日曜日, 1月 23, 2011

20110123_創世38_詩篇41-43_マタイ25

■創世記38:1そのころのことであった。ユダは兄弟たちから離れて下って行き、その名をヒラというアドラム人の近くで天幕を張った。
★ヤコブの12人の息子の一人ユダがどうして父と他の兄弟のもとを離れて住むようになったのかを考えるとき、かつて自らが語った、「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。」を抜きに考えられません。ひょっとすると長男ルベン同様、他の兄弟の殺意からヤコブを何とか救いたかった、あるいはほんの出来心で「エジプトに売ろう」と言ったのかものかも知れません。しかしここに罪を犯す恐ろしさを思い知らされます。罪とは人が負い切れるものではないのです。その結果、ユダは自分を責め、父のもとを離れヒラの地へ。では私たちが故意にしろ、ほんの出来心、あるいは不注意であっても罪を犯した場合、どこに行けばよいのでしょう。その答えはキリストです。十字架で「彼らを赦して下さい」と執り成し、「私のもとへ来なさい。休ませてあげよう」と語られたキリストの言葉を掘り下げ、深く受け取りましょう。あなたの前には既に恵みによる赦しが広げられています。

■マタイ25:40すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
★ここにはキリストの愛の深さ広さ長さ高さが鮮やかです。キリストは「最も小さい者にしたのは私にした」と明確に語ります。あなたは隠れた所における愛と施しに勇気を持てませんか。あるいはもっと自由に大胆に愛を現すことのできる人になれたらとの願いをお持ちですか。マザーテレサは「私は渇く」との御言葉と、この箇所の御言葉で、最も弱き人々の中にキリストを見出し、その生涯が変えられました。信じて下さい。キリストの身体、すなわち教会としてあなたが生きようとする時、そこには必ずキリストが共におられ、喜んで下さっていることを。そしてそんなあなたを主は決して、御国に於いても退けなさらないのです。ヒデ

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