合う事は素晴らしいですね。しかし、目の前の相手との競争ばかりに縛られていては、あなたの内にある神様が下さっている宝に気づく時間もないですね。心配は無用です。高くしてくださるのは神様です。思い煩うよりもむしろ、さあ主を見上げ、主に信頼し、み前の直向きな一歩を始めましょう。ヒデ

火曜日, 11月 08, 2011

20111108_イザヤ43_1ペテロ4

■イザヤ43:1だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。43:2あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。……43:4わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している……。
★神様のご自身の民に対する愛が余すところなく注ぎ出されます。主はここで出エジプトの出来事を取り上げ民の心に語りかけようとなさいますが、あなたも人生の中で一度や二度絶体絶命のピンチを経験したことがあるのではないですか。その中で今あるのは、その背後に主がおられ、主が助けて下さったからではないですか。

■1ペテロ4:7万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。4:8何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。4:9つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。4:10それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
★神様はこのみことばを通してこの時代、強くご自身の思いを語りたいと願っておられるのではないでしょうか。天地創造を始められた主は、その完成、新天新地に向けて働かれ、経綸的には今まさに教会時代から、キリストの再臨を経て、艱難時代にさしかかろうとしています。キリストが語られた「天地は滅びます。しかし私の言葉は滅びることはありません」は単なる脅しではありません。だから、備えるのです。祈り合い、愛し合い神様の前に立つものとして。ヒデ

月曜日, 11月 07, 2011

20111107_イザヤ40_イザヤ41_1ペテロ3

■イザヤ40:28あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。……40:30若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。40:31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
★疲れない者とは「主を待ち望む者は」です。あなたは疲れていませんか。静まっていますか。待ち望んでいますか。

■イザヤ41:8しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。41:9わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」41:10恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
★まさにこのことばも我々が深く心に受け止めるため聞くべき言葉です。主は決してあなたを捨てることなく守ると約束なさいます。そのためにこそアブラハムすえとして、主はあなたを召し出したのですから。

■1ペテロ3:8最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。3:9悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
★召し出された理由についてペテロはイザヤ41章と同じ理由をあげます。それ以外にないからです。主の愛を感謝しましょう。主はあなたを愛しておられます。ヒデ

日曜日, 11月 06, 2011

20111106_詩篇75_1ペテロ2

■詩篇75:2「わたしが、定めの時を決め、わたしみずから公正にさばく。75:3地とこれに住むすべての者が揺らぐとき、わたしは地の柱を堅く立てる。75:4わたしは、誇る者には、『誇るな』と言い、悪者には、『角を上げるな。75:5おまえたちの角を、高く上げるな。横柄な態度で語るな』と言う。」75:6 高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。75:7それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。
★「わたし」と語られ「誇るな。角を上げるな。公平に裁く。」と語られるお方は主です。あなたではなく主です。このお方への従順を学びましょう。そこにこそ揺るぎない信仰と感謝がうまれます。

■1ペテロ2:22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。2:23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。2:24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。2:25あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
★あなたはここでペテロが語った言葉をそっくりそのまま「アーメン」と告白出来ますか。ならば感謝しましょう。お金をいくら積んでも到底得ることのできない宝を既にあなたは手にしています。永遠の命です。それとも告白出来ませんか。ならばあなたの目は霊的意味において開かれる必要があります。そのために飢え乾きがおこされるように、やがて満たされるように祈りましょう。そこからあなたの永遠は始まり、そのいのちは輝きを放ち始めます。ヒデ

土曜日, 11月 05, 2011

20111105_詩篇76_イザヤ37_1ペテロ1

■詩篇76:2神の仮庵はシャレムにあり、その住まいはシオンにある。76:3その所で神は弓につがえる火矢、盾と剣、また戦いを打ち砕かれた。
★主は主を受け入れた人の心の内に住み、内にある戦いを止めさせて下さるお方。止めるようにと導かれるお方です。「黙れ、静まれ」と嵐を静められる神様に自分自身をゆだねる決心をする人は幸いです。

■イザヤ37:16「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。37:17主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばをみな聞いてください。37:18主よ。アッシリヤの王たちが、すべての国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。37:19彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。37:20私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。」
★アッシリアの王がユダに攻め入ろうとした時、ユダ王国の王ヒゼキヤが神様の前に注ぎだした祈りです。主は祈りを覚えられるお方。この祈りのゆえに、主はご自身の御手を動かし、攻め入ろうとするアッシリアの内側に問題を起こさせ、セナケリブ王を自国に連れ戻されました。絶体絶命からの回復です。あなたの強さ、弱さが問題ではありません。主に心注ぎだして祈る祈りが、あなたの内にあるかないかが問題です。

■1ペテロ1:22あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。
★真理に従うことによって与えられた尊い宝があなたの内にある。ハレルヤ!ヒデ

