月曜日, 4月 10, 2017

20170417_マタイ28

■題名 しかし、疑う者もいた
金言 そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。(17)
★復活の主が昇天前に弟子たちに語られた大宣教命令が、この章の中心であることはわかります。完全に成し遂げられた十字架の贖いゆえに、与えられた天上・地上にわたっての主の権威。ゆえに贖いによって、キリストの身体なる教会とされたお互いが、どちらの光がまぶしいか会堂の中で比べるのではく「世」に「出て行って」キリストを生きることの重要性も。光は闇の中で輝いてこそ意味があり、必要とされ、はじめて自己満足から解放されるのですから。またその時にこそ、召されたお互いは、ともにいてくださる主を最も近く感じることができることも。
しかしある方は、「疑う者もいた」(17)の言葉に捕らえられ、「復活の主を目の当たりにしても、私と同様に疑う弟子もいたんだ」と、そこに慰めを受け、そこから復活の意味を掘り下げる力が与えられ、やがて導かれ牧師になったと証しされました。
一体主はなぜよみがえられたのでしょう。あるいはよみがえらされたのでしょう。そもそも父なる神様が御子をさえ十字架につけることをご自身の計画とされたのは、裁きではなく、裁きの向こうにある回復が目的です。レストランの店長が求められるままにメニューを客に出すのは当然です。しかし客が精算抜きで店をあとにしようとするなら、当然店長はその客を帰すわけには行きません。けれど客が支払いを済ませたら、精算済みとして気持ちよくレシートを状差しに差通すのは当然でしょう。「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。」(コロサイ二・14)とはまさにそのことです。キリストの人類の罪に対する精算が完全なゆえに、父なる神様がそれを受け取り、その証明としてキリストを死人の中からよみがえらされたのです。ゆえにキリストを信じるあなたは決して罪に定められることはありません。
(祈り)父なる神様、感情ではなく復活の事実に基づく生き様によって、復活の主を証しできますように。新聖歌 三五九

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

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