火曜日, 11月 01, 2011

20111101_イザヤ33_ヤコブ2

■イザヤ33:1ああ。自分は踏みにじられなかったのに、人を踏みにじり、自分は裏切られなかったのに、人を裏切るあなたは。あなたが踏みにじることを終えるとき、あなたは踏みにじられ、あなたが裏切りをやめるとき、あなたは裏切られる。33:2主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。
★力にものを言わせる生き方と、神様を畏れる者の生き方の対比です。力にものを言わせる誘惑に駆られる者の内面を掘り下げたら、そこには高慢か恐れが出てくることでしょう。この二つはまさに神様に取り扱って頂くべきテーマです。主の御もとには柔和と平安、そこからうまれる感謝と希望が満ちています。あなたは力にものを言わせようとする道を選択してはなりません。それはほろびです。

■ヤコブ2:14私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
★当時教会には「主を信じる」と告白しても、貧しい者は軽んじ、裕福そうに見える人々は優遇するといった卑怯な思惑が生じはじめていました。そこで主の実弟であり弟子ヤコブは人を生かす信仰とは何かを率直に正します。確かに人は主を信じただけで救われます。信仰義認です。しかし聖書の言う信仰とは、信仰と従順を別々に切り離すことができるようなものではなくひとつで、だからこそ行いによって自分の信じるものが何かを見せることができたのです。アブラハム、ラハブしかりです。信仰と従順を切り離そうとする誘惑に陥ってはなりまんせん。それは偽善であり罠です。あなたを救う何の力にもなりません。ヒデ

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