火曜日, 4月 22, 2014

20140422_創世記22 マルコ15@1-20

■創世記22:2神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
★年老いたアブラハムが長年待ちわび遂に与えられたイサク。それはまさに目に入れても痛くない程にかわいいわが子でした。それゆえにアブラハムはイサクを溺愛し、何千人もの僕を率いる族長でありながら、イサクの事しか見えない盲目な老人となりさがっています。このままでは僕たちの間だ不満が噴出しアブラハムの地位さえ危ぶまれます。そのアブラハムのイサクに対する溺愛に聖別を与え、本来の祝福とするためにイサクをささげよと神様は語られました。あなたはどうでしょう本来祝福として与えられた「いわゆるイサク」であるにもかかわらず聖別が出来ていないゆえに結局のところ「イサク」に振り回されているだけに留まっているものはありませんか。

■マルコ15:15それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。
★自己保身のためにいとも簡単にひるがえる群衆。棕櫚の枝を手に持って「ホサナ(主よ救ってください)」と叫びながら今や十字架に付けろとは。はたまたそんな群衆のきげんとりを優先に動こうとするピラト。まさにキリストの存在は罪人である私たちの罪を明らかに浮き上がらせます。その罪の赦しときよめのためにキリストは十字架にかけられたのです。あなたがいのちに輝くために。いってらっしゃい。

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