日曜日, 2月 20, 2011

20110220_出エ31-32_詩篇89_1コリント1-2

■出エジプト32:31そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。32:32今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」
★モーセが民のためにシナイ山に登り神様から十戒を授かっている時、民は何を求めたのでしょう。金の子牛です。「モーセが山に登って早40日になるのに彼が何をしているか分からないのです」と。彼らは戯れるためにアロンに金の子牛を作ることを求めたのです。神様を何か刻んだ像にたとえたり、あるいは偶像を神として礼拝すること、これは恐るべき罪であることを知りましょう。その生涯はやがて混乱と恐れが支配するようになります。
そんな中、モーセは自らの命を懸けて民をとりなします。私たちの主もそうして下さり、実際に十字架の上で命を捨てて下さったのです。あなたの失敗は赦されます。あなたの混沌も解決します。あなたは主に愛されています。ですから偶像礼拝を神様の前に悔い改め、まことの神様の前に立ち帰るのです。

■1コリント1:10さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。1:11実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、1:12あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。
★主を信じた人の中にさえも根深い所で扱われていない罪の性質が。ですから聖めと癒しが必要です。神の民に求められること、それは自尊心を満足させる優越のために心を内向きに働かせることではなく、むしろひとつになることをめざし、愛のゆえに心が開かれた外向きのものとなるよう、絶えず神様の恵みに投げ出して行くこと。「心の向き」それがその人の人格と永遠を形づくります。ヒデ

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