木曜日, 7月 22, 2010

20100722_2サムエル7_エレミヤ12_マタイ23

■2サムエル7:18ダビデ王は行って主の前に座し、そして言った。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。
★ダビデは周囲のすべての敵から守られて王国が確立した時、預言者ナタンに「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」と、主の為に杉材の神殿を建てることを自ら進んで願い出ました。その動機と志を喜ばれた主はダビデにとこしえの王国と子孫の繁栄までも約束して下さったのです。その恵みの応答として告白したのが上の御言葉です。この世は自分が栄光を受けようとそれを奪い合います。しかしその前には必ず、当然ささげるべき主への感謝があり、そこには大きな報いが伴うのです。

■エレミヤ12:1主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。
★神の裁きに対する疑問がぬぐえない預言者エレミヤ。主は何とあわれみ深い、深すぎる?お方でしょうか。しかし「毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ」と世の終わりには二度と覆すことのない正しい裁きを為されるのです。峻厳なる神様に委ねるべき裁きは委ね、今日あなたが生きるべき道があるのです。

■マタイ23:25わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。
★十字架を前にし「偽善なるかな律法学者、パリサイ人たちよ」と激しい主の叱責が続きます。しかし主の目には涙があったことを忘れてはなりません。単に滅ぼし退ける為ではなく回心を願ってのそれなのです。キリストにある者の動機。それはいつも愛であるべきです。主にあるあなたの心から湧き出る愛が、今日も人々を生かしますように。ヒデ

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