木曜日, 5月 29, 2014

20140529_出エジプト8 マタイ26@36-75

■出エジプト8:15ところが、パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり、彼らの言うことを聞き入れなかった。【主】の言われたとおりである。
★かえる、ぶよ、あぶと奇蹟は続きます。しかしパロはいよいよ心を頑なに。神様への反抗はその人に深い悲しみをもたらすことになるのみならず、その人と一緒にいる人々にも同様に及びます。それでも自分を優先し心を変えようとしないことを強情と呼びます。

■マタイ26:38そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」26:39それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
★「わたしは悲しみのあまり死ぬほど」と語られながらも、十字架を前に祈ると言うことは、主は問題から逃げておられない、与えられた使命から逃げておられないと言うことです。そこには主のご人格があらわされています。目に見える十字架による贖いの完成は、この隠された主のご人格に裏打ちされたものでした。ご人格がなければ恐れ、十字架に向き合う事ができず逃げ出したことでしょう。そこがこのあと「私は主を知らない」と逃げ出す、ペテロとの人格の違いです。自分の人格の未熟さを認めつつも、主の愛とゆるしを求めて主の前に祈りをもって近づく、そんなお互いでありましょう。主は触れて下さり強めて下さることを信じます。いってらっしゃい。

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