木曜日, 6月 30, 2016

20160630_創世記4 ピレモン

■創世記4:13 カインは【主】に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。 4:14 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」
弟アベルを殺したカインの告白です。罪の重さに押しつぶされそうになりつつも、弟を殺害した動機の根源に気づいていません。その表れは、どこまでも内向きな「私に出会う者は誰でも私を殺すでしょう」との、自己保身のことばとなっています。根本的な罪は、自分が何者であるかをわきまえることなく、自らのわざをもって神様の前に自分を大きく見せよう、誇ろうとする、その姿勢にありました。

ピレモン1:12 そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。 1:13 私は、彼を私のところにとどめておき、福音のために獄中にいる間、あなたに代わって私のために仕えてもらいたいとも考えましたが、 1:14 あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。
キリスト者の選択の背後には、御心はどこにあるのか、との動機があります。それを越えてすることは、たとえよい行動、ゆるされる行動のように見えたとしても、栄光をあらわす神様のわざとはなり得ない場合が。動機とプロセスと重んじるキリスト者としての生き方がここにあります。

水曜日, 6月 29, 2016

20160629_創世記3 ピリピ4

■創世記3:22 神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」 3:23 そこで神である【主】は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
こうして本来死ぬ必要のなかった人が死ぬことに。神様との断絶(罪)が招いた結果です。しかしここから神様の救いはスタートします。永遠を滅びに生きる者ではなく、神様との満ちあふれたいのちに生きれる様回復の道のスタートです。ただ死を恐れる者ではなく、死の本質が何かを見極め「神様との断絶」、キリストを通して神様が備えてくださった豊かな祝福にあずかるものとなりましょう。

ピリピ4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

火曜日, 6月 28, 2016

20160628_創世記2 ピリピ3

■創世記2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。2:23 人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
傍らに置かれるのは神様。それを如何なるものとして選択するのは人。選択には責任が伴います。

ピリピ3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリスト者のすべてが新しくなった根拠がここに。国籍が移されたのです。地上から天上に。

月曜日, 6月 27, 2016

20160627_創世記1 ピリピ2

■創世記1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 1:31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

ピリピ 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。 2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、 2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

日曜日, 6月 26, 2016

20160626_マラキ3 ピリピ1

■マラキ3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の【主】は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。3:17 「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の【主】は仰せられる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
キリスト者は神様の特別の所有の民です。ゆえに神様の守りの中に人生を委ねることが祝福の中を生きる秘訣です。

ピリピ1:15 人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。1:16 一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、
1:17 他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。1:18 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。
何とパウロは空しいプライドから解放されていることか。ここには全く自分が見えません。さてあなたはいかに。

土曜日, 6月 25, 2016

20160625_マラキ2 ローマ16

■マラキ2:10 私たちはみな、ただひとりの父を持っているではないか。ただひとりの神が、私たちを創造したではないか。なぜ私たちは、互いに裏切り合い、私たちの先祖の契約を汚すのか。

ローマ16:25 26 私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現されて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、
 16:27 知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。

金曜日, 6月 24, 2016

20160624_マラキ1 ローマ15

■マラキ1:1宣告。マラキを通してイスラエルにあった【主】のことば。1:2 「わたしはあなたがたを愛している」と【主】は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。──【主】の御告げ──わたしはヤコブを愛した。
旧約最後の預言者マラキは、ハガイ、ゼカリヤ、ネヘミヤの後、紀元前430年頃働きます。神殿再建から約1世紀が経ち、人々は礼拝への熱心さを失いかけている時です。イザヤやエレミヤ、ミカによる胸躍るようなメシヤ預言が、いまだ成就ざれないことから、無関心と失望感が漂う中での活動でした。紀元前586年のエルサレム陥落をもたらした罪の多くは、依然ユダに蔓延し、マラキは、正しい神とかたくなな民との間に交わされる、視覚に訴えかけるような会話を通して、偽善者たちの罪を指摘しました。