金曜日, 11月 04, 2011

20111104_2歴代32_ヤコブ5

■2歴代32:20そこで、ヒゼキヤ王とアモツの子預言者イザヤは、このことのゆえに、祈りをささげ、天に叫び求めた。32:21すると、主はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの王の陣営にいたすべての勇士、隊長、首長を全滅させた。そこで、彼は恥じて国へ帰り、彼の神の宮に入ったが、自分の身から出た子どもたちが、その所で、彼を剣にかけて倒した。
★上の御言葉は、アッシリアの王セナケリブが南ユダ王国に入り城壁のある町々に陣をはり、「ヒゼキヤは、『私たちの神、主は、アッシリヤの王の手から私たちを救い出される』と言って、おまえたちをそそのかし、飢えと渇きで、おまえたちを死なせようとしているではないか。おまえたちは、私と私の先祖たちが地のすべての国々の民に対して、何をしてきたかを知らないのか。地の国々の神々が彼らの国を私の手から救い出すことができたか。今、おまえたちは、ヒゼキヤにごまかされるな。」と語った時に取った行動です。結果、神様はヒゼキヤと預言者イザヤの祈りに応えてユダ王国を守って下さいました。サタンは様々な言葉と誘惑によってあなたの神様への信頼をなくそうとします。しかしだまされてはなりません。勝利は常に神様の側に立つ者に与えられるのです。

■ヤコブ5:12私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。
★終末の近いことを感じた主の兄弟ヤコブの言葉です。彼は、真実に対して、ことばを付け加えることも、取り除くこともしなくてよいと語ります。そうでなければ知らぬまにサタンに陥れられるのです。それだけ終末は、神様の恵みも多いと共に誘惑も多いのです。欲にひかれてはなりません。

木曜日, 11月 03, 2011

20111103_2歴代31_ヤコブ4

■2歴代31:20ヒゼキヤはユダ全国にこのように行い、その神、主の目の前に、良いこと、正しいこと、誠実なことを行った。31:21彼は、彼が始めたすべてのわざにおいて、すなわち、神の宮の奉仕、律法、命令において神に求め、心を尽くして行い、その目的を果たした。
★25才で王になたヒゼキヤ。彼は主の宮を聖別し先祖たちが持ち込んだ偶像および汚れたものを一掃します。神様がその御顔を聖所から背け、国に注がれていた祝福が失なわれたからです。彼がこの宗教改革に取り組むにあたり聖書は「決心した」と記します。そうです。改革のためには勇気ある決断が必要です。そして自分自身から始めることが必要です。そのため改革の費用は王の所有の蔵から宝を持ち出しと語ります。少しずつかも知れません。しかし確実にその輪は広がり、遂に彼はその目的を果たします。果たすべき使命を諦めてしまってはなりません。できないことを数えるのではなく、実現した時、かなえられる主の祝福を夢見て、なすべきことを一つ一つ積み上げましょう。

■ヤコブ4:5それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。4:6しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」4:7ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。4:8神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。
★へりくだって神様に近づく。聖書が繰り返し語る祝福の生涯のための中心メッセージです。ここに生き続けようと心砕く人は幸いです。ヒデ

水曜日, 11月 02, 2011

20111102_詩篇46_ヤコブ3

■詩篇46:1神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。46:2それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。46:3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。
★作者はなぜ天変地異の中にあってもこの詩をもって自らを支え、神様の栄光を拝することができたのでしょうか。それは「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」との御声を聞き、聖なる住まいに座しておられる主を霊の目をもって見たからです。「やめよ」とは「むだな企てをやめ、静まれ」の意味です。サタンは天変地異をもって人の心の中に動揺を与え、神様への信仰を失わせようと働きます。だまされては、惑わされてはなりません。主は必ずそのあなたの課題からあなたを助け出されるお方です。

■ヤコブ3:17しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。3:18義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。
★ヤコブは召し出された人々が祝福の中を歩むため、よき御霊の実を刈り取るために「しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。」と語り、祝福のカギが何かを示します。「言葉づかい」です。「やめよ」と語って下さる主の前にしばし静まり、普段自分が語る言葉をから、自らの内面を顧みましょう。神様にある言葉は人に希望を与え、人を慰め、癒し、平和をもたらします。ヒデ

火曜日, 11月 01, 2011

20111101_イザヤ33_ヤコブ2

■イザヤ33:1ああ。自分は踏みにじられなかったのに、人を踏みにじり、自分は裏切られなかったのに、人を裏切るあなたは。あなたが踏みにじることを終えるとき、あなたは踏みにじられ、あなたが裏切りをやめるとき、あなたは裏切られる。33:2主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。
★力にものを言わせる生き方と、神様を畏れる者の生き方の対比です。力にものを言わせる誘惑に駆られる者の内面を掘り下げたら、そこには高慢か恐れが出てくることでしょう。この二つはまさに神様に取り扱って頂くべきテーマです。主の御もとには柔和と平安、そこからうまれる感謝と希望が満ちています。あなたは力にものを言わせようとする道を選択してはなりません。それはほろびです。

■ヤコブ2:14私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
★当時教会には「主を信じる」と告白しても、貧しい者は軽んじ、裕福そうに見える人々は優遇するといった卑怯な思惑が生じはじめていました。そこで主の実弟であり弟子ヤコブは人を生かす信仰とは何かを率直に正します。確かに人は主を信じただけで救われます。信仰義認です。しかし聖書の言う信仰とは、信仰と従順を別々に切り離すことができるようなものではなくひとつで、だからこそ行いによって自分の信じるものが何かを見せることができたのです。アブラハム、ラハブしかりです。信仰と従順を切り離そうとする誘惑に陥ってはなりまんせん。それは偽善であり罠です。あなたを救う何の力にもなりません。ヒデ