月曜日, 4月 10, 2017

20170418_ルカ24

■題名 名もない私だけれど
金言 そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。(35-36)
★何という光栄でしょう。私も関西聖書神学校で一コマ授業を担当させていただいていますが、毎年最初の授業ではオリエンテーションも含めて学生ひとりひとりに救いと献身の証しを聞かせていただきます。確かにこの人も、この人も、主が召し出された器、そんな学生と、主の恵みを分かち合わせていただくことに感謝で、授業は毎回心が躍ります。そうした中でのある学生の献身の証しです。
「私のような者が、献身者なんかになれるはずがない。そもそも、やりたいことがあって……、けれどもかくかくしかじか、不思議な導きの中で献身の思いが湧いてきたとき『やっぱりだめ、私なんかだめ』と。しかしそのとき主はルカ二四章エマオ途上の弟子に私の心を向けてくださったんです。主と共にエマオ途上を歩いた弟子のうちのひとりの名は聖書に記されていない。にも関わらず、復活の証人として用いてくださるなんて。私もこの名前の記されていない弟子のわざならできるかも知れない。それを牧師先生に話したら、祈って神学校に行きなさいと言われたんです」。その証しが終わった時にも、確かに復活の主はそこに立ってくださって、そこを喜びで満たしてくださいました。
救われて間もなくただ主の愛に感動し、その愛に何とかお応えできたらと思う魂にとっては、復活の主がともに歩んでくださっているのに、そのお方が誰なのか、まさか「モーセや全ての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、解きあかしてくださる」(27)お方なんて分からない時もあるでしょう。しかし、主は、名のある人だけでなく、あなたが復活の証人として応答することを願ってくださっています。現に名のない彼が主を証ししたとき、そこに主は立ってくださったではありませんか。(36)
(祈り)復活の主は私が証人として立ち上がるとき、この私とも一緒にいてくださることを感謝します。
新聖歌 四二九

日本イエス・キリスト教団 聖書日課ベラカむけに執筆した原稿をそのまま掲載しました。

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