ローマ15:5 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。 15:6 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。15:7 こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。
ローマ教会は多様な共同体で、ユダヤ人と異邦人、奴隷と自由の民、金持ちと貧しい者、強い者と弱い者から成り立っていました。ゆえにお互いを受け入れることは彼らにとって難しいことでした。受け入れるとは、心の中にだけでなく、家の中、食事や活動を共にし、人種差別や経済差別を排除することをも意味します。

木曜日, 6月 23, 2016

20160623_ゼカリヤ14 ローマ14

■ゼカリヤ14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。14:5 山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、【主】が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。
主がご自身の民の救いと正しい裁きのために再び来られたときの光景です。大切なことは主がご自身の民を知っておられと言うこと。あなたに完全な救いを与え、ご自身の贖いの物語を完成させられる神様がおられると言うのです。ゼカリヤの最終章はこの預言で終わります。

ローマ14:4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。

水曜日, 6月 22, 2016

20160622_ゼカリヤ12-13 ローマ13

■ゼカリヤ13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。
神様のあわれみと赦し、きよめの力が限りなく注がれます。この泉は、神殿から絶えず流れ出る(エゼキエル47:1)の川と似ています。泉はみことばの中で、神様の赦しを象徴します。ヨハネ4章でイエス様は、私たちを完全に満たしてくれる「生ける水」について語られました。霊的渇きは人に赦しをもたらすイエス様ご自身から溢れています。このお方から飲みましょう。

ローマ13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。
「キリストを着る」 そのひとつに洗礼を受けることがあります。まだ洗礼を受けておられない方があるなら是非受けることをおすすめします。受洗は主の愛に対する人ができる応答であり、教会への愛の表現です。

火曜日, 6月 21, 2016

20160621_ゼカリヤ10-11 ローマ12

■ゼカリヤ10:6 わたしはユダの家を強め、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。わたしが彼らをあわれむからだ。彼らは、わたしに捨てられなかった者のようになる。わたしが、彼らの神、【主】であり、彼らに答えるからだ。
あなたを強めてくださるお方は神様です。このお方から引き離されることがありませんように。

ローマ12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
前章11:34「ぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか」のごとく、神様はあなたの生涯にも特別な計画をお持ちです。だからこそ強いられてする死んだ供え物としてではなく、生ける供え物として従順と期待を持ってささげるのです。

月曜日, 6月 20, 2016

20160620_ゼカリヤ9 ローマ11

■ゼカリヤ9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。
主イエス・キリストのエルサレム入場によってこの預言は成就しました。

ローマ11:29 神の賜物と召命とは変わることがありません。11:30 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、11:31 彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。
神様にあっては不可能はありません。ことを完成させてくださるのは神様。ピリョウドを打つことは神様に委ねましょう。

土曜日, 6月 18, 2016

20160618_ゼカリヤ6-7 ローマ9

■ゼカリヤ7:12 彼らは心を金剛石のようにして、万軍の【主】がその御霊により、先の預言者たちを通して送られたおしえとみことばを、聞き入れなかった。そこで、万軍の【主】から大きな怒りが下った。
不従順を繰り返すたびに心は頑なになって行きます。怖いことです。今日主の御声を聞いたなら従いましょう。祝福を受ける秘訣です。

ローマ9:31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。9:32 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
選民とされたイスラエルが祝福を逃した理由です。神様ではなく、自分により頼み自分を誇る道を選んだためです。盲目な案内人の責任の何と重いことでしょう。思い違いをしてはなりません。

金曜日, 6月 17, 2016

20160617_ゼカリヤ4-5 ローマ8

■ゼカリヤ4:6 すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの【主】のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は仰せられる。4:7 大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」
鍵となることばは、「わたしの霊によって」です。永遠の価値ある働きは神様の霊によってのみなされます。帰還した捕囚の民は確かに弱々しく、敵に妨害され、疲れ果て、失望し、貧しいものでした。しかし、神様が味方でした。自分の力や能力に頼るのか、神様に拠り頼み、神の霊の力によってことをなすのか今決めて今日も一日を始めましょう。

ローマ8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
主の御名による病の癒やし、復活、栄光の身体に変えられる希望の根拠がここに記されています。

