月曜日, 4月 10, 2017

20170414_マタイ27@45-56

■題名 その罪さえ赦される主の十字架
金言 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(46)
★昨日に続いての十字架の七言で、今日は後半部分です。「父よ、彼らをおゆるしください。」(ルカ二三・34)にはじまり「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ二三・46)との祈りで終わる七言ですが後半部の中心はこの四言です。
永遠のはじめからこのかた「神」と呼ぶよりも「父」と語りかけられるのが当然の、父なる神様と御子イエス様の関係です。それが「神」と呼ばざるを得ないとは。
そのことを思う時、統一教会によって迷わされた青年の救出のためにも命を削られた、荻窪栄光教会牧師、故森山諭先生のことが思い出されます。統一教会に入信後まだ間もない時に、先生から間違いを聞く機会が与えられた青年の中には「何だ、間違ってたんだ。これなら堂々とやめられる。」と発言した青年も。しかし、霊感商法の霊能者役として、先祖やパートナーあるいは子どものためにと多額の壺や高麗人参等を売りつけることさえさせられ、その結果いくつかの家庭が崩壊するのを目の当たりした青年はどうだったでしょう。とても「間違いだったんだ。助かった」と言う気にはなれず、そこから苦悩が始まるケースも。たとえ「イエス様を信じたら全ての罪が赦されるから」と言われても「この私が赦されるはずがない。ただで赦されるなんて、そんなことがあってはならない」と。そんな苦悩の中にある青年のために森山先生があえて語られた言葉はこうでした。「○○さん、赦されないんだよ。だからこそイエス様は、そのあなたの罪のためにも十字架の上に命を捨てて下さったんだよ。その罪の代価をご自身の命で支払うために」。その青年の目から涙が溢れ、同時にそこからその青年の新しい歩みが始まりました。
(祈り)父なる神様、自分ではどうにもならないと思っている、その罪さえ赦してくださる主の十字架に感謝します。
新聖歌 一〇八

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。



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