木曜日, 7月 11, 2019

20190711_ガラテヤ2

■13そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。
14しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
★ユダヤ主義者はパウロを、異邦人に受け入れやすくするために福音のレベルを落としていると非難しましたが、パウロはユダヤ主義者を、福音に条件を加えることによって、真理を無効にしていると非難しました。救いはキリストだけによるものなのか、キリストと律法を通して与えられるのか。ペテロ、パウロ、ユダヤ主義者、そして一部の異邦人クリスチャンが食事を共にするためにアンテオケに集まったとき、議論は頂点に達します。ペテロは調和を乱さないよう、異邦人から離れます。 ヤコブやユダヤ人クリスチャンの感情を害したくなかったためです。パウロは、そんなペテロの行動は福音を冒漬していると非難しました。ペテロは、キリストは救いに十分ではないというユダヤ主義者の主張を結果的に支持するかたちとなったのです。妥協は、他の人と仲よくやっていくための重要な要素ではありますが、神様のみことばの真理を決して危うくしてはなりません。

日約聖書を学ぶことを通して、パウロは神の律法に従うことによって救われることはできないことを悟ります。法的な意味では、神様は、私たちをキリストとともに死んだ者として見ておられます。私たちの罪はキリストとともに死んだので、私たちはもはや責められることがありません。関係においては、私たちはキリストと1つになったので、キリストの経験は私たちの経験となります。私たちのクリスチャン生活は、キリストにつぎ合わされて、自分の古いいのちに対して死んだときに始まりました。日常生活においては、私たちは、自分をキリストに従わないようにさせる罪深い欲望を、いつも十字架につけなければなりません。このこともまた、キリストとともに死ぬことです。しかし、キリスト教の焦点は死ぬことではなく、生きること。法的な意味では、私たちは神と和解したので、キリストのかたちと同じ姿に自由に成長することができます。

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