木曜日, 6月 16, 2016

20160616_ゼカリヤ2-3 ローマ7

■ゼカリヤ3:7 「万軍の【主】はこう仰せられる。もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。わたしは、あなたをこれらの立っている者たちの間で、宮に出入りする者とする。
捕囚時代、祭司職はありませんでした。帰還に伴い、再任命が必要だったのです。この幻で、ヨシュアは大祭司として任じられます。大祭司の務めの1つは、賦罪の日に民のすべての罪の償いとしていけにえをささげることです。祭司は神様と国との仲介者です。そのため、来るべきメシヤ(イザヤ11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。)を表していたのです。メシヤなるイエス様は大祭司として、たった一度だけ、私たちの罪を取り除くためにご自分をいけにえとしてささげられます。この新しい方法によって、すべてのクリスチャンは祭司として、きよい人生を神様ににさざげれるようになりました。(1ペテロ2:9、黙示5:10)

ローマ7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。 7:19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
キリストに出会うまでのパウロの霊的葛藤です。しかしキリストにあってここからパウロは解放されました。

水曜日, 6月 15, 2016

20160615_ゼカリヤ1 ローマ6

■ゼカリヤ1:16 それゆえ、【主】はこう仰せられる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。──万軍の【主】の御告げ──測りなわはエルサレムの上に張られる。』 1:17 もう一度叫んで言え。万軍の【主】はこう仰せられる。『わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる。【主】は、再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ。』」
1:12には「いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたがのろって、七十年になります。」とありますが、神様は選びの民を一瞬たりとも忘れることはありません。時を生かし、最善の時に働かれます。

ローマ 6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
 6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
クリスチャンとは罪を犯す可能性のない人ではなく、罪の奴隷ではない人です。

火曜日, 6月 14, 2016

20160614_ハガイ2 ローマ5

■ハガイ2:23 その日、──万軍の【主】の御告げ──シェアルティエルの子、わたしのしもべゼルバベルよ、わたしはあなたを選び取る。──【主】の御告げ──わたしはあなたを印形のようにする。わたしがあなたを選んだからだ。──万軍の【主】の御告げ──

ローマ 5:20 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。 5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

月曜日, 6月 13, 2016

20160613_ハガイ1 ローマ4

■ハガイ1:8 山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう。【主】は仰せられる。 1:9 あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。──万軍の【主】の御告げ──それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。
「まず神の国とその義とを求めよ」とありますが、自分の生活に埋没し、その思いから神様を押し出してしまっている民の姿への戒めがここにあります。その背後には約束に従う者を必ず豊かにされる神様がおられるからです。

ローマ  4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。 4:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
アブラハムが信仰の父とされたゆえんです。「神様は約束されたことを成就する力がある」。あなたは神様の力と約束に対する姿勢についてどのように受け取っておられますか。

日曜日, 6月 12, 2016

20160612_ゼパニヤ3 ローマ3

■ゼパニヤ3:17 あなたの神、【主】は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。

ローマ  3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。 3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
なぜ神様は信仰によってのみ私たちを救われるのでしょう。信仰は私たちが行う行為ではないので、人間の努力という思い上がりを取り除きます。信仰は、私たちが行うことではなく、神様がなさったことを賛美すること。信仰は、私たちには律法を守ることができず、神様の基準に達することができないことを認めること。信仰は、神様に対する自らの功績ではなく、神様との関係に基づいているもの。信じて仰ぎましょう。そこに救いがあります。

土曜日, 6月 11, 2016

20160611_ゼパニヤ2 ローマ2

■ゼパニヤ2:3 主の定めを行うこの国のすべてのへりくだる者よ。【主】を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、【主】の怒りの日にかくまわれるかもしれない。
旧約時代の預言者たちはみな滅びを警告しますが、同時に滅びから逃れる方法も教えています。罪から離れ、神様と共に歩むそれれです。

ローマ  2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。 2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
自分の姿が見えていない故ですが、いかにも自分は全ての律法を守り行うことができますとのおごった生き方は決して神様の御前に受け入れられることはありません。そうではなく、砕かれた心をもって神様に近づくことがいかに尊いことか。水は高いところから低いところに流れるように神様の恵みも同じように流れます。

