木曜日, 4月 11, 2013

20130411_マタイ9@18-38 創世記28-29

■マタイ9:21 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と心のうちで考えていたからである。
9:28 家に入られると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか」と言われると、彼らは「そうです。主よ」と言った。
★ここには「主にはできる」との信仰をもって主に近づく人々の姿が描かれます。主はそれを見て喜ばれ事実力をあらわされます。あなたの主への信仰は?

■創世記28:20それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、28:21無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、28:22石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」
★長子の権を奪われた兄の殺意を逃れるために母の生まれ故郷に逃れる途中のヤコブです。孤独は必ずしも不幸ではありません。そこは自分の姿を反省し、神様の御声にあずかれるチャンスの時でもあるのですから。孤独より恐ろしいのは孤独を恐れてひとりになれない依存体質です。

■創世記29:25朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。「何ということを私になさったのですか。私があなたに仕えたのは、ラケルのためではなかったのですか。なぜ、私をだましたのですか。」
★ヤコブの今までの生き方を知ったラバン伯父さんが、ヤコブを軽んじたためでしょうか。ヤコブをだまし、ヤコブを利用しようとし始めます。蒔いた物を人は必ず刈り取るのです。あなたの人生において愛と善意の種を蒔きましょう。必ずやがてあなたは祝福と喜びを刈り取ります。ヒデ

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