金曜日, 4月 29, 2011

20110429_創世33_ルカ13@10-30

■創世33:3ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。33:4エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。
★一番注目して欲しいのは「ヤコブ自身は、彼らの先に立って」です。21年ぶりの兄エサウとの再会において、神様が彼の腰の骨に触れて下さる前(自我を砕いて下さる前)には自分がいつでも逃げられるように、一番後に身を置くものでした。それが先頭に立つ者、すなわち責任を取る者へと変えられたのです。人は神様を真に畏れるまでは、どうでも良いものにさえ恐れ、果たすべき責任も果たすことが出来ません。すなわち私たちに取っては神様を畏れ、キリストの十字架による自我の砕きを受け入れるとき、本当の意味で自らを守る事のできない物から解放され、十字架によって自らを守り、立ち上がる者とされるのです。あらゆる者から__c19__を守る事ができるものは十字架以外ないことを心に刻みましょう。

■ルカ13:24「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。
■主は安息日に病の霊につかれ、腰を全く曲げることのできない婦人を癒やされました。すると会堂管理者は「安息日以外に人を癒やせ」と憤ります。その時の主の反論が上の言葉です。ここでいう狭い門とは何でしょう。それは「律法主義に陥る者ではなく、愛に生きる者でありなさい」でした。多くの場合、律法主義は内向きの心で、自己肯定のための道具に化かされます。実際の必要に仕えるため、愛することを、心を注ぎ出すことを、すなわち狭き門を通ることを選び取りましょう。ヒデ

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