金曜日, 6月 10, 2016

20160610_ゼパニヤ1 ローマ1

■ゼパニヤ1:7 神である主の前に静まれ。【主】の日は近い。【主】が一頭のほふる獣を備え、主に招かれた者を聖別されたからだ。
ゼパニヤはユダの王ヨシヤの時代(640-609)の預言者です。ヨシヤは神に従う者であり、その治世に律法の書が神殿内で発見されます。ヨシヤはそれを読むと、ユダ王国で宗教的大改革を始めました(2列王22:1-23:25)。ゼパニヤは民に、もし罪から離れなければ神様のさばきが下ると警告し、この大改革を応援しました。民はこの大改革によりわずかな期間、神様に立ち返りますが、完全に偶像礼拝を捨てることができず、ヨシヤの死後4年経って、ネブカデネザルのもとイスラエル人は捕囚の民となります。

ローマ 1:2 ──この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、
 1:3 御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
福音とは御子そのものです。キリスト教教理が人を救うのではありません。キリストとの出会いがあなたを救います。

木曜日, 6月 09, 2016

20160609_エゼキエル48 2コリント13

■エゼキエル48:35 町の周囲は一万八千キュビトあり、その日からこの町の名は、『主はここにおられる』と呼ばれる。」
エゼキエル書の最終章で、最後は新しい神殿、新しい場所での礼拝です。主の者とされたあなたがこそが神殿であり、キリストによって回復された神様との交わりは永遠に続きます。

2コリント13:5 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか──あなたがたがそれに不適格であれば別です。──
 13:8 私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。
信仰によって、高価で貴い者として回復された自分を受け入れ、信仰に立って行動することが祝福を受け取る秘訣です。

水曜日, 6月 08, 2016

2020160608_エゼキエル47 2コリント12

■エゼキエル47:9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。
この川とは聖霊を意味し、あなたを生かします。

2コリント12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
弱いときにこそ強い。キリストにある奥義です。

火曜日, 6月 07, 2016

20160607_エゼキエル46 2コリント11

■エゼキエル46:2 君主は外側の門の玄関の間を通って入り、門の戸口の柱のそばに立っていなければならない。祭司たちは彼の全焼のいけにえと、和解のいけにえをささげ、彼は門の敷居のところで礼拝して出て行かなければならない。門は夕暮れまで閉じてはならない。
あなたのために神様に近づく戸はいつも開かれています。

2コリント11:21 言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちは弱かったのです。しかし、人があえて誇ろうとすることなら、──私は愚かになって言いますが──私もあえて誇りましょう。
このあとパウロはあえて自分の肉の誇りを紹介しますが、その理由はコリントの中に自らの肉を尊大に誇り、幼いクリスチャンを混乱させている者がいたからです。残念なかぎりです。パウロのこの言葉によって彼らは自らの愚かさに気がつけばいいのですが。

月曜日, 6月 06, 2016

20160606_エゼキエル45 2コリント10

■エゼキエル45:1 あなたがたがその地を相続地として、くじで分けるとき、その地の聖なる区域を奉納地として【主】にささげなければならない。その長さは二万五千キュビト、幅は一万キュビト。その周囲の全域は聖なる地である。
神殿のために割り当てられた土地は、国の中央に位置します。神様は私たちの生活の中心でなければなりません。

2コリント10:12 私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。10:17 誇る者は、主を誇りなさい。 10:18 自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。
あなたは自分を人と較べる必要は全くありません。主との交わりの中で感謝の応答を主にささげる者でありましょう。

日曜日, 6月 05, 2016

20160605_エゼキエル44 2コリント9

■エゼキエル44:15 しかし、イスラエル人が迷ってわたしから離れたときもわたしの聖所の任務を果たした、ツァドクの子孫のレビ人の祭司たちは、わたしに近づいてわたしに仕え、わたしに脂肪と血とをささげてわたしに仕えることができる。──神である主の御告げ──
この章でツァドクの子孫に言及されているのは、他の部族が腐敗する中、ツァドクの家系の多くの者が神様に忠実であり続けたからです。ツァドクは神様がソロモンをダビデの跡継ぎとして選ばれたことを支持したため、ソロモンの治世の間、大祭司に任命されます。(1列王1:32-352:2735)。ツァドクの子孫は旧約聖書と新約聖書の中間の時代を通じて、真の祭司の家系とされます。主はまさにあなたの隠れた忠実を見ておられるお方です。

