土曜日, 4月 08, 2017

20170409_創世記3

題名 律法主義的生き方からの回復
聖書箇所 創世記三章
金言 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。(21)
  「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」とは二章16節の主の言葉です。人が取って食べる(それによって生きようとする)とき、必ず死ぬ以外にないものとは何でしょう。まさにそれこそが、神様から離れ、自らの行いをもって神様の前に立とうする律法主義的生き方でしょう。
すでに「神のかたち」に似せて造られ、それゆえ唯一、畏れ多くも霊において神様と交わることのできるものとして造られた人アダム。にもかかわらず神様との豊かな交わりが失われてしまった理由はなんでしょう。それは試みる者の「それを食べると……神のように善悪を知る者となる」(三・5)とのそそのかしに捕らわれたことが原因です。主は創造のわざをすでに完成され「はなはだ良かった」(一・31)と語られたのにもかかわらず。試みる者の、そのそそのかしはありのままの自分では何か足りず、神様に受け入れてもらうためには、良い行いという自分の努力でなお補わなければならないかの印象を与えます。
さあその結果、誰かに認めてもらうための良い行いという皿回しの生涯のはじまりです。しかもこの皿回しは一度始めたら途中で止めることができないのです。まさにそれは死の道、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。」(ローマ七・24)との叫びをあげざるを得ない生涯の始まりです。そんな呪いの生涯を終わらせるために、父なる神様はアダムの子孫に救いの道を備えてくださいました。それが今日の金言です。罪のない動物がほふられ、血潮が流され、その犠牲によって、自分の身を守る衣がアダムとエバに着せられました。
(祈り)父なる神様、試みる者の誘惑によって、人はあなた以外で生きる道を選び取りました。しかしその直後に救いの道を備えてくださって感謝します。自らの行いに頼る皿回しではなく、あなたに信頼する生き方を全うさせてください。
新聖歌 二四七

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

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