火曜日, 2月 08, 2011

20110208_出エ16_詩篇70-71_マルコ4

■出エジプト16:3イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」
★モーセと共にエジプトを脱出したイスラエルの民にとって、これから起こることは全て初めての経験です。その中で思うように食料を得ることが出来なくなった時、民の多くはどうしたでしょう。それが上の言葉で、彼らはつぶやいたのです。ここに主体性のない群衆の心があぶり出されます。「させられている。……させられる。」あなたは未経験のことに取り組むときどんな心で取り組むでしょう。リーダーの心でしょうか。群衆の心でしょうか。大切なことは主体性を持ち、可能な部分で責任を負い合おうとする姿勢です。そこで一致がもたらす喜びを人は体験し、成熟へと向かうのです。

■詩篇71:3私の住まいの岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください。あなたこそ私の巌、私のとりでです。

■マルコ4:8また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」4:9そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
★ここに一つの原則が。種とは自ずと実を結ぶ命を内にたたえたもの。よっていかにその命が自由に動けるようにするかがポイントです。「何を付け加えなければならないのか」ではなく、いかに命の妨げとなっているものを取り除くかの視点です。そして命を覆い隠すものとはなんでしょう。聖書はそれを世の心づかい、富の惑わし、いろいろな欲望と表現します。信じましょう。人と較べなければあなたは既に十分のものを主から受けているのです。なぜならキリストがあなたの内に住んで下さっているのですから。ヒデ

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