月曜日, 4月 25, 2011

20110425_創世24@12・26-27_ルカ9@37-62

■創世24:27言った。「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」
★主人アブラハムに信頼され、全財産の管理を委ねられていた年長の僕は、アブラハムからひとり子イサクの嫁探しを命ぜられ、アブラハムの生まれ故郷へと向かいます。そこで自分のためにも、井戸から水をくみ、家畜のためにも走って井戸から水を汲んで飲ませてくれる、アブラハムの親戚の娘リベカに出会います。上の御言葉はその時のアブラハムの僕の喜びの言葉です。人は何を悲しみ、何を憤り、また何を喜ぶかによって、その人が現わされます。アブラハムの僕は主人の命に生き、その事が実現したとき、最高の喜びを表しました。あなたは主からこの世に遣わされた者として、何を喜ぶものでありたいですか。

■ルカ9:62するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」
★これは「主よ。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます」と語るある人に、イエス様が語られた言葉です。この世を優先するか、キリストに従うことを優先するか、その選択によって私たちはつくられます。その生涯で、価値あることを成し遂げるためには、どれほど多くの人が決断し、その人生を聖別して一つのことに向かうことでしょう。スポーツ選手しかり、研究者しかり。あなたは何に向かって聖別するものでありたいですか。自然に生きる人生と、価値ある何かを成し遂げるために、あえて聖別する人生の違いについてこの朝、考えてみませんか。ヒデ

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