月曜日, 1月 10, 2011

20110111_創世20-21_詩篇23-25_マタイ13

■創世記21:1主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。21:2サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
★それはアブラハムに神様が「父のもとを出て私の示す地に行きなさい」と語られた25年目のことでした。確認しましょう。主が語られたことは必ず実現へと導かれるのです。その途中には一度ならず2度までも「これは私の妹です」と、自らとサラの関係が夫婦であることを隠し、肉策我策、自己保身の心で問題に臨もうとしたことも否めません。それでも主は、ご自身を見上げるアブラハムに、その時その時関わって下さり、信仰の父と呼ばれる器へと立て上げて下さったのです。自分に失望してはなりません。主に望みをおくのです。「この私をも神様は造りかえることができる」。主はアブラハムのこの信仰のゆえに、彼を義とし、信仰の父、やがて神の友と呼ばれることを恥とされなかったのです。

■マタイ13:23ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
★道ばたに落ちた種。岩地に落ちた種。いばらの中に落ちた種。そして良い地に落ちたものは30倍60倍100倍と。しかし大事なことは、人の心に関して最初から良い地はないと言うことです。神の言葉に示されて、聖霊様のあたたかな配慮のもと、罪を悔い、弱さ傷を認めて、励ましを受け取った結果、実を結ぶ良い地とされるのです。悔い改めてない罪は自己弁護、自己保身をもたらし。癒されていない傷を認めない場合は、時には自分は無意識の中にあっても結果、攻撃的人生の中で相手を傷付けざるを得ません。赦しと癒しは既に主の中に。恐れないで心を開き、神様の恵みの中に飛び込む時、そこから神様の不思議がはじまります。ヒデ

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