月曜日, 4月 10, 2017

20170415_マルコ15@01-39

■題名 教会に行くな。教会たれ!
金言 そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。(38)
 昨年度、御影福音教会の役員会では会議の冒頭で分かち合うための学びのテキストに、デイビッド・プラット著「ラディカル」(ツラノ出版)を通してチャレンジを受け取りました。まさに「教会に行くな。教会たれ!」とは何とラディカル(根源的)な表現でしょう。この表現はある韓国の教会の牧師が、礼拝の通訳として立ったときのTシャツにあえてプリントした言葉とのこと。「私たちこそが教会。ゆえに私たちは教会に行くことはできません。むしろキリストの身体なる教会として生きることが求められているのです」と。
なぜそんな大胆なことを言い得るのでしょう。その根拠を「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」(38)にみることができるのではないでしょうか。年に一度大祭司だけが通ることがゆるされた幕。しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはゆるされなかった幕(ヘブル九・7)。それが人手によらず上から裂けたとは、「わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができる」(ヘブル十・19―20)ということ。
それは旧約においては神様の臨在と祝福を求めるとき「来なさい」との招きの言葉に励まされ幕屋(神殿)に近づかざるを得なかった神の民が、今は自分自身が神殿となって、神様の臨在を持ち運ぶもの(クリスチャン)ともされたと言うこと。またそれが「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」(ヨハネ二・19)との主の預言の意味の一つであるとは。「教会たれ!」の言葉に、キリストの身体なる教会に加えられた者として納得です。この世に出て行く者(マタイ二八・19)と、世の終わりまでともにいてくださる主に信頼してお従いしましょう。
(祈り)父なる神様、十字架の完全な贖いのゆえに主の臨在を持ち運ぶものとされたことを感謝します。  
新聖歌 三四一

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

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