2コリント9:6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。9:7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。9:8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
聖徒の入り用についてのパウロの記述です。主によって豊かにされた感謝をもって強いられることなく応答しましょう。主はむくいてくださいます。

土曜日, 6月 04, 2016

20160604_エゼキエル43 2コリント8

■エゼキエル43:7 その方は私に言われた。「人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。イスラエルの家は、その民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。43:9 今、彼らにその淫行や王たちの死体をわたしから遠く取り除かせなければならない。わたしは永遠に彼らの中に住もう。
清くあろうとする人の努力によってではなく、主の臨在に触れるとき人は清くされます。主ご自身を求めましょう。思いを主に向けましょう。主の臨在に触れて頂けるように。

2コリント8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
 8:12 もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。
主から富む者とされたお互いが成熟へと進む方向性が示されています。与えることに富む姿勢。主からのチャレンジに応答しましょう。

金曜日, 6月 03, 2016

20160603_エゼキエル41-42 2コリント7

■エゼキエル41:4 彼はまた、本堂に面して長さ二十キュビト、幅二十キュビトを測って、私に「これが至聖所だ」と言った。
「これ」とは今やあなたです。あなたこそが神の聖所とされました。一つ一つ神殿の詳細を計るようにと命じられた背景には、理解するようにとの意図がありました。いたずらに信じないで、父なる神様によってもたらされたキリストの贖いをしっかりと理解し、受け入れるとき、あなたは永遠の命と天国への約束を手にします

2コリント7:8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、7:9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。7:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
罪をいかに悲しむかによって人の人生は変わります。世の悲しみとは、罪自体を悲しまず、罪がもたらす結果や、罪を犯していることがばれることを悲しむように人を導きますが、御心にそう悲しみはひとを罪のゆるしと救いへと導きます。ペテロの激しい後悔と悔い改めと、イスカリオテ・ユダの悲しみと自殺と比較してみましょう。罪そのものを悲しむ者であれますように。

木曜日, 6月 02, 2016

20160602_エゼキエル40 2コリント6

■エゼキエル40:1 私たちが捕囚となって二十五年目の年の初め、その月の十日、町が占領されてから十四年目のちょうどその日、【主】の御手が私の上にあり、私をそこへ連れて行った。 40:2 すなわち、神々しい幻のうちに、私はイスラエルの地へ連れて行かれ、非常に高い山の上に降ろされた。その南のほうに町が建てられているようであった。
捕囚の中で希望を失った民を、再び主が完全な神殿へと連れ戻す希望のメッセージです。どんなところにあっても主はあなたを完全な場所へと連れ戻すことのできるお方です。

2コリント6:16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
「神の宮となるために私はどうしたらよいのでしょう」ではありません。あなたは既にキリストによって神の宮とされました。神様はあなたを通してキリストの香りを放たれます。行ってらっしゃい。

水曜日, 6月 01, 2016

20160601_エゼキエル39 2コリント5

■エゼキエル39:7 わたしは、わたしの聖なる名をわたしの民イスラエルの中に知らせ、二度とわたしの聖なる名を汚させない。諸国の民は、わたしが【主】であり、イスラエルの聖なる者であることを知ろう。39:29 わたしは二度とわたしの顔を彼らから隠さず、わたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐ。──神である主の御告げ──
こうして注がれた御霊が主の復活50日目のペンテコステの出来事で、今あなたの内におられる御霊様です。

2コリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 5:18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。 5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
ただでゆるされた者に責めではなく、和解の言葉を託された。これは強いられすることではなく、ゆるされた者としてむしろ当然そうしたいと願うこと。主のなされた証しの生涯に生きる幸いを覚えます。