日曜日, 4月 22, 2012

20120422_創世記25-26

■創世記25:28イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。

★この後イサクとリベカの二人の息子エソウとヤコブの間には悲しい溝が生まれてしまいます。二人の息子の個性の違いを喜び、それを肯定的に評価していたならば……。しかしそれが出来ないことが人間の性、罪深さです。その結果をこのイサク・ファミリーはこれから刈り取って行くことに。しかしその中にも神様の憐れみの御手は鮮やかで、かつこの家庭から離れることはありません。自らの内に巣くう原罪、罪深さに涙し神様に憐れみを求める人は幸いです。しかし現実、多くの人は、その強さの中で、立ち止まることなく押し切って行ってしまうのです。残念です。



■創世記26:6イサクがゲラルに住んでいるとき、26:7その土地の人々が彼の妻のことを尋ねた。すると彼は、「あれは私の妻です」と言うのを恐れて、「あれは私の妹です」と答えた。リベカが美しかったので、リベカのことでこの土地の人々が自分を殺しはしないかと思ったからである。

★あらあら不思議、どこかで同じような話を聞いたことがありませんか。そう、イサクの父であるアブラハムが、自己保身のためにエジプトに下るとき(12:11-)と、ゲラルの王アビメレク(20:2)前で妻サラのことを妹と偽った態度と同じです。罪は侮るべきではありません。家系の人格的弱さ、罪深さは残念ながら、こうした形となって流れます。流される愛に偽りが混じり込んでいるからです。だから救いが必要なのです。蒔かれた家系の呪いをせき止め、祝福の命を流すためにキリストはあなたのために十字架の上で命を捨てて下さいました。さあ躊躇するこの愛の中に飛び込み、キリストの愛と血潮によって洗い清めて頂くのです。ヒデ

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