火曜日, 5月 24, 2011

20110524_レビ5@1_使徒14

■レビ5:1人が罪を犯す場合、すなわち、証言しなければのろわれるという声を聞きながら──彼がそれを見ているとか、知っている証人であるのに──、そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負わなければならない。
★弱い立場に立たされている者があり、その人を助けることのできる鍵を持ちながら、保身のために心を閉じることを私は喜ばないと主は語られます。主が預言者ミカを通して「人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」と語られた言葉を思い出しましょう。

■使徒14:22弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。
★主の弟子パウロは伝道旅行でルステラに訪れたとき、生まれながら足のきかない人を癒やします。しかしユダヤ人の反感を買った彼は石で打たれ半死半生の身に。いえ彼らは死んだ者と思って、パウロを町から引きずり出したのです。そんな中、上の御言葉はパウロが奇跡的に蘇らされたとき弟子たちに語った言葉です。「キリストの贖いは完成したのに、神の国に入るのになぜ多くの苦しみを受けなければならないのか。」これは私の敬愛するH牧師が救われた直後の青年の時、疑問を抱き教会の牧師先生に尋ねた言葉でもあります。その答えを水野源三さんは「もしも私が」と次に詩によって表現しました。
もしも私が苦しまなかったら神様の愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら神様の愛は伝えられなかった。もしも主イエスが苦しまなかったら神様の愛は現われなかった。
昨日から福島で震災復興の奉仕をさせて頂いています。癒やしのため少しでも用いられるようにお祈り下さい。明日までです。ヒデ

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